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青木さんと嘉月さん 4

 ふわっと身体が浮いた後、すぐに大きな温もりに包まれた。もう何も見えないし聞こえないけれど、その温かさだけは心地よくて、もっと、と強請るように俺は擦り寄ってしまった。けれども、その温もりさえも離れていく。 ――嫌だ…!行かないで…! 「おねがい…いいこにする、から……」 「嘉月先生?」  耳触りの良い柔らかな声音に、小柄な彼を思い浮かべる。俺は、重たい瞼を無理矢理こじ開けた。ぼやけた視界が段々とクリアになっていく。そこには、一ヶ月前に初めて出会い、何故だかずっと忘れられなかった彼がいた。 「あおき、さん…?」 「目覚められて良かったです。今、医者を呼んできますね。」  立ち去ろうとする彼を引き留めた。と言っても、身体はあちこちが痛み、思うように動かせなかったので、彼のシャツの袖を軽く引っ張るだけだった。 「どこか痛みますか?」  青木さんは、そんな俺を邪険に扱う事はしなかった。むしろ、心底心配しているように感じた。それが、それだけなのに、とても嬉しかった。この人は、今だけかもしれないけれども、俺を見てくれている。その実感だけで、あと数年は生き延びられる心地がした。 「えっと、身体はかなり痛い。10のうち8くらいは痛む、かも。」 「えっ…!す、すぐに先生呼んできます!」 「あ、待って!ここは、どこかな?」  全く見覚えのない部屋は、高級ホテルの一室かの如く広々としており、掃除も隅々まで行き届いていた。俺が寝かされているベッドも、スプリングの効いた大きなダブルベッドであり、点滴さえ落とされていなければ、ホテルに泊まっているのだと錯覚してしまったはずだ。実際、万が一にもホテルであった場合は、数日分の宿泊料など払えるはずもないので、早急に出ていかなければ、と俺は腹を括り始めている。俺のただならぬ空気を感じ取ったのか、青木さんは人の良い笑顔を浮かべて説明してくれた。 「大丈夫ですよ。ここは俺の実家です。」 「実家…?」 「ええ、父がね、色々と優秀な人材を抱えている人でして。病院だと人の目が離れた隙に、いつ御神が乗り込んでくるかも分からないので、俺の実家が一番安全だと判断しました。この家には屈強なボディガードもいますし、もちろん医者もいるので、安心して養生なさってください。」 「青木さんって、お金持ち?」  不躾な質問をしてしまったと慌てていたら、彼は苦笑して「俺は、違いますよ。困った時にだけ利用する関係。」とぽつりと呟いた。 「え…?」  どういう事だろうか。ほぼ初対面の人間が、干渉するには随分と深い根が張っていそうだ。返答に困っていると、扉が静かに開いた。 ◇◇◇ 「ああ、目が覚めたのですね。ご気分がどうかな?」  入ってきたのは、青木さんと似た柔らかな笑みを浮かべた壮年の男性だった。笑った時の目元や、纏う雰囲気は確かに青木さんと似ているが、こちらの男性の方が背が高く、おまけにアルファの風格も兼ね揃えている。さっきまでアルファに散々嬲られた身体は、小さく震えていた。そんな俺の様子にすかさず気づいた青木さんが、背中をゆっくり摩ってくれた。本当に、彼は気が利く。 「すまないね。私がいると苦しいのですな。手短に状況を説明して、退散いたします。…成界、嘉月さんの傍にいておくれ。」 「ああ。」  青木さんが短く返事をした。成界って青木さんの名前なのかな。俺の思考は少し脱線しかけたが、男性が自分の身分を打ち明ける声で現実へと引き戻された。 「私は一色財閥の末子、一色良成(イッシキ ヨシナリ)と申します。ここは私の自宅で、あなたを保護しているのも私となります。」 「え、一色財閥って……」 (もしかしなくても、同僚の隆文のところだよな?)  俺の疑問はすぐに良成さんへと伝わったらしく「そうですよ。」と返された。 「隆文は長兄の子どもで、私の甥にあたります。貴方のことも、隆文から聞いておりました。嘉月京さん、私は貴方に出会えて嬉しいです。」  隆文との繋がりは分かったが、では何故、この場にいるのが隆文ではなく青木さんなんだ。それに、さっき「成界」と良成さんは青木さんを呼んでいた。二人は親しい間柄なのだろうか。 「あの、ここに連れて来てくれたのは、青木さんだと思っていたのだけど。隆文なのかな?」 隣にいてくれる青木さんに聞くと、青木さんは良成さんの方に目線を移し続きを促していた。 「ここに嘉月さんを連れて来たのは、成界ですよ。成界は私の息子なのです。」 「えっ?あれ、じゃあ、なんで…?」  益々混乱してきた俺を見て、良成さんが微笑んだ。 「一人息子が珍しく私を頼ってくれたのでね。あの御神という男には、然るべき対処をすると約束します。一色財閥が、嘉月さんに今後危害が加わらないよう約束いたします。そして、貴方の治療のフォローもさせていただきます。」 良成さんは真剣な眼差しで言い切り、青木さんの方を見た。 「成界、話が済んだら医師を呼びに来てね。……嘉月さん、成界をよろしくお願いいたします。それでは、また。私は下の階にいるからね。」 ◇◇◇ 「あの、どういう事かな?」 良成さんが去り、静まり返った部屋の中で、堪えきれず俺は青木さんへ訊ねた。 「青木の姓は母方のものなんです。今はあんなに丸い父でも、昔はアルファ至上主義者でしてね。アルファとオメガがの番にはアルファの子どもが生まれやすいでしょう?なのに、生まれてきたのはアルファでもオメガでもなく、ベータの俺だったんです。番からベータが生まれることは、世界でも稀なそうなんです。そう言った場合、世間一般はどう判断するか分かりますか?」  青木さんが哀しく微笑んだ。その表情に何故だか胸がつきりと痛んだ。俺は咄嗟に彼の手を握ってしまった。 「あ、ごめん。」 「いいえ、嬉しいです。」 「それで、その事だけど。つまり…」 その先はどうしても続けられなくて、彼の黒い瞳を見つめた。 「母は不貞を疑われ、俺ともども父に家から追い出されました。それに、父はベータの子どもはいらなかったみたいです。その後、母がDNA検査で俺が確かに父の子どもである証拠を送っても、音沙汰なしでした。番を失った母は、気丈に振る舞って俺を育ててくれましたが、俺が高校生の時に亡くなりました。」 「そんな……」  今日出会った良成さんからは、想像もできない過去であった。 「まあ、そんな父も改心したのか、俺が就活中の時に深く謝罪されたんです。でも、俺は母を見捨てた父が許せなくて、良いように利用しました。今の出版社に入社できたのも、一色財閥の父の口利きがあったからです。今回の件も、父の母と俺への罪悪感を利用して、あなたを保護しました。文壇でキャリアがある御神だって一色財閥には勝てません。最初から、御神との勝敗は決まっていたんです。」  青木さんは俺の手を強く握りしめた。 「でも、どんな汚い手を使ってでも、俺は、あなたを、助けたかったんです。こんな俺を、嘉月先生は軽蔑しますか?」  今にも泣きそうな青木さんを見て、俺も彼もなんだか似ている、と暢気に感じていた。 ――彼は、認められたかっただけじゃないか。 「軽蔑なんて、しないよ。やり方には後悔しているのかもしれないけれど、青木さんは良成さんに、お父さんに認めてもらいたかっただけだと思うから。」 「認めて、もらう…?」 「ああ。だって青木さんは、そうやって一流の出版社に入って、沢山の人気作家を輩出させて、終いには俺のようなオメガを救ってくれたじゃないか。どう見たって、立派な息子だよ。きみは、認めてもらうどころか、親孝行までしたんだよ。それは、すごい事じゃないのかな。」  あの敏腕編集者の彼が、ぽろりと涙を零した。 「なんか、すみません。俺が嘉月先生に救ってもらっちゃって……」 「アハハ。俺、カウンセラーでもあるからね。これ、本業だから。それに……」  俺はそっと彼の手に自分の手を重ねた。このくらいなら、拒絶反応も出ない。何より、彼の温もりをずっと手のひらで大切にしていたかった。 「俺も、青木さんに救ってもらえたから。俺も、誰かに、オメガじゃない、ただの嘉月京として認めてもらいたかったんだ。そしたら、変なやつに捕まっちゃったけど。でも、青木さんに会えた。青木さんはずっと、初めて会った時から俺を見ていてくれたから。」 「そうですね。確かに、俺はあなたしか見ていませんでした。あなたが、アルファでもベータでも、俺は嘉月先生と出会ったんだ。」  そうして俺たちは、ただずっと互いの指を絡ませて、寄り添っていた。

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