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閑話 佐伯雅史のひとりごと
普段はアオとの日々で始終和やかな時が流れるリビングも、青木が自分の書いた文章を入念に精査するように読む時間は凍えた監獄に様変わりしてしまう。とりわけ、アオがまだここにやってくる前はもっと冷え切っていたのではないだろうか?ここ一年近くは、アオの体調が落ち着かないことも多かったので、青木をリビングに通すことなく原稿の受け渡しを行っていた時期もあった。それが今では、アオへのお見舞いから、こうやって以前の仕事まで滞りなく遂行される場となっている。それは、アオと俺の生活が随分と落ち着いてきた証でもあった。
それでは、今この瞬間、僅かに口端を歪めて悪い笑みを浮かべているこの編集者は、自身の生活というものを丁寧に紡いでいるかと言えば、そうではない、と評するのが現状であろう。優れぬ顔色と深い隈のせいで、悪人顔に拍車がかかってしまっている。普段はどちらかと言えば他人に好印象を残す彼も、最近は担当作家限定で見せるサディスティックな二面性を隠せないでいる。数日前に偶然街ですれ違った顔見知りの作家に「青木くんはいつもに増して仕事熱心なのには感心するが、鬼そのものであるから佐伯も気をつけた方が良いぞ。」などと忠告まで受けている。仕事か?否、この編集者は極度の過労であろうと倒れることがないどころか、こちらの尻叩きすらやってのける敏腕だ。大方、アオの主治医でもある嘉月先生絡みであることには間違いない。
「どうだ、あまり問題はないだろう?」
遠回しに訊ねるも、青木がこのよそ行きではない腹黒い微笑みを浮かべている時は、そこそこ悪くない出来であるという意味であるから、内心はほっと息をついていた。
「ええ。ここの誤字を除けば。」
ピッと赤ペンが小気味よい音を立てる。
「ん、すまん。」
「とんでもありません。先生の心が豊かになった暁には一体どんな文が生まれるかと、腑抜けにならないかと心配もしていましたが、杞憂に終わりましたね。また随分と冴えているようで。アオくんには感謝しきれません。」
「きみの、その皮肉が健在で俺も安心しているよ。」
「おかげさまで仕事は順調なものですから。」
「プライベートは?」
「……黙秘します。」
若干強張った表情をもちろん見逃せることはできなかったが、ふうんと適当に相槌を打って受け流す。
きみ、モテるのにな。
大体俺が気まぐれに水明出版に顔を出す度に「佐伯先生が来たから女性社員が皆んな騒いでいますよ。」なんて耳打ちして来るが、あれはきみの目を盗んで「今、青木さんには良い人がいるんですか?」と俺へと駆け寄ってくる女性たちが殆どである。
それもそのはず、青木は兎に角仕事ができる。書けて売れる作家には青木成界が必ずいるとまことしやかに噂されるが、事実そのものだ。
体躯もアルファと比べたら、もしくはアルファを見慣れたオメガからすれば小柄かもしれないが、別に背が低すぎるわけではない。175はゆうに超えているだろう。確かに瘦せ型ではあるが、貧相ではない。容姿はくるっとした目が幼さを残すものの、目鼻立ちははっきりとしている方だ。これがアルファであれば、萎縮してしまう女性は多いだろうが、ベータであることがまた、彼への取っ付きやすさを助長させている。青木と添い遂げられるのならば、将来的にも安定安心だろう。
もちろん、下心丸見えの一部の女性には不思議と腹が立って「彼には長年大切にしている女性がいるらしい。」と嘘を吐き出鼻を挫かせた時もあった。今はもう言えないことだが、アオと出会う前にはそのような女性に辟易していた青木に「俺と付き合っていることにしてしまえば良いのではないだろうか?」などと持ちかけて「各方面から刺されそうなので嫌です。」と見事に却下された過去もある。
それにしても、まだ夏の名残りがある少し焼けた肌に、黒髪黒目は健康的でよく似合っていたが、今では少しくすんでしまったそれが、彼の不調をよく現していた。それを、少しだけ淋しく感じた。
何度か番専用の別室で顔合わせをした嘉月先生は、一見柔らかそうに見える医師であったが、一筋縄で行かない、頑固な一面も垣間見えた。何となく拗らせているような、それでいて全てを諦念しているような、そんな哀しい人のようであった。
◇◇◇
表沙汰にはならなかったが、あの事件から彼ら二人は既に半年近く会えていないようだった。それは、一方的に青木が避けられている、ということだと隆文から聞いた。それで、こんな有り様な青木を見れば同情はするものの、まあこのまま恋にがむしゃらに走っても良いのでは、とも思うのだ。
この完璧すぎる男は、たまには振り回された方が丁度良いのだろう。それが、恋なのだから。
「きみの幸せを願っていることは、信じて欲しいものだな。」
「ありがとうございます。」
ああ、やっと瞳に輝きが灯ったな。そちらの方が安心できる。きみには、色々と救われているからな。
「疲れたのであれば、ここで、少し休めばいい。」
それから、昼時に出かけたアオから託された小包を青木へと渡した。
「これは?」
「アオからだ。アオもきみを気にしていたから。」
濃紺のリボンをするりと解いて、青木は包みを開ける。そこには、サンフランシスコの老舗チョコレート店で販売されているココアの袋が幾つかおさめられていた。そして同封された小さなメッセージカードにはアオの生真面目で流れるような筆跡が軽やかに踊っている。
『青木さん
このココアを飲む前に、僕はマグカップに出来た深い色の水面に小さな小さな舟を浮かべる、という想像ばかりしています。そして、その舟はゆっくりと水面を漕ぎ出してゆくのです。アオ』
青木は優しく微笑んでいた。そこには、さっきまでの取り憑かれたような笑みはなかった。
「彼は、アオくんは、いい文を書きますね。」
「ああ、そうだな。」
青木、きみなら嘉月先生と幸せになれるさ。
きみの穏やかな生活を、アオと俺は楽しみに待っている。
そんな、微睡む秋の午後。
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