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19.それは大丈夫じゃない

 「撫でる」と感じた風は、今や「そぎ取る」という表現がふさわしい。景色は目にする余裕も与えないままどんどん後方に流れていく。少しでも頭を浮かせたら、首ごと持っていかれそうだ。  朝はあんなに安全運転だったのに、今龍介の全身から醸し出されているのは、なにやら殺気めいたものだった。  百樹はやむなく龍介の背中にしがみつくしかない。  頭の中では、母に対する不安と憤り、それから言葉にできないいくつもの感情が渦巻いている。  連絡を絶っていたのは自分のほうだった。だから突然の知らせに憤る権利なんかないと思うのに、それはどんなに打ち消しても湧き上がってくる。  自分を愛してはくれなかった母の元を離れて、居場所を探した。  舞台の上でも、下でも、みんなの望むキャラクターを演じていれば、みんな喜んでくれた。  ありのままの自分で愛されることなんて、望まない。望んだらいけない。そんなこと、あり得ないことなんだから。  そうやって、全部諦めをつけた。五歳のあの日に。  だけど本当はずっと考えていた。イヴのあの日、仮面を被らずに本当の気持ちを言えていたらと。  いやだ。  淋しい。  そばにいて。  そう言えていたら。  どれぐらい龍介の背にしがみついていただろう。バイクはやっと減速して、広い駐車場に入った。しがみついているだけで精一杯、くわえて土地勘のない百樹は龍介がどこに向かっているかもわかっていなかったのだが、この建物には見覚えがある。  空港だ。  バイクを降りると、再びじっくり考える暇もなく「走れ!」と急かされる。  数分後、百樹は東京行きのロビーに並んでいた。    間もなくフライトだと告げるアナウンスで、百樹はやっと我に返る。 「えーっと……?」 「ギリギリで取れて良かった。まあ、平日だからいけるとは思ってたが」  そんな龍介の言葉を裏付けるかのように、規模に対して人影はまばらだ。 「うん。――じゃなくて、なんでおれたち搭乗口に並んでんの?」 「戻るんだろう。東京に」 「いやそんなこと言ってないけど!」  思わず荒げた声が、予想以上に響く。百樹は慌てて声を潜めた。大声でするような話じゃない。 「……俺、母親と仲良くないんだよ。だから別に、会えなくたって」 「だめだ」  ぴしゃりと、あまりにも強い調子でさえぎられて、戸惑いと怒りがわいた。 「だめって――」 「お客様。お荷物をこちらに」  喰ってかかろうとしたとき、手荷物検査で止められた。渋々ポケットを探って財布とスマホをトレーの上に出す。金属探知機をくぐって、先に立っていた龍介にやっと噛みつく。 「なんなの? あんたほんとに」 「話は乗ってからできる。急ごう」  龍介は相変わらずの調子で先を急ごうとする。地方の空港だ。搭乗口はもうすぐそこ。硝子張りの壁面の向こうに、待機する飛行機の姿まで見える。  あれに乗ったら、東京に着いてしまう。  恐怖のようなものが、冷たく胃の底を撫でていった。  他の男を愛して、子供を産む母さん。そんな母さんに会ったら、決定的になってしまう。  自分が愛されていなかったことが。  でも、命が危ないって。仲良くなくたって、たったひとりの親が。  どうする。  どうしたい?  わからない。  みんなの望むものはわかるのに、俺は自分がわからない。  どんな仮面も被れず、混乱のまま紡ぐ言葉は、乱暴になった。 「行かないって言ってんだろ! 人んちのことにずけずけ踏み込むなよ!」  声を押さえなきゃと思っていたはずなのに、ひときわ大きく響いたその声で、グラウンドスタッフの視線が集まる。 「あ……」  ばか、俺。目立つな。  本気の怒りなんて、誰にも見せるな―― 「悪い。今の冗談」って早く言わなくちゃ。軽薄な仮面を被って、うやむやにしなくちゃ。こんなマジなトーン、誰も喜ばない。  けれど複雑に絡みすぎた感情は、都合のいい言葉を拒んだ。茶化せない。謝罪もできないまま、ただぎりぎり握ったてのひらだけが痛い。  こんな態度、さすがに怒るよな――  恐る恐る見上げる龍介の顔は、怒りではないもので歪んでいた。  苦しげに引き結んだ唇。淋しげに細められた目。弱々しく、それでも百樹からそらさない視線。  これはたぶん、痛み。  ――え?  虚をつかれた瞬間、またしても手首をひっつかまれた。  龍介は、百樹の様子などお構いなしに、ぐいぐいとその手を引っ張っていく。一瞬垣間見せたあの表情は幻だったのかと思うほど、力強い足取り。 「仲が良かろうが悪かろうが、親の死に目には会っておけ」 「まだ死ぬって決まってないよ!!!!」  思わず放った声は、ひとけのない通路に反響して、その後一層の静けさをつれてくる。  気まずさに先に堪えかねたのは、百樹のほうだった。 「……まあ、死んでもいいけど、別に」  言葉の空虚さを気取られないよう、なにも言われてなどいないのに、続きをまくしたててしまう。 「あの人、俺が五歳のとき、俺より自分の恋人をとったんだよ。クリスマスに、俺を置いて男とデートに行ったの。そんな人が死にそうだからって、俺は、別に」  別に。  突然声を奪われたようにその先が紡げない。 「……俺が悪かった」  紡がれるため息。それは百樹ではなく、龍介自身に対するもののようだった。  己を鎮めるように再び深く息を吸い込んで、龍介は言う。 「嫌いなら、嫌いでいい。それをちゃんと伝えに行こう。五歳であんたに傷つけられてずっと苦しかったって、ちゃんと言うんだ。もしものことがあったら、それもできなくなる」 「え――?」  一瞬、なにを言われたのかわからなかった。 「嫌いだって、わざわざ言うために?」 「今まで言えなかったから、そんな顔してるんだろう」 「そんな顔って――」  今自分がどんな顔をしているのか、自分でわからない。仮面を被らない自分の顔が。わかるのは、きっと誰にも求められない、空っぽな顔だろうということだけだ。  なのにこの人は、どうしてそんなに真っ直ぐな目で俺のことを見つめるんだろう。  こんなにまっすぐ見つめ合っているのに、この人がおれにどんな仮面を被らせたがっているのか全然読み取れないのは、なんでなんだろう。 「……い、行くなら、ひとりで行く」  かろうじて口にできたのは、そんな言葉だった。  だって実際、これはおれ一人の問題だ。このひとはたまたまチャラ男が降りてるおれにひっかかっちゃっただけで、そうでなければ一生関わることもなかった、相手。  唇を震わせたのは、もう言い慣れてしまった言葉だ。 「ひとりで、だいじょぶ」  瞬間、龍介の精悍な容貌に、再びいらだちが乗った。 「嘘つけ。それが大丈夫って顔か!」  嘘? 嘘じゃない。だって俺本当にだいじょうぶだもん。  大丈夫じゃなきゃ、大丈夫って言わなきゃ、みんな俺のことなんていらなくなるに決まってる。  だから俺は大丈夫の仮面を被るんだ。  心に蓋をして。そこになにもかも押し込めて――  両頬を両手で挟まれたのは、もう一度「だいじょうぶ」と口にしようとしたときだった。  ――え?    戸惑う間に、有無を言わさぬ強い力で、強引に上を向かされる。  合わされた龍介の瞳には、哀しみのようなものが浮かんでいた。 「……それは、大丈夫って、言わない。わかるか?」  まるで子供に噛んで含めるようにくり返す。  両頬に手を添える姿は、初めて仮面を被ったあの夜の母と似ていてーーでも、まったく正反対の言葉を。 「お客様、お急ぎください」  グラウンドスタッフが急かす。「行くぞ」と龍介に腕を掴まれ、百樹はふわふわとした足取りのまま飛行機に飛び乗った。

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