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第1話

 天使がゴミ捨て場に堕ちていたのは、ひどく暑い夜だった。 「マイコさん、そろそろ帰ったほうがいいですよ」 「う〜ん……藤崎くんの仕事終わるの、待ってていい?」  痛んだ髪を指に絡めながら、いじらしく微笑む。露出した肌が酒気でほんのり赤く火照っている。同僚が夏はいいな、と溢していたのを思い出す。服を着ていた方が安心すると言ったら鼻で笑われたのは記憶に新しい。  彼女は十分酔っている。帰らない理由が自分にあることは重々承知していた。  暗闇、ムーディーな暖色のライト。甘い酒。男も女も酔い、大胆に開いた心で人を誘う。  対してこちらは素面だ。  酔っていれば誘いにも乗ったかもしれない。  美女からの食事とその後の誘いは疲れの前に屈してしまう。  カクテルグラスに寄せられる紅い唇。大きな輪のピアスが揺れてきらりと光る。 「すみません、今日はご遠慮させてください」 「そんなこと言って、一度もわたしとご飯行ってくれないじゃない」  物憂げに伏せられたつけまつげ。同僚なら鼻を伸ばして喜びそうだが、今は性欲の大部分を仕事に捧げてしまっている。全く食指が動かない。  休憩をもらいに厨房に行くと二対の目にじろりと睨まれる。オーナーと同僚だ。 「優くん、またメンヘラホイホイ発揮してるよ……」  オーナーの山田さんがわざとらしく眉をひそめている。  彼は俺がメンヘラっぽい女の子に絡まれているのを面白がっているだけなのだが。 「それであんな美女とヤれるなら役満だろ」 「じゃあ三角くんが相手してよ……」 「えー、いいのかよ」 「休憩もらうね」 「行ってらっしゃい!」   ここは歓楽街のど真ん中。夜も深く、通りは酒に酔った人々で賑わっている。  店の裏の路地で疲れとともに煙を吐き出す。夜になっても昼間の暑さを引きずる熱帯夜。  腐ってふらふらしていた三年前。  酒で酔った勢いでオーナーの声が好きだと言ったら、ホテルに連れ込まれ、一晩じゅう。  童話を朗読された。  なんでもその昔は声優だったらしい。喉を壊して引退したと聞くが真実はわからない。この街の人は弱さを嘘で隠すから。  そろそろ戻ろうと立ち上がった時、あらぬものが見えた。  コンタクトが乾いているせいかと、瞬きをしてみるが、見間違いではない。  アルミ製の扉付きのゴミ捨て場。  明日回収されるごみの山に埋もれているそれ。  ブラウンの革靴にグレーの靴下。捲れた裾から覗く脛。  しげしげと眺めてみるが、人間の足でしかない。色素の薄い毛が生えている。  ごみの山から引きずり出したそれは、通りから漏れた街の明るさの元に晒される。  汚れた金髪。長い睫毛。小さい顔。漫画に出てくるように細い男だった。  俺はこの男を知っている。  歓楽街を飾るでかでかとした看板に貼られた顔。  悪名高く、よい噂と言えば本物は看板以上に顔がいいというぐらいだ。  金で愛を囁く職業。 「……アオト」  言葉を交わしたことも、顔を合わせたことすらもない。  トラブルの気配がするが、拾ったら最後まで面倒を見るのがマナーである。  犬猫を拾ったことは何度かあるが、人間は初めてだった。  すえた匂いをまとう男の顔をしげしげと眺める。口元が吐瀉物のようなもので汚れているし、ごみ臭いが顔の美しさは損なわれていない。 「くさい……」  顔がいいごみ臭い男を背負う。こんなに細いのに筋肉の感触がした。  そういえば、この男とえっちしたと話をしていたお客様がいらっしゃった。  堂々たる枕営業である。  セックスもスポーツだというし。しがないバーテンダーの藤崎優は顔しか知らない男の筋肉の使い道を想像するほどには、疲れていた。 「オーナー、拾ってしまいました」  PCに向かっていたオーナーがちらりと見る。べっこう柄の縁のブルーライトカットの眼鏡がいまいち似合っていない。オーナーには銀縁の眼鏡が似合うと常々思っているが、本人に言ったことはない。 「子猫か? 責任取れよ」 「汚くなってるけどたぶんホストのアオトですね。ゴミ捨て場にいました。酒臭くてぐっすり寝ています」 「……優くん、責任をとっておうちに持って帰ってくれる?」 「……まじすか」 「まじだよ。今日もう帰っていいから」 「わかりました」  着替えてホストのところに戻るとまだぐっすりと眠っている。  ごみ臭いし汚いからタクシーに乗せるのは無理だ。 「しかたない……」  どうやら抱えて帰るしかなさそうだ。運がいいことに家は近い。筋肉痛は免れないけれど。

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