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7.龍介:はじめての夜
その夜、龍介は密かに緊張していた。
正直甲子園出場を決める試合の前と同様、いやそれ以上だったかもしれない。
なにしろ人生で初めてゲイバーというやつに足を踏み入れてみたのだ。
自分が椿以外の男にも恋情を抱くものなのか、知っておきたかった。
ゲイバーの店内は、普通の店と特段変わったところはないように思えた。十席ほどのカウンターと、フロアにボックス席がいくつか。これはイベントのときには片付けて、広く使うこともできるらしい。カウンターは天井までの棚にびっしりとさまざまな種類の酒の瓶が収まっている。見たところごくごく普通のバー。
取り敢えずカウンターに座ってメニューを見ると、アルコール類は千円から千五百円、二杯目以降は少し安くなるというシステムで、居酒屋と比べてそう暴利というわけでもないらしい。
無難にビールを頼む。ボックス席は埋まっていて、カウンターには、自分と……一番隅にもうひとり、若い男が座っていた。
随分飲んでいるようで、半ば目が据わっている。
やさぐれた雰囲気を醸しながら、それが随分と不似合いな、幼い顔つきをしていた。
元々、面倒見の良さを買われて部員が百人近くいる野球部の副部長を任されていた龍介だ。つい気になって、マスターに小声で訊ねていた。
「あの、あそこの子」
「あら、だめよ」
用件を切り出す前から「だめ」と言われてしまい面食らっていると、マスターは続ける。
「さっきからみんな粉かけてるけど、ぜーんぶ無視。諦めなさい」
さらに「ひとりで飲みたい気分の人に、しつこくしちゃだめ」と言われ、誤解されているのだと気がついた。
「いや、そうじゃなくて、酒のあるような店にいて大丈夫な歳なのかってことを俺は……ずいぶん飲んでるみたいだし」
あらためて懸念事項を伝えると、マスターは「ま」と目を見開いた。それからどこか得意げに告げる。
「大丈夫。ちゃーんと干支聞いたから」
「……干支?」
「いろんな事情のある人がくるお店だもの~。頭ごなしにはい、身分証出してってしたら興ざめよお」
だから生年月日と干支を口頭で訊くのだという。生年月日は咄嗟に嘘がつけても、干支まで考えてくる者はまずいないらしい。
なるほど、と感心していると、バーテンが細いグラスに入ったビールを無言でカウンターに置いた。ただし、くだんの少年の隣に。
俺の分じゃなかったのか、と思っていると、マスターが「まあ」と乙女のように両手を顔先で合せる。
「いいわね。隣に座ってあげて」
バーテンはその言葉に黙って頷いている。わけがわからずにいると、マスターがカウンタ-から身を乗り出して耳打ちしてきた。
「声かける人はいっぱいいたけど、心配してくれたのはお客さんだけよ。男前ね、お客さん。応援しちゃう」
「いや、俺は――」
今日のところは取り敢えずゲイバーというものを体験してみようと思っただけで、いきなり誰かを口説こうと思ったわけではない。そう口にしたが、マスターは耳を貸す様子もない。「見目良いカップルよ~」などと、もう勝手に盛り上がっている。
仕方がない。こういうとき、ムキになって逆らうのもそれこそ〈興ざめよぉ〉というものだろう。実際少年の様子が気になるのも事実だ。隣にいるだけで虫除けになってやれるなら、それもいい。
龍介は観念して席を移った。
気配で少年が面を上げ、龍介ではなくマスターのほうをちらっと睨む。マスターは肩をすくめ、さらっと受け流す。
「凄いな」
「……なにが」
口を開くのも億劫だ、といった様子だった少年が怪訝そうに呟く。ふてくされた様子とは裏腹に、澄んだいい声だなと思った。やはりまだ若いのだろう。
「慣れた様子だから」
「それのなにが……」
グラスに口をつけようとしていた動きがふと止まり、少年はこちらを覗き込んでくる。瞳によぎるのは好奇の色。
「もしかしておにーさん、こういうお店初めて?」
面白がられている、とは思ったが、不快ではなかった。少年が生きた表情をこちらに見せてくれるのが、なぜだか嬉しい。
「ああ。初心者だ」
「ふうん……?」
少年は目を細め、ゆっくりと視線を動かした。顔、背の高いスツールで組んだ足、そしてつま先へと。
「じゃあ、このあとあっちデビューだ」
「あっち?」
「ここであったまったら、あっちの有料ハッテン場行くんでしょ。この辺の人は」
「いや、俺は」
内心焦りつつ否定する。ハッテン場がなんたるかは、一応調べては来ているが、今日はそこまで経験するつもりはなかった。まずはバッターボックスに立つ。そういう気持ちでやって来たのだ。
「自分がもしかしたらゲイなのかって考え始めたのも最近で」
へえ、と少年はますます食いついてきた。
「なんで自分ゲイかもって思ったの?」
「……親友が、ゲイで」
少年はカウンターに肘をつき、「で?」という表情で先を促して来る。そのはすっぱな感じが、嫌ではなかった。
少し無遠慮なノリで誰かに本当のことを聞いて欲しい。そんな気分になることが、人にはある。
「そいつはゲイってことを隠したがってたから、俺はなにも言わなかった。そばにいるだけでいいと思ってた。でも、そいつに恋人が出来て――要するに、失恋したんだな」
こういう店で隠しても仕方のないことだろう。
「それから、俺はそいつだけが好きだったのか、他の男とも恋愛できるのか、疑問に思うようになって――だから今日は、社会科見学ってとこだ」
素直にそう告げると、少年は長いまつげに縁取られた目を見開いた。まるで初めて鏡に映った自分の姿を目にした仔猫のような顔。
「失恋? こんなにいい男なのに?」
可愛いな、と素直に思った。
が、次の瞬間、その口元がにいっと歪む。悪巧みを楽しむ顔だ。瞳が悪戯っぽく輝いて、これはこれで悪くない――などと考えていたら、いつの間にか距離を縮められていた。
胸元から、小悪魔の顔がこちらを見上げる。
「じゃあ俺がいろいろ教えてあげるよ、おにーさん」
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