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第二章 アザミは嘲ったside京

 今は何時頃だろうか?真っ白な病室にいると、何となく意識が漂い流れて行ってしまう。未だに点滴が落とされている左腕を見つめながら、少しだけ暑さを感じた。温く纏わりつく空気に、真昼だろうか、とぼんやり思考を巡らせる。そんな静けさが支配した部屋に、硬質で簡素なノックの音が響いた。  やっぱり本当に警察が来たのだろうか? 昨夜、透くんに教えてもらったことが脳裏に蘇り、少しだけ身体が震えた。身に覚えなのない事案だからこそ、先が見えない不安に押し潰されそうになる。 「はい。」  きゅっと糊の効いたシーツを握りしめて、どうにか一言だけ、入室を促す返事を喉の奥から吐き出した。 ――嫌だ。怖い。    しかし、そこに現れたのは、予想外の存在であった。 ◇◇◇ 「まったく、どれだけ嘉月に泥を塗れば気が済むんだ?」 「…ごめんなさい。」  もう何年も顔を見たことがなかった父は、忌々しげに眉根を寄せ、それでいて冷ややかな侮蔑の色を滲ませた視線を俺へと容赦なく放った。まさにアルファ然とした父は、もう壮年であるはずなのに、その身体はスーツ越しでも引き締まっていることが分かり、まるで年齢を感じさせなかった。長身で、吊り目なこともあり、その存在感だけでオメガの俺は萎縮してしまった。  意図的に込めたのだろう。突如、アルファの威圧的なフェロモンをぶつけられ、喉元から吐き気が込み上げてきた。ただでさえ休息を求めている身体には、それはかなり堪えた。 「うっ…」 「あの御神と言う男だったか、随分と引っ掻き回してくれたものだよ。」  父は俺の状態などお構いなしに話し続けた。 「けれども、その元凶はお前にあるのだろう?」 「え…?」 「オメガであるお前が、一方的に御神の元を去ったらしいじゃないか。」 「そ、それは…」 「番であるはずなのに随分と薄情なんだな。…正直、同じアルファとして御神には同情さえしたよ。」 口端を歪めて笑った父を見て、背筋が凍った。この男は、何を考えている? 「御神の暴挙は目に余るが、そんな事情を鑑みれば、こちらも少しは譲歩しようと思ってな。」 「あ、いったい、なにを…?」 「お前を御神へと引き渡すことにした。」  急速に体温が奪われ、呼吸ができなくなる。頭の中は真っ白だった。 「い、いやだっ、ねえ、俺はもう嘉月を勘当されてるんだっ!今更、あんたに、関係ないことだろう?いや、いやだっ!いっ…あぁっ…!」  衝撃を受けてベッドの上にひれ伏した。右頬がじわりと熱くなる。殴られたのだった。ゆっくりと父の方を見上げると、その眼は怒りで赤く染まっていた。 「それもこれも、お前が私たちの研究材料として協力を拒んだからだろう?!お前を法的に勘当しなかったことを今では後悔している。…これは、お前の身勝手が引き起こしたことだ。駄々をこねるとは、見当違いもいい加減にしてほしいものだな。…本当に、生まれた時から忌々しい存在だ。」 父は吐き捨てるように言った。 「一時間後には、御神の者が迎えに来る。ここを出る準備を済ませておきなさい。」  項垂れる俺の目の前に、一枚の紙が差し出された。 『嫡出子オメガ離縁届』 「これは…」 「これで、お前とは完全に縁が切れるな。」  『嫡出子オメガ離縁届』とは、夫婦の間に望まないオメガが生まれた際に、そのオメガを手放すことができる制度によって生まれた届出書である。実際、アオくんはこの制度によって名字がないのである。故に俺も、今後は嘉月を名乗れなくなるどころか、嘉月家の人間でさえなくなるのだ。  俺は、一族から排除され、挙句、御神へと売られた。 「ふっ。そうですね。嘉月さん、俺は、あんたのこと大嫌いでした。」 「負け惜しみか?精々、御神に可愛がってもらえばいい。」  そうして、もう父でもない男は静かに病室から立ち去っていった。 ◇◇◇ ――ほんと、俺の人生って誰のものなのかな…… 誰もいない個室に乾いた笑いが溢れた。 生まれた時からオメガであることを失望され、唯一生きていく為に残された手段は、一族が運営する製薬会社の実験体となる道だけだった。日々、意味も分からず、効用の知らない薬を摂取されては放って置かれる。本当に研究材料としての価値しか見出されなかった扱いであった。 昨日まであんなに泣けたのに、今では涙も乾ききり、零れることはなかった。 「さようなら、青木さん。」 「ごめんなさい、隆文、透くん。」 重だるい午後の空気を感じながら、俺は御神の迎えを待ち続けた。

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