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青木さんと嘉月さん

 俺の(パートナー)はかなりやばい、と思う。今だって発情期(ヒート)でぐちゃぐちゃになった俺を放ったらかしにして、隣の部屋で優雅に仕事をしている。おまけにアイツは特殊な抑制剤をしっかり飲んでいるから、番である俺のフェロモンにさえ反応しないらしい。  なんでこんなことするんだろう?苦しめるだけなら最初から番にしなければよかったのに。いや、苦しめたかったから、こんなことするのか。  ぼろっと涙が出てきた。  大丈夫、この一週間を乗り切れば、また三ヶ月は平穏な日々が続く。地獄は今だけ。目を閉じて、最近、偶然出会った彼の姿を脳裏に思い浮かべてみた。佐伯さんの担当編集者と聞いた。その日は俺の患者であるアオくんに、いつも付き添っている佐伯さんがいなかった。どうして付き添えなかったのか、理由はちょっと思い出せない。けれども、律儀に名刺まで渡してきた彼の骨ばった指が、きちんと整えられた柔らかそうな黒髪が、小柄で少し童顔だが澄み切ったその瞳が、彼の全てが、何故だか忘れられなかった。 (また、会えるかな…)  ぐらりと思考に靄がかかり、急激に体温が上昇していくのが分かる。身体は激しく自分の番を求めていた。乱れたシーツを強く握りしめて更に皺を刻み込む。後孔からもう感じたくない液体が伝っていく。 「…ぅ、あ、も、もう、いやだぁ…!!!お、ねがい、っねがい…!!!こっちに、きて!!!…きてっ!!!!」  ベッドの上で身悶えながら、壁の向こうにいる番を呼んだ。泣き叫んで、何度も何度も呼んだ。 「なん、で…なんで、きて、くれないの…!!!」 身体は燃えるように熱いのに、心は寂しくて冷え切っていた。ずきずきと痛む胸と眩暈がする程の喪失感に段々と意識が遠のいていく。いっそ、気絶してしまった方が楽になれるのかもしれない。そんな事を考え始めた時に、寝室の扉が開いた。涙でぼやけた視界に、ずっと求めていた番の姿が映る。 「あ……」 彼は色々な体液で濡れた汚い身体を、優しく抱きしめてくれた。期待なんかしてはいけないのに、ヒートで馬鹿になった俺は期待してしまう。この地獄から救ってくれるのは、目の前にいる番の彼だと。 「汚いね。」  耳元で囁かれた言葉に、こんな結末は何度も繰り返してきたはずなのに、やっぱり絶望してしまう。 「あぁっ…」 涙は枯れることなく流れ続けた。彼は脱力した俺の腕を頭上で纏めると、シーツを使ってベッドヘッドに括り付けた。こうやって自分で慰める事すら禁じられて、あと三日は過ごさなければいけない。 「…なんで、こんなこと、するの?」 優しく髪を梳かれて、その優しさにまた期待する。 「俺の手で弱っていく京が見たいから」 「ふっ、ばかじゃ、ないの…?」 何も可笑しくないのに笑ってしまう。 「ころせよ、だかない、なら!ころしてっ!!!」 両手は使えないから、両脚を無茶苦茶に暴れさせて叫んだ。 「おまえなんか、きらいだ!!!!」 あらゆる言葉で彼を傷つけるための言葉を放った。しかし、彼は薄く微笑むだけで動揺すらしなかった。そして、無情にも寝室を出て行った。  また一人きりになってしまった孤独な寝室で、声が枯れるまで大声で泣き叫んでやった。声が出なくなった頃に、再びあの編集者である彼の姿を思い浮かべた。 「…あおき、さん」 小さく掠れた音で紡いだ名前は、酷く自分を落ち着かせるのであった。  俺は彼の名前を繰り返し呼んでみた。  光が差すことのない真っ暗な寝室で、僅かな灯火を求めて。 ◇◇◇  既に気心が知れているコンシェルジュの多岡さんに挨拶をして、俺は佐伯先生の元へと向かった。そして、いつも通りドアを開けてくれた先生の顔色が、優れていない事にすぐに気がついた。 「先生、寝不足ですか?」 「ん、いや。アオの体調が優れなくてね。」  アオくんを初めて先生から紹介されたのは、三ヶ月ほど前の夏の終わりであった。梅雨の時期、先生のデビュー10周年を記念する祝賀会で二人は出会ったそうだが、俺はその場を抜け出した彼らの為に何かと奔走してしまい、なかなか挨拶ができないでいた。その青年と一緒に生活をすると聞いた時は流石に驚いたが、みるみると担当作家の表情が和らいでゆく変化に、これはきっと例の青年のおかげではないのだろうか、と考え始めるようになっていた。そして、あの佐伯雅史に生気を吹き込んだ青年に会うことを、俺は密かに楽しみにしていたのだった。 「やはり先日の通院は、俺が付き添わない方がよかったのかもしれませんね。何がなんでも先生の休みを捥ぎ取るべきでした。」  着々とアオくんと交流を深めていく中で、先生から番になったと報告された時は、年甲斐もなく胸に熱いものが込み上げてきた。だからこそ、先月の自分の仕事振りについては納得できないでいた。 「いいや。その件について君が気にする事は何もない。会談予定日を急に変更したのは、大御所様の俺への嫌がらせだったんだろうな。君は担当として最善を尽くしてくれたどころか、アオの付き添いまでしてくれた。一色も君の人柄を随分と買っていた。俺も感謝している、ありがとう。」  今まで見たこともない朗らかな笑顔で述べられた礼に再び驚きを感じながらも、先生が遂に人間になった…!なんて、かなり場違いな感動をしている自分がいた。 「それでなんだが、今日はゲストルームの方で待っていてくれないか?」 困ったように表情を歪めて先生が言った。いつも通りなら、ゲストルームの先にあるプラベートルームへと通され、彼らの食卓にまで上げてもらえるのだが、些か今日は事情が異なるようだ。 「もしかしてアオくん、かなり不安定だったりします?」  付き添うに当たって、アオくんの悲惨な生い立ちをざっくりとだが教えてもらっている。だから声を顰めて訊ねれば、先生は俺にアオくんの症状について打ち明けてくれた。 「…ああ。昨夜からフラッシュバックが酷い。今やっと眠れたところなんだ。」 「そう、ですか。それでは、今日は早めに退散しますね。先生はアオくんに付き添っていてくださいね。」 「すまないが、そうさせてもらうよ。」 先生は原稿の詰まった封筒を俺へ渡すと、玄関まで送ってくれた。早くアオくんの元へと戻りたいだろうから、俺も急いで靴を履く。 「あ、でも、あんまりにも酷いようでしたら嘉月先生でしたっけ?あの方に診てもらった方がいいかもしれませんね。」  俺は先日会った、アオくんの主治医の姿を思い浮かべた。小柄で色素の薄いブロンドの長い髪をゆるく一つに纏めた姿で、女性的にも見える医師だった。目尻が少し垂れているせいか、受けた印象も柔らかく、深く傷ついたオメガが多く来るあの場所にはぴったりな存在だろう。充分に信頼を置けたその医師に、何故だか俺は名刺まで渡してしまった。彼は少し驚いた様子であったが、ふっと笑って快く受け取ってくれた。 「ああ、そうだな。そうするよ。」 「先生もくれぐれもご無理はなさらないように。それでは、また。」 大切な原稿を鞄に入れて、俺は足早に佐伯宅を出た。  季節は秋が終わり、冬がやって来ようとしていた。改めて外気の寒さに触れた身体が僅かに震える。 (こんな寒い時期に、アオくんのコーヒーが飲み放題な佐伯先生は、幸せ者だよなぁ。) 「番か…」 自分にはあまりにも縁のないものだから、番に対しての実感はピンと来ない。それでも、体調に浮き沈みがあるアオくんを思えば、佐伯先生との番関係がどれだけ彼の心の安寧を支えるものになっているのだろうか。そう言えば、あの嘉月先生にも番はいるのだろうか。 「あなたが、青木さんなんですね。噂は佐伯さんと一色から聞いていました。非常に優秀な男である、と。」  あの日、儚げに微笑んだ彼の姿が、ずっと心に刻み込まれていた。

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