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第13話

 背中に巴炎(ともえ)の厚い唇が当たった。咲桜(さくら)は咬まされた布で歯を食い縛り、畳の目に爪を立てた。  びゅく、と血を吸われる。痛みと熱とくすぐったさに背筋が(しな)る。 「ん、ふ……」  巴炎の咽せる声が聞こえ、直後にびしゃりと生々しい水音が爆ぜた。  柔らかな唇が素肌に触れ、血を吸い、吐き捨てられていく。この作業が何度か繰り返された。くたりとした咲桜の肉体を大きな腕が支える。 「大丈夫かい、陸前高田(りくぜんたかた)くん……」  口元を真っ赤に濡らした巴炎が咳混じりに気遣った。 「平気……です、」  刺し傷は熱と痛みだけではなくなっている。爛れたような疼きは巴炎の唇が触れてから起こっている。 「これから熱が出ると思う」  厚みのあるのは唇だけではなかった。大きな掌が肩を押さえる。酒臭さが鼻腔を刺す。傷口に液体をかけられ、痛みに喘いだ。 「あッ……、ぐ………っ」 「……すまない」 「いいえ……っ、」  布が肌を軽く踊って血と酒を拭いていく。 「陸前高田くん……庭番を庇ってくれたことには感謝する。この礼は言葉では言い尽くせない……」  ある程度、患部周辺を清めた布が下げられ、それは野州山辺(やしゅうやまべ)の当主の大きな手の中で揉みくちゃにされていた。 「ただ、君の御身(おんみ)に何かあったらと……」 「ご心配をおかけして、申し訳ない」  巴炎がゆるやかに首を横に振った。 「君の謝ることではないのだよ。私の家の敷地内で起きたことだ。すべては私の責任。謝らないでおくれ」 「旦那さんに手間と心配をかけているのは事実ですから」  手間どころか傷から血を吸わせたばかりである。これは巴炎がやると言って譲らなかった処置だが、それでも積極的にやりたいものではないはずだ。 「当然のことをしているだけさ。さぁ、包帯を巻くよ。その前に軟膏を塗るから、また布を咬んでいてくれ」  咲桜は言われたとおりに綿紗(ガーゼ)を咬んだ。すでに唾液を吸って湿(しと)っている。いやでも背後の物音に耳を澄ませてしまう。軟膏の入れ物の蓋を開けているらしいのが分かった。 「塗るよ」  頷く。温い膜液の奥に熱い指先を感じる。 「ん……ッく、」  鋭い痛みに背骨がびくついた。 「もう少しだけ耐えてほしい。多めに塗っておかないと、剥がすときに大変だから……」  予言された発熱はもう始まっているのかも知れなかった。肌に当たる巴炎の息遣いが冷たく感じられる。全身を汗が覆っているような蒸し暑さを覚えている。  軟膏が体熱で溶けていく。生傷よりも巴炎の指先に意識が向く。やがて綿紗(めんしゃ)を当てられ、後ろから抱き竦められたかと思うと包帯が巻き付いている。 「汗をかいているね。身体を拭こう。今用意するよ」  野州山辺の当主は静かに立ち上がった。 「旦那さん」 「そのままにしていておくれ。傷に障る」  しかし巴炎の手がまだ襖に触れもしていない折に、勝手に襖は左右に開いた。咲桜の汗ばんだ身体が(おのの)く。 「巴炎。来ちゃった」  きつく包帯の巻かれた背中の傷が鋭く痛んだ。和泉砂川(いずみすながわ)が巴炎のゆく手を阻んでいる。 「鹿楓(かえで)……」  彼は意地の悪そうに野州山辺の当主に口角を吊り上げると、脇に座る怪我人を一瞥した。 「興奮させちゃ悪ぃね、こりゃ」  巴炎の動揺を咲桜はただ見上げていた。 「鹿楓……陸前高田くんにはもう謝ったのかい?こんなことをして……ぼ、ぼくは赦せないよ。庭番にも酷いことをしたとか……」  野州山辺の当主の声は震えていた。和泉砂川の顔も見ようとしない。しかしその仕草はどこか蠱惑(こわく)的である。 「巴炎」  和泉砂川の声音が柔らかく、だが低くなる。身体を背けようとする巴炎の逞しい腕を掴み、自身に向けさせた。一国一城の主といっても過言ではない大男が(かよわ)く見える。 「あ……、か、鹿楓……」 「()いの目ぇ見て話せ。その怪我した色男と2人っきりにしたのだって()らぁ妬いてんだぜ?」  巴炎の困惑した表情が咲桜に晒された。悪い男に舐めしゃぶられる生娘を彷彿とさせる弱々しさは、まるで助けを求められているようである。 「和泉砂川さん……」 「俺れぁ謝らねぇよ、高田馬場(たかだのばば)クン。お邪魔したのはお宅なんだ。あの庭番を始末しておかなかったこと、後悔しなきゃいいんだがな」 「鹿楓!」  和泉砂川は小首を傾げ、あたかも巴炎が勝手に怒っているのだとでも言わんばかりに彼の肩を抱いて宥めはじめた。 「で、もうやっちまったのか?」 「何が……」  肩を寄せ合い2人が話している。ひょいと一瞬、咲桜は自分が指されたことに気付く。 「今夜は高田馬場クンとしっぽりだったんだろ?え?俺いとのことはすっぽかして?」  巴炎の耳元に口を寄せ、その眼差しは咲桜をちらちらと気にする。いやらしい手がこの山の尊い人物のぱんと張った胸を撫で下ろした。 「か……えで、」 「俺いに触られただけで火照るんか?可愛いなぁ、巴炎は」  怯えた垂れ目が咲桜を捉えた。艶かな黒髪に埋もれた耳を、悪い男の唇が見つけ出す。 「すまない……陸前高田くん…………すまない……………」 「いいえ」  悪い男が鼻で嗤うのが聞こえる。精強に発達した胸を摩る手が豪奢な帯を緩めた。 「じゃあ、ごめんな、高田馬場クン。今晩は俺いが代理を務めさしていただくわ」  両手が巴炎の張り裂けそうな胸を後ろから捕まえる。 「高田馬場クンにたくさん揉んでもらったんけ?巴炎……」  上等な着物を隔てて、悪い男の指が局所的に胸を往復する。 「か………え、で…………」 「さっき小っさいほうの庭番の子にしゃぶらせたんだけど、最後までしてもらってないんだわ。舐めて、巴炎。舐めろ」  執拗に胸の一部を指で小突いたり摩擦したりしながら悪い男は清純そうな大男を都合の良いように引っ張り、畳へと座らせる。 「鹿楓……」  巴炎は誘惑的な男の手を振り払った。拒まれたというのに和泉砂川は嬉々としている。 「青藍(あおい)ちゃんのわんころりんは軽くて小さくてきゃんきゃんしてて可愛かったな。軽すぎて揺さぶったときなんか吾妻形(あずまがた)みたいでよ」  逃げた厚みのある手を、薄情げな手が鷲掴みにする。 「でもよ、巴炎。俺いは巴炎のカラダが一番だぜ。巴炎……俺いは巴炎の張型で、巴炎は俺いの吾妻形だったよな?どうして間男なんて作った?若い間男のカラダがそんなによかったかぃ?」  潤んだ巴炎の垂れ目が済まなそうに咲桜へ流れた。咲桜は視線を逸らす。2つの大きな影が重なり合って畳に落ちていく。 「陸前高田くんは、そんな………っ」 「はぁ、陸前高田?あらあら、問うに落ちず語るに落ちるたぁこのことでさぁね」  巴炎の手が悪い男に縋り付く。そして首を振った。毛先の螺旋状に丸まった長髪が揺蕩う。 「陸前高田くんは、間男なんかじゃない。本当だ……!」 「はいはい。いいんだぜ、間男でも、本当に惚れちまってても」 「ああ……陸前高田くん…………」  切ない声が上がった。和泉砂川が巴炎に()しかかる。宙を掻いた腕もすべて押さえ込まれ、野州山辺の当主は野良犬みたいな男に組み敷かれる。 「だって巴炎が病みつきになってるのは俺いのカラダなんだもんな?」  しゅるると己の腰紐を解いて、和泉砂川は両手で引っ張った。 「鹿楓……鹿楓、ああ…………そんな、そんな………」  聞いたこともない巴炎の泣き縋るような声だった。大男の股ぐらに和泉砂川の腰紐が消えた。 「あぁ……痛い、鹿楓……」 「そのうち()くなる。いつだってそうだったろ?俺いに任せやっせ、巴炎。身も心もな」  男が2人重なり合う様を咲桜はまたぼんやりと見ていた。先程と違うのは肩の痛みと身体中を覆う熱である。畳に吸い込まれるように彼の肉体はゆっくりと伏せられていく。 「と、も………えさ……ん」  畳と触れたところが蒸れるくせ、寒かった。けがをしていないほうの肘から落ち、肩まで沈んで、咲桜は(うずくま)る。 「咲桜くん………!」  飄々とした男に組み敷かれた巴炎はその下から這いずり出る。寝転がる怪我人へ膝と手を使って駆け寄る。 「巴炎」 「薬を…………薬を飲ませるだけだから……」  力無く開いた口に逞しい指先が割り入った。咲桜の口腔で小さな丸薬が躍る。苦そうな強烈な匂いが鼻を突く。舌で押し返そうとしたところを、まだそこにある指先に塞がれる。 「咲桜くん。吐き出さずに飲んでくれ」  鼻を摘まれた。霞む視界の中で巴炎が湯呑を呷った。そして何も見えなくなる。ただ唇が柔らかく、口の中に水が流れ込む。鼻呼吸を妨げられ、口呼吸もまた大きな手で顎を閉じられ叶わなかった。丸薬ごと水を呑む。そしてやっと呼吸を許される。 「咲桜くん……すまない。少しの間………っ」  四つ足で立っている巴炎の背に和泉砂川が被さる。大きな顎を捉え、後ろへ首を曲げさせた。 「あふ………っぅんん、……」  熱が上がっていく咲桜には口唇で繋がった2人の男の輪郭を上手く把握できず、汚泥の如くどろどろと溶けている。 「ぁっ、かえで……待って、まだ………っアアァ、っ!」  低い悲鳴が上がったが、発熱している病人には耳鳴りに切り替わる。 「巴炎の尻穴(めこ)はいつになっても生娘みてぇだな」  わんわんと水の中に潜った時のような耳鳴りの奥から聞こえたその一言で、咲桜は巴炎が貫かれたことを知る。野州山辺の当主の畳に張った強靭な両腕がぶるぶる震えている。 「ア………あ…………かえで、まだ……」 「一度や二度は抱かれた相手なんだろ?何を恥ずかしがってんだ」  熱で意識の朦朧とする咲桜に和泉砂川の顔が近付いた。それは野州山辺巴炎との結合を深めることを意味していた。彼の頭のすぐ脇で和泉砂川が咲桜に嗤っている。 「あ………ぅう、」 「高田馬場クン。巴炎は優しく抱いちまっちゃっちゃっちゃぁ感じねぇのよ」  ばつん、と暴力的な音がした。 「あっひ、あっあ……!」  上手く視界の機能しない中で、咲桜は間近にある巴炎の顔が歪むのを認めた。肉と肉の衝突が勢いを増していく。汗が飛ぶ。螺旋状に巻かれた髪が激しく宙を揺蕩う。咲桜の頬を撫でた。 「巴炎は奥が好きなんだよな」 「んっぉ、あっあっあっ、あア、」  野州山辺家の匂いが蒸れて濃くなっていく。暗い巴炎の大きな胸で影が蠢く。和泉砂川の手である。人差し指が執拗に細かい作業をしていた。毟り損じた草の根を引き抜こうとしているような、そういう手付きだった。 「んっあ、んん……っ、!」  巴炎は乳頭を捏ね回されていた。精悍な顔立ちは今や見るも無惨に蕩けきっている。厚い唇は始終開いたままで、口水を垂らし、糸を引いて畳の目に溜まっていた。好き放題に突かれるだけの生き物と変わり果てている。和泉砂川も口数が減った。熱く狭い肉路で扱かれることに集中しているらしい。  やがて和泉砂川の手が項垂れて喘ぐ巴炎の首を押さえて仰け反らせた。拍手のような音が野州山辺の当主の部屋に(こだま)する。そのうち苛烈な前後運動に頑丈げな肘が折れ、彼は前に倒れた。猫の交尾を思わせる体勢で、高く掲げた尻に後ろの男が腰を打ちつける。 「かえで………ああっ、すごく熱い………」  横たわる咲桜と犯される巴炎の目線が同じになった。しかしその瞳と瞳が()ち合うことはない。咲桜は懐き過ぎた猫みたいに重い目蓋は伏せがちで目元を細めていたが、巴炎はとろんと甘く虚ろにどこでもないどこかを凝らしていた。ひとり大きな子供がいるとは思えない張りのある肌が(さざなみ)のように和泉砂川の刻む律動で押しては引いていく。 「あ………アぁ………っいい、かえで…………ぁあ…………」  犬のように荒々しい息遣いで彼は快楽を告げる。相手の男は無言のまま肌と肌をぶつけ合っている。まるで折檻のようだった。そして突然、ぱたりと止んだ。 「かえで…………かえで、かえでぇっ!」  寝起きの猫が伸びをするみたいに巴炎は引き締まっていてもずしりと重たげな尻を後ろへやった。途端に、巨大が震えはじめる。 「あっ!あああっ、かえでッ、あひっ、ああああ!」  咲桜からは巴炎の肉体に何が起きているのかよく見えはしなかったが、大方のことは分かってしまった。野州山辺の当主ともあろう男が情けない悲鳴を上げ、見ているほうが恥ずかしくなるような媚態を晒している。彼ははしたなく自ら快いところに好い人を押し当てて気をやった。 「誰が()っていいって言ったんだ?巴炎」  和泉砂川の左右の腕がびくりびくり陸の上に放置された魚みたいに跳ねているこの屋敷の主人の両腋を潜る。巴炎は繋がったまま上体を起こされる。 「あっ、ぐぁ………いく、また、いく、かえで………んひ、」  彼は呻いてふたたび情けない声を漏らした。腰を前後に激しく揺らし、野州山辺の滾り立ったものが虚空を穿つ。 「高田馬場クン」  頭の中に霞を詰めたみたいだった。ほぼ無意識に蒸し暑く重い身体を御して反応を示す。 「高田馬場クン、巴炎の乳が張ってツラいんだとよ。舐めてやってくれねぇかぃ」 「ああ……!かえで………さくらくん、!」  咲桜はぼんやりと、よく発達した胸板で隆起する小さなものを捉えた。焦点を合わせられるのは数秒の間だった。 「こんな張っちまって、可哀想に」  和泉砂川の手が二つ勃っているものを突つく。 「ひんっ」 「巴炎からも頼めよ。乳が張ってつれぇってな」 「そ……んなっ、ひっ、うぅっ」  鳴く男とは対象的なしなやかな節くれだった指がぱんっと張った胸の先端を()る。 「高田馬場クン」  和泉砂川の声がまろくなる。それでいて彼の指はまったく別の者の胸を擽る。触れるか触れないかのところで掠らせ、巨体を焦らしていた。 「あ………ぁ、かえ、で………っ、かえで、………ぅうんっ………」  がっしりとした肉体の持主は自ら胸を押し当てに前へと屈んだ。宙に構えられた手は、しかし均衡を崩した巴炎の大きな上半身を支えた。 「もどかしいか、巴炎?」  ぱつん、と肉と肉がぶつかった。巴炎は何度も頷いた。長い髪が釣瓶(つるべ)のように上下する。 「高田馬場クンにお願いしやっせ」 「そ……んな、」  咲桜は産まれたての牛みたいに両腕だけでなんとか身体を起こしていた。だか肘に入る力は頼りない。傷の痛みは遠退いた。ところが疼きはそのままに、全身で汗ばみ、脳天から頭の中身を吸われているみたいな異様な浮遊感がある。強い眠気の泥沼に腰まで浸かりながら巴炎の姿と声が引き摺られていくことを良しとしない。 「高田馬場クン」 「い、やだ………」  声を発する。喉が熱く痛む。 「ははは、フられちまったな、巴炎」  見た目に反し、野州山辺の当主は(かよわ)げに眉尻を下げる。咲桜は奥歯を噛み締め、鉛と化した身体を起こした。ふらふらと立つ。相手がどのような状態にあるのかも考えが及ばない。淫らに甚振られる男の腕を引っ張った。 「咲桜くん………」 「だめ、です………その人。だめ……」 「ほぉ」  和泉砂川が代わりに返事をする。 「巴炎さんを、放し………」  この国は地震が多い。地が揺れたのかも知れなかった。咲桜の視界が大きく回る。浮遊感に抗えなかった。獲物を狙う人食い沼じみた眠気もまたそう冗長にはしていなかった。ラジオを切ったときのようにぶつ、と意識が途絶える。 ◇  肩の骨の重みと脚の痺れで目が覚めた。傷を上にして丸く巻かれた布団を支えに、うつ伏せになりきることもなく長時間同じ姿勢で寝ていたようだ。仰向けに寝てから飛び上がる。痛みはなかった。ただ傷の存在を思い出した。意識するとじんわりと疼いている気がした。辺りを見渡すと枕元には桜花の絵が描かれた湯呑みと薬包が小さな盆に乗せてある。  喉の渇きに咲桜は湯呑に入っている水を飲み干す。まだ足らない感じがあるが、体内が冷えていくのが心地良い。深く息を吐いて、仄かに汗で湿(しと)る布団にもう一度身体を横たえた。ところが目を閉じる直前に襖が開く。咲桜はまた起き上がる。 「起きていたのかい」  嗄れた声は巴炎のものだった。垂れた目にはまだ花腐しの雨の翳りが残っている。視線がぶつかると、気拙げに泳いで逃げていった。 「ともえさん………」  咲桜もまた喉に玉でも詰まらせたみたいな軋みがあった。 「咲桜くん」  野州山辺の当主は布団の脇に腰を下ろした。手桶を持っている。彼の唇の端は赤みを帯びて腫れていた。 「殴られたんですか」  考えもなしに咲桜は手を伸ばした。触れてしまってからたじろがれ、自分のしでかしたことに気付く。 「すみません。痛かったですか」 「平気だよ。すまなかったね……」  すぐに何か言うことができなかった。俯きがちな巴炎を見つめるだけだった。 「……和泉砂川さんは?」 「帰った。帰ったと言っても、もしかしたら弟のところにいるのかも知れない」  巴炎の目が「弟」と言うとき、意味ありげに咲桜を一瞥した。 「そうですか。巴炎さんのお身体はどうなんですか。オレが部屋も布団も借りてしまっているみたいですが」 「私は何ともないよ。君に心配させてしまうなんてね。申し訳ない」  このまま畳に接吻しかねないほど頭を深く下げる巴炎の肩に、躊躇いながらも手を置いた。 「お身体を拝見しても?」 「咲桜くん……」 「無理をなさっていないか心配なんです。これでは安心して眠れません……………今まで寝ていたのですけれども」  野州山辺の当主はすぐには諾としなかった。 「困るよ……」 「そうですね。オレも、困ります。巴炎さんの身体に傷が付けられているのは」  巴炎は結局、返事をしなかった。しかし豪奢な着物を脱いでいく。上等な生地が(はだ)け、肩を滑り落ちた。見事な骨格に乗る見事な筋肉がまだ熱っぽい咲桜の身体を蒸し暑苦しくさせた。鬱血痕の散る鎖骨がまず目に入る。それから丹念に嬲られたらしき胸の先端部が二点気触(かぶ)れて赤みを差し、腫れている。  やはり何の気なしに咲桜はその哀れな小実に柔らかく親指を当てた。慈しむように撫でる。 「触れたらいけな………っぅあ、」  大男の身体はこのあまりにも小さな箇所で簡単に跳ねた。 「………すみません」  垂れた目に嵌まる蜜煮みたいなのが咲桜を虚ろに凝らす。 「何か塗られたほうが。擦れるでしょう。実際 気触(かぶ)れていますから」  慌てて引いたが宙に置いたままの手を今更どこに戻していいか分からずにいると、両側から分厚い手に包まれる。 「咲桜くん」  3つの手が固まったのが額に当てられる。艶やかな髪が(たわ)んだ。 「すまない。もうやめる、もうやらないと言って、また私は……」  生きてるって感じがするからだよ。和泉砂川の一言がふと咲桜の意識を(さら)った。 「和泉砂川さんと(かかずら)うのは巴炎さんにとって良くないことだと思っていました。オレは。けれど、必要な方なのかも知れません……少なくとも巴炎さんの心には」  通りすがりの流離(さすら)い者が、深く複雑に絡まり合っている幼馴染の2人を引き裂こうとするなど容易にできることでもなかった。ぼんやりと咲桜は特にどこを見るでもなく薄ぼんやりしながら言った。 「ですが、それでは巴炎さんの身体はどうします。巴炎さんがこの山にとってどういう尊い御方なのか、道すがら厄介になったオレにとって到底理解に及ばぬことです。でもオレにとっては……」  咲桜は戸惑ってしまった。和泉砂川の言っているとおり、何を語ろうと野州山辺巴炎という男は山に呑まれるのである。  肉厚の大きな手に蒸される自身の手を抜き取った。顔も身体も背けてしまった。 「咲桜くん……」 「旅先で出会った、きっと忘れることのできない人ですよ」  蒸された指がまだ爛れている感じだった。蒸されていないほうの手で冷やす。 「巴炎さんと居ます。貴方が和泉砂川さんから離れられなくても。そうすれば少なくとも、それ以上傷を増やさずには済むはずですから」  両膝に綺麗に着地した巴炎の手の甲には血の滲む歯型が浮かぶ。咲桜はそれを横目に見ていた。 「酷いな、陸前高田くんは。いつか去ってしまうくせに」  巴炎は顔を上げた。眉と目と口が、それぞれ違う感情を灯してまとまりがない。 「無責任だ……」  垂れた目から本当に鱗でも落ちたみたいに煌めいたものが落ちていく。 「すみません」 「君が旅立っても忘れないでね、ぼくのこと。忘れることのできない人って言ってもらえて、嬉しかった。どんな形でもいいから……」  大男が醜く笑った。涙がまたぽとりぽとりと落ちていく。皮膚の破れた拳に咲桜は手を重ねた。握り込むつもりが大きさが足らない。

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