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10.それしかできない

 やっぱりのこのこついてくるんじゃなかった。後悔で頭がいっぱいになる。  店に合せたクラシカルなジャンパースカトー姿の店員がやって来て、龍介に「これでいいか?」と訊ねられる。よく確かめもせずに適当に頷いた。 「ご注文頂いてからの調理になりますので、少々お時間頂戴しております」  と残して店員が去ると、店内は静けさに包まれた。昼食どきからは微妙にずれた時間帯だからだろう。 「ももき」  突然名前を呼ばれた。 「――でいいんだよな? 読み方」  龍介はスマホの画面を覗き込んでいる。なんで名前、と思うのはお門違いというものだろう。なんでもなにも、自分が入れたのだ。芸名でも、役名でもなく本名を入れていたのはこの場合幸いだったと言える。  母とは家を出て以来会っていない。轍人はうっかり仕事中に呼んでしまわないようにとオフのときも芸名で呼ぶ。  舞台がかかれば現場では芸名どころか役名で呼ばれることも多い。本当の名前で呼ばれるのは実に久し振りのことだった。  なんだかこそばゆいと思いつつ頷くと、龍介は「ももき」と口の中でもう一度くり返した。 「いい名前だな」  そうだろうか。まあたとえとんだキラキラネームだったとして、人の名前を悪くなど言わないのが大人として最低限の礼儀ではある。  百樹の誕生日は三月三日。可愛いもの、美しいものが好きな母のことだから、本当ならずばり「桃」の字を使いたかったのかもしれない。  いや、いっそ女の子が欲しかったのかも。  百樹を天使と呼んだ彼女のことだ。娘が生れたら、きっとお姫様と呼んだことだろう。  女の子だったら、あの晩だってさすがに置き去りにされなかったのかも――母のつけたこの名前が、百樹は好きではなかった。名前のことを言われるとついそんなことをぐるぐる考えてしまう。  だから、続いて龍介の放った言葉がすぐには頭に入らなかった。 「これ、名字はなんて読むんだ?」  みょうじは。  なんてよむんだ??????  ――なんでフルネームで入力しちゃってんの俺―――!!!!!  信じられない。一晩だけの相手に。ばかじゃないの。ばかじゃないの俺!?  金魚のように口をぱくぱくさせていると、スマホを覗き込んだままの龍介は「ここを開けばいいのか」などと呟いて画面をタップした。電話帳を開いたのだろう。 「すももぎ。……〈すももぎ ももき〉?」  龍介の肩がふっと揺れる。苦笑交じりでなく、素直に笑ってしまった、という顔だ。 「……もが多過ぎって言いたいのはわかる」  ぼそっと呟くと、龍介は「いや」と否定した。否定したが、その肩の震えはさっきより大きくなっている。俯いて、必死で笑いをかみ殺している様子だ。 「――悪い。あんまりにも可愛いくて、つい」  どうにか笑いを収めたといった様子で龍介は言う。  可愛い――そんなの子供の頃から言い慣れた言葉だ。今に至っては「可愛いがお仕事です」だ。  だけどこの男の口から紡がれると、鼓膜でなく心臓が震える気がする。  なんでだ?  「失礼します」  店員が皿を運んできて、思考は断ち切られた。そのことにほっとする。と、同時に甘い匂いが鼻先をかすめた。  テーブルの上に供されたのは、外壁と同じペールグリーンの皿に盛られたフレンチトーストだ。  厚切りの食パンをさらに半分に切って耳を落としてあるので、美しい直方体が黄金色に染まっている。  それがレースのように敷き詰められた薄切りオレンジの真ん中にちょこんと盛られ、粉砂糖がふんわりふりかけられていた。  かっわ……!  名前を笑われたことも忘れ、百樹は添えられていたナイフとフォークをとった。ナイフを入れた途端感じる微かな抵抗に、この厚みと形状が計算しつくされた末にたどり着いたものなのだと悟る。  アパレイユをたっぷり吸いながら、食感も残すフレンチトーストは絶品だった。ほんのり香るオレンジの香りと苦みがたまらなくいいアクセントだ。  つい夢中で頬張ってしまい、龍介がじっと自分の顔を見ていることに気がつくのが遅くなった。 「……なに?」 「おまえは東京から観光に来て、しばらくここに滞在するんだよな?」  百樹は二本目のフレンチトーストに取りかかろうとしていた手を止めた。どうやら昨夜の自分はそんなことまでぺらぺら喋ってしまったらしい。  でももう切り上げて帰るよと言おうとしたとき、龍介の言葉がそれに待ったをかけた。 「その間だけでいい。俺に色々教えてくれないか。その……ゲイの世界のこと」  ゲイの世界のこと。  昨夜の会話が断片的によみがえる。 『自分がゲイかも知れないと思ったのは最近のことで……』  そうか。  そんな頼み事をするなら、同僚の来ない店の一番奥の席に座るのも道理だ。  雰囲気のいい店に連れて行ってもてなしてやりたいなんて、そんな意図じゃない。  俺って、ほんとにばかだなあ。  会っていきなりやっちゃう相手に、そんな気遣いするわけない。名前の読み方だってついさっき知ったような相手に。  ナイフとフォークを放り出し、唇についた粉砂糖を舐めとった。瞬間、龍介の目に動揺と――期待が走ったのを百樹は見落とさなかった。  そうだよ、俺は見落とさないんだ。こういうサインを。人の望むものを。  だってそれしか取り柄がないから。  足を組み、品のいい椅子の背もたれに不似合いに、だらしなく体を預ける。 「それは〈SEXを〉って意味?」  あからさまな単語に、龍介は一瞬怯んだ様子を見せた。すっと通った鼻筋の付け根に皺が刻まれる。少しの逡巡のあと、ひとつ覚悟を決めるようなため息をついた。 「……正直にいえば、それもある」  掠れた声を、ようやく絞り出せたって感じだな、と百樹は感じる。  どんないきさつか知らないが、二十代半ばまでノンケとして生きてきて、自分は実はゲイなのか? と疑問が生じたら、それは戸惑うことだろう。  それで初めて男とSEXしたのなら、気の迷いではないのかと、もう一度確かめたくなるのも無理はない。  ふっと百樹は鼻を鳴らした。きっと昨夜の自分がそうしたように。 「そんなに良かった? 俺のカラダ」  やや大きめの声に、龍介はちらりと店の入り口のほうを気にする。でもそれでいいのだ。だってこの人が望んでるのはきっと〈そういうキャラクター〉だから。  軽薄で、最近生じたセクシャリティの迷いに都合良くつきあってくれて、後腐れのない相手。 「いいよ。あんたもまあまあだったから、また俺を楽しませてくれるんならね」

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