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青木さんと嘉月さん 2
「嘉月、おまえ休んだ方がいいぞ。」
「…は?」
あまり食欲は無いが、少し休憩でも入れようかと腰を上げた頃に、俺の診療室へ一色がやって来た。突然の来訪と予想外の第一声に間抜けな声が出た。
「顔色が悪すぎる。」
「問題ないよ。それより外科のおまえが何故ここにいる。」
正直、身体はあの地獄のような発情期 明けのせいで、かなり参っていた。しかし、それを悟られないように、今日だって、これまでだって仕事をしてきたつもりだ。少し悔しくて、折角心配してくれる同僚に冷たく言い放ってしまう。そんな俺の態度に、一色は顔を顰めた。
「透から、連絡が入ったんだ。上司であるおまえの体調が優れないようだから来てくれって。透に心配されても、おまえは誤魔化したそうじゃないか?」
確かに、透くんには何かと休むように言われていた。まさか、彼のパートナーである一色に連絡が行くとは思ってもみなかったが。
「俺は大丈夫だよ。カップル揃って心配性なんだから…」
「心配性なんかじゃありませんよ!」
小さく呟けば、背後からよく通る声が聞こえた。
「そうだよな、透。こいつは明らかに体調不良だ。」
一色がすかさず援護に入る。流石、番というのか。こういう時、二人の勢いには勝てない。
「嘉月先生、変なこと聞いちゃうんですけど、発情期 の間は番の方と一緒にいられなかったりするんですか?相手の方、出張とか…?」
少しだけ声のトーンを落とした透くんに訊ねられた。
「な、んで、そんなこと…?」
「明らかに、番のいるオメガの発情期 明けには見えないからだ。」
透くんと、続いた一色の言葉にひやりとしたものが背筋を走った。
「そんなの、今回だけだろう?それに誰もが君たちみたいな番だとは限らない。」
硬い事務椅子の背に身をもたれさせ、首を振る。すると、一色が目の前で跪き、俺の左手首を軽く抑えた。
「いいや、三ヶ月前も、その前も。俺たちが気が付かないとでも思ったか?…顔面蒼白、頻脈気味で指先も冷えているな。加えて手足の震え、目眩や立ちくらみも感じているんじゃないか?おまえ、明らかにショック状態に陥っているよ。」
言外に一色が何を言いたいのか、分かってしまった。そんなことは俺が一番理解している。どれだけこの部屋で、傷ついたオメガの患者を診てきたと思っているんだ。なんて事は言えるはずもなく、だんまりを決め込むしかなかった。
「嘉月先生、少し横になりませんか?」
透くんがそっと傍に来てくれた。その気遣いさえ、拒絶してしまう。
「あの、僕、嘉月先生のパートナーに迎えに来てもらえないか連絡入れますね。隆文さん……」
「やめろ!!!!」
一色の方を振り返った透くんの腕を強く握り締めて、怒鳴ってしまった。俺の目の前で、少しだけ震えて驚いたように目を見開いた透くんを見て、しまったと思った。この子だって、かつては俺の患者だった。こんな風に怒鳴られるのが苦手なことも知っていたのに。
「あ、の…大きな声を出して、ごめん。…でも、番は、呼ばないで……」
慌てて謝った拍子に、椅子から滑り落ちてしまった俺の背中を、透くんはゆっくりと摩ってくれた。それが、自分がずっと求めていた温もりのような気がしたら、涙が溢れて止まらなくなった。
「先生…僕もごめんなさい。先生が嫌だと思うことはしません、絶対に。だから、今日は休みましょう?嘉月先生が倒れてしまいそうで、すごく心配です。」
透くんの肩に顔を埋めて、駄々をこねる子どもみたいに首を横に振る。
「ごめんね。やすむ、から、よばないで……」
「呼びません。大丈夫ですよ。」
「透、俺が嘉月をベッドまで運ぶから、オメガ科の別の医師に嘉月の代理を頼めないか取り次いで来てくれないか?別の医局の俺が行くよりも話が通りやすいだろうし。」
「うん、わかった。」
透くんが診療室から飛び出して行くのを目で見送った一色が、未だに床にへたり込んだままの俺を抱き上げた。
「一色、ごめん。透くんに、わるいこと、した…」
「気にするな。透だって大丈夫だって言ってたんだから。」
「でも、うで、あとになってたり、したら…」
「心配なら、俺が後で確認しておく。」
「うん…」
頭上でフッと一色が笑う気配がした。途端に視界がぐにゃりと歪んで、俺は意識を手放したのだった。
◇◇◇
「え?また御神 先生が…?」
朝から、担当している新人作家と新作の打ち合わせを終わらせて遅い昼食をどうにか摘み、退勤まで原稿チェックをしよう、と自分の荒れ果てたデスクの前で意気込んでいる時だった。同じ文芸編集部で同期の河西 がふらっと現れて、缶コーヒーを差し出して来た。河西は御神先生の担当編集者であり、先月の佐伯先生と御神先生の対談を企画したのも彼であった。
「そうなんだよね〜。先月の対談、御神先生が随分と楽しんでくれたみたいでさ。第二弾を企画してくれないかって直々に頼まれたんだわ。ちなみに、読者の反応も上々。」
「読者受け良かったんだな。でも、御神先生については冗談だろう?この前の対談も、予定してた日取りをいきなり変更したんだから。気乗りしてなかったんだと思ってた。」
「あ〜、それがなぁ…」
河西は「おまえ、なんかやらかした?」と続けて、更に一通の封書を俺へと差し出す。
「…御神先生から?」
「ああ、なんとも埋め合わせを、との事らしい。」
すぐに何の事だか察してしまい、深いため息が溢れ出た。未だに縦社会が根強い文壇に、所謂後輩である佐伯先生の担当編集者が、不在だったことを責められているのだろう。
「まじかよ。あの対談に俺が立ち会えなかったのは、そもそも御神先生の無理に合わせた結果だからな。下手したら、佐伯先生が出席しない事態になってたんだ。俺がいなかった事くらい、大目に見て欲しいな。」
面倒だと感じた途端、それを証明するように頭が痛んだ。再びため息を吐き出し、しっかりと留められた封を鋏で一直線に開いた。嫌な予感しかしない。
「で、なんて書いてあんだ?」
河西はうんざりした顔でコーヒーを煽っていた。
まあ、こいつも随分と御神先生にはこき使われて振り回されているからな。俺も俺で、嫌味な達筆で書かれた文字を追うごとに、これからの対応を思って疲れてしまった。
「来週あたりに、第二弾の企画打ち合わせをしたいから邸に来い、という事みたいだ。次の企画は俺に任せたいらしい。しかし、それは建前なんだろうな。きっと何か仕掛けてくるはずだ。」
心が妙に波立つ。
そのせいか裏の裏まで思考は巡ってゆく。
「おうおう、出たね〜。青木お得意の政治が。おまえ、御神先生に良い印象持ってないって言ってたもんなあ。」
「ああ。俺は御神一派の龍野敏哉 を干すための根回しに、大分貢献しちゃったからな。」
御神を筆頭に構成された、純文学的官能を求める作家たちの一流派を、俺は勝手に「御神一派」と呼称している。個人的には、純文学と銘打って随分な大義名分を述べてはいるものの、駄作ばかりだと評している。
だから、眼中になかった。それが、アオくんが犠牲になるという最悪な結果を招いてしまった。罪滅ぼしとばかりに、俺は御神一派の中枢にいて、アオくんを傷つけた龍野を文壇から干したのだった。
正直、いち編集者がやった事にしては、あまりにも出過ぎたマネであったと思う。しかし、人間的には当然の事をしたまで、と早々に気持ちに蹴りをつけた。
「あの時は龍野先生の担当だった俺をすっ飛ばしたから、流石に焦ったぜ。」
「だってお前、御神先生のクチでここに入社したんだろう?巻き込めるわけないだろう?」
俺としては当然の決断をしたまでだが、河西は渋い顔をしていた。そう言えば河西は、アルファの上流階級に属する御神と交流できるくらいには、実家が裕福である。彼自身もまた、精悍な顔つきのアルファだ。しかしその割には、社交界での生き抜き方を知らない初心な一面もある。言葉遣いこそ擦れているが、本当は箱入り息子だったのだろうな。
「なんかもう、ほんと面倒臭いなぁ。俺、まじで転職してぇ…」
やっぱり、アルファのくせに気弱な本音を漏らす。
「フッ、この業界じゃあ、どこもおんなじだろ?」
そんな河西に少しだけ意地悪な言葉を返した。
「あーあ。俺の純情返してくれよ。てかさ、青木は誰のツテでここに入社したんだ?お前なら叩き上げで来れそうな気もするけど。うちは、キャリアがある作家からの口利きがないと、まず入れないだろう?」
「お得意の政治で、俺は人脈に恵まれてるんだ。ちなみに今から、俺のツテになってくれた人に電話をかける。」
社交界とは程遠かった平凡な俺は、数少ない機会の中で走り回り、地道にコネクションを作っていった。このほろ苦い経験が、今、輝かしい才能を持つ作家たちのデビューに役立っている。
「なんだ、教えてくれねえのか!ケチだなぁ〜。それよかお前、第二弾の企画はどうすんだ?」
「う〜ん。どうすっかなぁ。『濡れ場考察』とかどうだ?御神先生なら食いつくんじゃないか?初回だって確か『恋仲発展前の男女の仕草はエロい』みたいな感じだったよな?」
「いくら読者向けにしようが、俺、そんなど直球タイトルは付けねえよ、流石に…」
「そうだったか?」
ドン引きしている河西を適当に促す。そろそろ、あの人に電話したい。
「なあ、青木。」
「うん?」
俺の心とは裏腹に、珍しく河西は話し足りないようだった。
「正直、御神先生より佐伯先生の方が、濡れ場書くの上手いよな。」
そして、まさかの爆弾発言。俺が『濡れ場考察』とか言ったせいか。
「ああ、うん、あれは…エロい、よな…?」
「なんで疑問系なんだ?佐伯先生が作品に大胆な濡れ場なんか入れるの、ここ最近だよなぁ。なんか変わった?私生活とか。」
「ああ、うん。それなり、には…?」
「だからなんで疑問系なんだよ〜!気になるじゃねえか!しかし、俺は濡れ場云々以前に、今のスタイルの方がとっつきやすくて好きだな。」
「ああ、それは同感だ。」
「そのあたり、読者が探れるような企画にしちゃえば?」
いや、それは佐伯先生が嫌がるだろうな。あの人、アオくんに対しての執着は、尋常じゃないから。
「考えとく。」
俺はコーヒーのお礼を河西に告げてから、電話をするためにロビーへと向かった。
◇◇◇
「…もしもし。水明出版の青木です。良成 さん、いらっしゃいますでしょうか?」
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