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第3話

 東の後を付いて辿り着いたのは葉桜が生い茂る公園のすぐ近くだった。比較的新しいアパートで、エントランスがあり頭上には防犯カメラが設置されている。東が鍵を取り出し、鍵穴に差し込んで回すとガラス張りのドアが開いた。迷いなく歩き出す東の後ろを、ハッとして付いて行く。学生アパートと聞いていたから、もっと汚くて狭いところをイメージしていた。1階の1室の前で足を止め、東が部屋の鍵を開ける。 「先に入って」  東に促され、一足先に部屋に足を踏み入れる。半畳ほどの狭い玄関、すぐ左手側には洗濯機が置いてあった。その隣にはキッチン、狭い廊下を挟んだ右手側のドアはユニットバスといったところだろうか。倉本が玄関で突っ立っていると、急に部屋が明るくなった。東が玄関と廊下の明かりをつけ、狭い玄関に入ってきた。邪魔になるので、急いで靴を脱ぎ廊下に上がる。 「綺麗にしてるんだな」 「昨日片づけしたに決まってるじゃん」  東が荷物を廊下に放り出し、靴を脱ぎながら答える。 「その代わり、クローゼットの中とかめちゃくちゃ汚いから」  東に話を合わせて苦笑いをした。ほこりひとつない廊下、無駄なものが一切ない収納されたキッチンを見る限り、きっとクローゼットの中も整理されているのだろうと思う。  突っ立っていたら邪魔になると思い、真っ直ぐ廊下を進んだ。開けっ放しの扉の向こうには、ベッド、ローテーブル、テレビ、学習机と小さな本棚が置かれた部屋があった。部屋を見回し、照明のスイッチを探していた時だ。急に後ろから抱き締められ、ビクリと身体が硬直した。 「倉本」  耳元で東が倉本を呼んだ。熱い息が髪にかかり、鳥肌が立つ。このような展開を全く想像しなかったわけではない。だが、実際起こってみると身体が動かなかった。部屋はしんと静まり返っていて、自分のやかましい心臓の音だけが聞こえる。どうしよう。血の気がひいていく頭で思索を巡らせていると、東の部屋の鏡が目に入った。倉本の顔は青ざめ、腰が引けている。倉本のすぐ後ろに立つ東は、鏡には気付いていない様子で思いつめた表情でじっと一点を見つめたまま動かない。客観的に置かれた状態を見たら、頭が冷静になった。ごく、とすぐ頭上で生唾を飲む音が聞こえた。血の気が引いていた頭に、今度は逆にカッと血が上った。肘で東を押しのけると、簡単に身体が離れた。 「こういうことするなら、俺帰る!」  東を押しのけ、狭い廊下を引き返して玄関へ向かった。 「え、待って!」  今度は東が青い顔をして倉本の腕を掴む。 「ごめん、調子に乗った! もうしないから。お願いだから、帰らないで」  倉本は本気で帰るつもりだったし、金輪際東とは関わらないつもりだった。倉本の腕に爪を食い込ませる東は、顔色が悪く今にも倒れそうだった。こんな東を今まで見たことがなかった。少なくとも倉本の知っている東はいつも明るく笑っていて、サッカーの試合で負けた時でさえ悔しそうな表情を見せるのみだった。倉本が大きな溜息を吐く。 「もうしないって、約束してくれる?」  せっかく縁を切るチャンスだったのに、結局流されてしまっている。しかも今度は自分の意思で流されてしまった。このまま帰ったら本当に東が死んでしまいそうな気がした。  東の部屋は、慣れてしまえばなかなか快適だった。合鍵は2回目に呼ばれた時に受け取っていたが、やはり家主不在の部屋に上がり込むのは気が引けてまだ一度も使用していない。コンビニで待ち合わせをして、東の部屋で夕飯をとる。今までは家に帰ってから遅い夕飯をとっていたが、何回か帰りが遅いことが続いたために親に怪しまれ、友達の部屋で宿題をしてから帰ってきていると話をしてある。親に吐いた嘘は2つ。友達と言ったが、東は友達とは違う。付き合っているのだから恋人とか、彼氏とか言うべきなのだろうが、倉本にとっての東は説明し難い相手である。それから、宿題をしてから帰ってきているというのも嘘で、正確にはゴロゴロしながらゲームを満喫している。親の視線は気にしなくてもいいし、東は何も言わないから気楽なものだ。ただ、時折向けられる熱を帯びた視線が気になるが、約束通り指一本触れてこないし害はない。  学校では他人のふり、放課後は恋人ごっこ。二律背反の生活がひと月ほど続いた頃だった。東に仄めかされ、誕生日が近いことを知った。その時は興味がないふりをして受け流したが、いつもお世話になっているし、何かしようと密かに企てた。  正確な日にちは、交換した連絡先に律儀に記されていた。東の誕生日は平日で、倉本の予備校がない日だった。東からは一方的なおはようメールが来ていたのみで、学校では一言も言葉を交わさない。いつも通りの学校生活を過ごした。  放課後、倉本は初めて東の合鍵を使った。料理とケーキとプレゼントを揃えられるほど余裕がないので、近場のケーキ屋でショートケーキを2つ用意した。  だんだん部屋が暗くなってきたため、明かりを付けた。外が完全に暗くなった頃、玄関先で物音が聞こえた。 「あれ、明かり付いてねえ?」 「消し忘れ?」  ずいぶんと賑やかだと思ったら、複数の男の声が聞こえてドキッとする。足音が近づいてきてドアが開くまでの間、喉まで何かがせり上がってきて吐きそうだった。 「えっ、誰?」  ローテーブルの前に座ったまま動けないでいる倉本の姿を認めて、東を含めた4人のうちのひとりが声を上げた。東といた3人は、同級生で東と同じサッカー部員で、教室や廊下でよくつるんでいるのを見かけた。制服姿で如何にも部活終わりといった大きなバッグを肩に掛け、2Lのペットボトルが入った大きなレジ袋を下げていた。 「ストーカー?」  嫌疑をかけられ、倉本は縋るように東を見上げ絶望する。自分も酷い顔をしていたのだろうが、東は今にも倒れそうなくらい青い顔で突っ立っていた。 「確かこいつ、去年一緒のクラスだった……」  誰かが発した言葉を全部は聞かずに、倉本は弾かれたようにバッグを手繰り寄せて立ち上がる。扉を塞ぐように立っていた同級生の間をすり抜けて廊下へ飛び出し、靴に足を突っ込んでかかとを踏んだまま部屋を飛び出した。公園まで走って逃げて来たが、誰も追ってくる気配がなかった。 「ははっ」  両膝に手を付いて肩で息をする。呼吸が収まってきた頃、不意に口から乾いた笑いが漏れた。冷静に考えてみれば、倉本が逃げ出す理由などなかったのだ。鍵は東から預かっているものだし、いつでも自由に来ていいと言われていた。別に盗みなど働いていたわけではないし、堂々としていればよかった。  雨が降っているわけではないのに、アスファルトに一粒雫が落ちてシミが広がった。近い場所に、もう一粒。倉本が鼻をすすり、東が似合うと褒めた眼鏡を外して乱暴に袖で目を擦った。ひとしきり泣いた後、重々しく長めに息を吐きだし、街灯の少ない暗い夜道を歩きだした。  吐く息が白くなることはなかったが、寒い夜だった。ふと足を止め、東の番号を着信拒否に設定し、連絡先は削除した。同じ学校だし合鍵も持っているのだから、会おうと思えばいつでも会えた。だが、これで東とのつながりが一切なくなったような気がした。心にぽっかりと穴が開いているような虚無感に支配され、もしかしたら自分も東が好きだったのではないかと思った。首を振って、妄想を外へ追いやる。全てが馬鹿らしかった。

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