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6.龍介:「見逃し三振より、振って三振」

 去年の冬のことだ。龍介は失恋を味わった。相手は幼なじみの男だ。  元々ゲイだったわけではない。  きっかけは、一度東京に出て行ったその幼なじみが、この梓に戻ってからずっと塞ぎ込んでいることに気がついたことだ。  高校野球で副主将、そして捕手を経験した龍介は、周囲の変調に敏感だった。  だから、働き盛りなのに役所の古くなった備蓄の乾パンをもそもそ食って昼食代わりにしているようなそいつを気にかけるようになったのは、自然の成り行きだったとも言える。  時間が合えば食事に呼び出す。旧態依然とした体質の残る田舎の愚痴をお互い言い合う。  龍介は学校も職場も県内から離れたことはない。が、高校野球の強豪校というのは、試合のために全国を飛び回るものだ。いろんな地方の、いろんな人間に出会う。目上の人間と接することも同じ年齢の子供よりずっと多い。  だからこそこの田舎のいいところも悪いところも見えるようになってくる。  そんなわけで彼と龍介は、ちょうどいい愚痴仲間だったのだ。    もしかして彼はゲイなのか、と思うようになったのは、そんな日々の中で自然に、だった。  狭い田舎のことなので、店の数も限られている。特に品揃えのいい家電量販店などは限られているから、買い物に行くと「一方的にこちらを知っているおじちゃん・おばちゃん」に遭遇することは珍しくない。  彼の家はこの辺りでは代々続く名家だし、龍介は野球で有名だ。実家は漁業関係の機械を扱う中堅クラスの会社で、海に面したこの界隈では誰でも名前を知っている。  そんなふたりだ。暇を持て余した年寄りに捕まれば、世間話の餌食になるのはもはや運命。 『まだ結婚しないの』 『お父さんとお母さんに孫の顔はよ見せてやらにゃあ』  都会基準なら、出会い頭にいきなりこう浴びせかけるのがどれだけ失礼なことなのか、わかってくれる人もいるだろう。  だがしかし、ここは梓。東京からは数百キロも距離がある。  だから龍介は、野球と仕事で鍛えた〈対大人スキル〉で接することにしていた。つまり、 『いやあまだまだ半人前で』 『まだそんな甲斐性がなくて』  のどちらかで切り抜ける、という技だ。  どちらも、あくまで『まだ俺の人間性が結婚という素晴らしい制度に見合わないので』という方向、かつ曖昧にふわっとした表現にとどめておくのがコツだ。 『結婚なんて』と言ってしまえば結婚こそすべてと思っている方々の機嫌を損ねる。  もう少し具体的に『モテないので』などとうっかり口走ろうものなら、おそるべき田舎ネットワークでどこぞの娘だの姪だのを供給されてしまう。  そもそも口にする方としては、天気の話と同様、なんでもいいから言っておきたいだけのことだ。  多少は面倒だが、のらりくらりとかわしておけばいいだけの話だった。もはや流れ作業の域、コンビニで機械的にかけられる「しゃっせー」の声と同様に、脊髄反射で用意した答えをくり出すもの。  だが、彼にとってはどうもそうではないらしい。  毎度毎度、こういう輩に遭遇する度、表情を凍りつかせる。  もちろん大人だから、すぐに曖昧な笑顔になって『はい』『そうですね』などの無難な返答はするのだが、それからしばらくは無言でなにか考え込んでいる。  極度な潔癖なのかとも考えた。  だが、昨年の春、梓にしては大改革で、オープンゲイの婚活コンサルタントがやってきてとき、それは違うのだとわかった。  当初、彼はそのコンサルタント早坂を極力避けていた。たしかにたいしてうまみもない条件で応募してきた早坂はうさんくさくもあり、龍介も一緒になって怪しんでいた。  だが、ふと思った。  今まで彼が特定の誰かのことをこんなにくり返しくり返し話題にしたことがあっただろうかと。  そう気づいてから振り返ってみれば、辻褄が合うのだった。  田舎の年寄りの挨拶程度の言葉をさらりとかわせないこと。ときおりひとりで物思いに沈んでいること。自分とは正反対の早坂をあからさまに避けること。  そのとき、自然と思った。  ああ、俺はこいつのそばにいてやらないといけないんじゃないかと。  彼の家は江戸時代から続く名家で、親類もみな役所に勤めている。そんな環境で、ゲイであることを隠し通すのは、大変なストレスだろう。  だがふたりなら。  今時の男が「ひとりでいるほうが楽しくて、ふらふらしているうちについ婚期を逃してしまいました☆」を演出する仲間がいたのなら。  だから龍介は、おまえゲイなのか? と椿には訊ねなかった。  なにも言わず、なにも求めず、ただ寄り添って、ずっとそばにいる。  普通に生きたって、人生は長く、つらいことのほうが多い。  だったらせめて、そういう都合のいい存在がいたっていいだろう。そう思っていた。  だが、間もなく椿は早坂と付き合い始めた。  頑なに閉じていた椿の心を早坂はこじ開けたのだ。  そして龍介は気がついた。  なにも求めず寄り添いたいなんて、綺麗事だ。  俺はただ、自分が傷つくのが怖いだけだったんだ、と。  それが龍介の失恋だったわけだが、それは苦い思いと同時に疑問ももたらした。  俺はゲイだったのか? というものだ。  自分は椿が好きだった。そばにいてやりたいと思った。寄り添って、そっと支えてやりたいと。  それはゲイってことか?  いや、相手が椿だったからだ。実際、今まで付き合った相手は女性だったし、それに疑問を持ったことはなかった。結婚なんて言われると、そりゃあ多少は身構えるが、椿のように明らかな嫌悪感を覚えるわけでもない。    自分はそういうことに偏見のないたちだ。それは断言できる。だが自分はどこに属する人間なのか? と考え始めると止まらなくなった。     それから様々なことを調べる中で、なんと地元にもゲイバーがいくつか存在することを知った。しかももう何十年も営業しているらしい。何度か近くを通ったこともある界隈だ。  知らないから、知ろうとしなかったから、目に入らなかったのだ。  自分のセクシャリティに、失恋するまで興味を持たなかったように。  だが、知ってどうなる。  そう最初は反問した。  今まで通り椿だけが特別で、自分はいつかなにごともなかったかのように持ち込まれた見合い相手と結婚するのかも知れない。それがみんなに祝福される幸福というものだろう。この辺りで暮らしていく上で。  できるのか?  もし、もしだが、結婚してからやっぱり俺は心の底からは女性が愛せない人間でしたとわかったら、それは不幸な人を増やすことになるんじゃないのか?  だったら、確かめたい。  確かめるべきだ。  もしもそれが自分にとってつらい選択になるのだとしても、後悔はしたくない。彼――椿のときのように。  そう、高校で朝から晩まで野球をやっていたとき、合い言葉はなんだった?  ――〈見逃し三振より、振って三振〉だ。

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