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第8話
カシャカシャと泡立て器がボウルの中の液体を混ぜる音がキッチンに響く。
後ろではカイが独特な音程で鼻唄を歌っていた。
歌詞までは分からないが、数年前に流行った韓流アイドルの歌だろうという事が辛うじて判断できる。
カイの母親であるあの女は流行り物にも敏感でわざわざ韓国にまで行って来たのだと言って俺達へブランド物の財布を買ってきたと言って渡された記憶がある。
そのブランドはイタリアの物なのにわざわざ韓国で買わなくてもイタリアに行けばいいのにと思ったが、そんなこと顔にも出さずありがたく受け取っておいた。
流行に疎いカイの事なので当時あの女が聴いていた曲を覚えてしまったのだろう。
どう考えても音程もおかしいし、変な所で転調していて原曲すら危ういが歌っている姿はそれはそれは天使の様に美しいのだ。
「ごきげんだね?」
「だって誉。これが喜ばないわけないだろ?」
「最近頑張ってたもんね」
俺が手を止めてカイへ声をかけると、ニコニコとしながら小首をかしげた。
その仕草が凄く可愛くて俺は目眩がする。
前日に来ていた小包を渡してから、カイはとてもご機嫌だった。
小包には大手オンライン書店のロゴマークが印刷されており、有名な科学雑誌のバックナンバーが入っている。
近所の書店にはそんな専門雑誌など置いてある筈もなく、学校の図書館はずっと貸し出し中なのだと落ち込んでいたので取り寄せができることを教えてやると俺に取り寄せするようにおねだりしてきたのだ。
そんな事を自分でしろとはけして言わない。
何もできないからこそお世話のしがいがあるのだから。
俺はカイのおねだりに喜んで書店で注文をして家に配送してもらえるように手配をしたのだった。
「カイはそれを読んじゃうとご飯を食べなくなっちゃうから、別の本にしてね」
「えー。ちょっとだけ!ちょっと目次だけでも読みたい!」
早速小包を開けようかしているカイに釘をさしておいた。
俺の言葉にぷくっと頬を膨らませるが、それ以上小包を開けようとする素振りを見せなかった。
こう言う所はきちんと言うことを聞くいい子なのだ。
しかし、名残惜しいのか小包をずっと撫でているが俺は首を横に振った。
「だーめ。折角カイのリクエストで野菜たっぷりのキッシュ作ってるんだから、できたてを食べて欲しいな」
「でも、まだ時間かかるだろ?」
「あと卵液を流し込んで焼くだけだし、そんなかわいい顔してもダメだよ。本は逃げないんだから、別の本にするかテレビでもみてなさい。新聞でもいいよ」
俺はマフィン型に伸ばした冷凍のパイシートを敷いた所に小瓶から黒い粉末を振りかけてその上に切っておいたミニトマトや玉ねぎ、下茹でしておいたほうれん草とじゃがいもとブロッコリーをまさにぎゅうぎゅうに入れてから上にチーズとベーコンを乗せて卵液を注ぐ。
自分の分は面倒なので後でオムレツ風にして食べる為にフライパンに具材とカイの分を型に注いだ残りの卵液を入れて火をつける。
予め余熱しておいたオーブンに具材の乗ったマフィン型を入れて扉を閉めた。
「誉のケチ!」
「ふふふ。“ケチ”なんて言葉カイには無縁だろうに、何処でそんな言葉覚えてきたの?」
「俺だってそれくらい新聞読んでたら出てくるから知ってるし!」
「経済新聞なはずなのに、随分世俗的な言葉が出てくるんだねぇ」
オーブンの扉を閉めたのを見計らってカイが文句を言ってくるが、お金持ちの御曹司であるカイには“ケチ”という言葉は無縁だった筈だ。
何かを節約しなくても何でも言えば手に入る身分なのだが、あの女や祖父のせいでしなくてもいい我慢は多かった事だろう。
しかし、あの女にしても院長にしてもカイの兄である航にしても“ケチ”とは無縁だ。
どちらかと言うとカイの言うとおり俺は“ケチ”な方だが、表には出していないしカイにはそういう面は見せていないのに一瞬不思議に思ったがすぐに答えが返ってきた。
まだ先だが卒論に向けて取りはじめた経済新聞にそんな世俗的な事が載っていただろうかとも思うが、俺が読む記事は決まっているがカイは活字中毒なので新聞を隅から隅まで読んでいるのでカイが言うならば載っていたのだろう。
俺はフライパンの火を弱火にしてリビングに向かう。
「むぅ」
「だって本読んでたらなかなかお返事しないでしょ?このお口は?」
「最近はちゃんと気を付けてるし」
「5回に1回あったらいい方だね」
「そ、そんなことないし!むっ!」
ソファーの上で恨めしげに小包を見るカイの唇に人差し指でちょんっと触れる。
俺が手入れをしているお陰でぷるんとした少し肉の薄い唇は白い肌に対比して真っ赤で口紅を塗っているのかと思うほど赤い。
それも可愛くて尖らせた唇を親指と人差し指で軽く摘まむと驚いた顔をするのでまたふふふと笑いが込み上げる。
むーむーと怒りながら腕を振り上げるので、俺は当たらないように避けながら立ち上がった。
「もうちょっと時間かかるから待ってて」
「おい!こらっ!」
「ごめんごめん。これで機嫌直して?」
「ちょっ!」
唇から手を離してキッチンへ向かおうと身体をずらす。
カイの眉毛がぎゅっと上がるのを見ながらチュッと唇に軽くバードキスをすると信じられないという顔で見上げてくる。
しかし俺はカイの頭を撫でてキッチンへ戻った。
「おっ、いい感じ」
フライパンに乗せていた蓋を取ると、ふわっと湯気があがる。
鍋肌に触れている部分の卵液が固まりはじめていたのでフライ返しで片側に寄せた。
ふわりと卵の焼けている匂いがしてきて自然と腹が減ってくる。
折角なので余った野菜で何かもう一品作ろうと鍋を取り出す。
鍋にオリーブオイルを入れて冷蔵庫からニンニクのチューブを取り出した。
鍋にニンニクチューブを絞り出して、キッシュに入りきらなかった具材を鍋に入れる。
今度は野菜庫から人参とセロリを取り出して適当に切ってから炒めはじめた。
じゅうと音がリビングにも届くとカイがそわそわとしはじめる。
食に興味の薄いカイだが、俺が作る料理は喜んで食べてくれるし料理をしているのを直に見ることも料理の音や匂いもこんなに近くで感じたことが無かったと引っ越してきてこの家で初めて料理した時に言われた。
だからカイは興味の無い風を装ってはいるが、俺が料理をしているのを見るのが好きなのだとか。
なんだか子供みたいだが、完成した物が出てきて調理行程を見たことがなければ物珍しいだろう。
「カイ。見たいなら見に来てもいいよ」
「ん!」
油はねもするし、湯気などで火傷されても困るので俺の許可がないとキッチンには近付いてこないカイへ声をかけた。
何をするでもなくこちらを気にしていたカイは待ってましたとばかりにこちらにやってくる。
普段は暇な時に作り置きした物を出しているので、カイの前で料理を作る頻度は少ない。
今回のミニキッシュも少食のカイには当然食べきれないだろうから冷凍しておくつもりだ。
おそるおそるダイニングカウンターに近付いてくるカイを眺めながら俺はホールトマトの缶を開ける。
パキュッという音に少し驚いた表情をするカイを見ながら俺は鍋にホールトマトを入れた。
缶に水を入れて軽く回してもう一度その水を鍋に入れ、コンソメを鍋に放り込み蓋をする。
「面白い?」
「別に…」
「でも、ミネストローネは好きでしょ?」
「好きだけど、何でキッシュはフランス料理なのに、イタリア料理のミネストローネにしたんだ?」
「おっと?」
俺の手元を見ていたカイはつまらなさそうな顔をしているが、小首をこてんと傾げて聞いてきた事が予想外過ぎて俺は少し考える。
料理には興味がない癖に、変に知識はあるので思いもよらない疑問を投げ掛けられてしまった。
端的に言うならば、キッシュはチーズも生クリームも入っていて少し重いのでさっぱりとしていて、でも酸味も旨味もあった具沢山のスープと考えた時に思い付きでミネストローネにしようと思っただけなので国まで揃えて料理をしようとまでは思わなかった。
「うーん。野菜がいっぱいあったし、ホールトマトもあったから思い付きかな」
「ふーん」
俺は素直に答えたが、自分で聞いておいて俺の返答に興味無さそうに返事してくるカイに本当に小さな子供みたいだなと思う。
実習で行った小児科の子供達も、自分から色々聞いてきたのに俺が質問に答えるとふーんと興味を無くすのだ。
それと全く一緒だなと密かに思いつつ俺はオーブンを覗き込む。
卵液がふつふつとしており、オーブンの残り時間を見るとあと少しで焼ける時間だ。
一応自分用にバゲットでもリベイクしようと棚の端にあった少し食べてあるバゲットを手に取る。
マンションの近くにある人気のベーカリーのバゲットはクープも綺麗で毎回包丁を入れるのも楽しい。
パンを切る為の包丁を取り出してザクザクいわせながらパンを切っていると、それは面白いのかカイがじっと見ていた。
カイに見守られながら切ったパンに霧吹きで軽く水をかけてトースターにパンを並べる。
「じゃあカイにミッションを与えます!机の上を綺麗にしてきて?」
「えー」
「大丈夫!昨日もできてたよ」
「仕方ないなぁ」
部屋に料理の良い香りが漂いはじめる。
何もできないカイへお手伝いという名目で机を片付けるミッションを与えてやると、嫌そうな顔をするが俺は濡れた布巾を手渡して励ます。
渋々といった感じでダイニングテーブルに向かう背中を見送りながら、俺は冷凍庫から氷を取り出す。
氷は水風船の要領でゴムの中に入っているので、流水で回りを少し溶かしてからハサミで上部を切ってからゴムの中から氷を取り出してカイのスープカップに入れた。
鍋を開けると湯気が立ち上ぼりトマトの強い香りがする。
塩コショウで味を整えて完成だ。
「カイ終わった?」
「余裕だし」
大して物を乗せてはいなかったが机の上の物を端っこに寄せただけで布巾の使い方もおかしいが、カイなりに精一杯やっているのを見ながら俺はスープをカップに注いだタイミングでオーブンからもトースターからもタイマーが終わった音がする。
とりあえず一つだけマフィン型を取り出してトングでプレートに2つ程キッシュを乗せてそこにスープを置く。
別のプレートの上に自分の分のオムレツとバゲット、スープを乗せて両手に持ってテーブルに向かう。
案の定拭けていない所が光っていないので分かるが俺は気にせずプレートをテーブルに置いた。
「上手に片付けできたね」
「当然だろ」
「はい。温かいうちに食べよう」
「ん!」
褒めてやるとカイは嬉しそうにしてから椅子に座って行儀よく手を合わせて料理を食べはじめる。
俺はカイが食べる姿をニコニコと笑いながら眺めていた。
「どうした?」
「おいしい?」
「すごくおいしい!」
「そう。それは良かった」
お坊っちゃまなカイはフォークとナイフで小ぶりに作ったキッシュを小さく切ってふぅふぅと息を吹き掛け、なんとか冷ましながら食べようとしていた。
なんとか冷まして一口目を口に入れ飲み込んだのを見計らって声をかけると嬉しそうに返事をしてくれる。
キッシュを一つ食べた後はスプーンでミネストローネを掬ってこれまた一生懸命ふぅふぅと息を吹き掛けてからパクリと口に含んだ。
「これもおいしい」
「お褒めに預かり光栄です」
「は?何言ってんだか!」
おいしいおいしいと食べる様子を見ながら俺はえもいわれぬ感情で胸がいっぱいになっていた。
キッシュには俺の髪の毛を燃やしてから丁寧に乳鉢でキメの細かい粉末状にしたものが入っており、スープにはコンドームごと凍らせた精液を解凍した物が入っているのだから。
俺の一部がカイの栄養になってると考えるだけで嬉しくてたまらない。
俺もスープを一口飲むとトマトの仄かな酸味の後に野菜の甘味を感じる。
この味なら精液の味は隠せるのではないだろうかと考えながらカイとの穏やかな食事は進んで行くのだった。
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