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20.透明な彼女

 一時間半。たったそれだけで百樹の体は東京に着いた。  蝶々の羽ばたきのような朝日に輝く湖面を見ていたのがほんの数時間前。         体と心のちぐはぐ感は相変わらず続いている。龍介はそんな百樹をモノレールに乗せ、駅に着くと今度はタクシーに押し込む。抵抗する間もなかった。 「百樹!」  病院にたどり着くなり、轍人が駆け寄ってくる。かたわらの龍介を見上げ、怪訝そうな顔をしたのは、無理もないことだ。  それに気分を害した様子もなく、龍介はいつも美しい立ち姿のまま、頭を下げた。 「ひとりで行かせるのは心配な状態だったんで、ついてきました。部外者が、突然すみません」 「……いえ、それは……有り難うございます。……えっと、私百樹の叔父で、李木轍人と申します」  戸惑いながらも轍人が名乗る。龍介の表情が、なぜか少し柔らかくなった気がした。 「叔父」 「はい。今は仕事のマネジメントも――おい百樹。向こうでお世話になった方か?」  轍人が戸惑うのも当然だった。知り合いがいない場所を選び、役を落とす。ひとりで過ごすのが目的だから、行った先で知り合いを作ることも今までならなかった。  なんでこの人、こんなとこまで着いてきてるんだろう。お金だって凄くかかるのに。  ……ゲイ業界デビューのために俺を選んだだけなのに。 「――会ったその日にやっちゃっただけの人」 「や……っ!?」  龍介がどんな人間なのか、百樹にだってわかりはしない。やけくそでそう告げると、轍人が言葉を詰まらせる。龍介の顔は見られなかった。 「……母さんは?」 「あ、ああ。急遽帝王切開になったが、出血が酷くてまだ処置に時間がかかるそうだ。――座って待とう」  廊下の長椅子に腰を下ろすと、当たり前のように龍介が隣に座った。そして百樹の手を握る。実は飛行機の中でもこの調子だった。「中で話せる」と言ったのは龍介のほうだったのに、じっと黙ったまま手だけ握って、離してはくれなかった。  ――逃げないようにって?  むっとして、無言で振り払う。けれど龍介の大きな手は力強く、再び指を深く絡められてしまう。億劫になり、百樹はされるがままにした。  処置室の扉は依然、開く気配もない。轍人の身につけた腕時計の秒針が刻む音だけが、微かに、そして間断なく響いている。 「……姉さんは」  不意に落ちた轍人の呟きが誰のことを指すのか、一瞬わからなかった。  轍人も母のいつまでも少女のような性分には長年困らされていて、普段 なら「あいつ」と呼ぶからだ。 「姉さんは、俺たちの中で唯一の女で」  たしかに、四人いる祖父母の子供の中で、女は母だけだ。それは聞いて知っている。いまさらなんでそんなことを言うんだろう? 「〈私は透明なの〉って、子供の頃からよく言ってた」 「とうめい?」 「李木みたいな家で、一番上と二番目が男で、しかも優秀だと、三番目で女だった姉さんは、たとえテストでいい点を取っても誰にも褒められなかった」  百樹は祖父母に会ったことも数回しかない。子供の頃、それも近しい親族の葬式だとか、そういうどうしても顔を出さないわけにはいかない席でのことだ。その席でも、親しく話しかけられた記憶はない。  その頃の百樹はまだ幼すぎて、幼稚園のクラスメイトから聞く「おじいちゃんち」とはなんだか違うな、としか思わなかった。  母の元を離れてからは、一度も顔を合せてはいない。 「そのうち姉さんはそれさえ口にしなくなった。ほんとなら外部受験もできた成績もどんどん落ちて、女子校からそのままエスカレーターで女子大に行くしかなかった。その大学の頃出入りしてた華道の先生の撮影現場で編集者の目に留まって、姉さんメインの本が世に出たときも、両親も兄も〈無能なおまえの落とし所としては上々だ〉と言ったきりだった。自分たちの仕事に役立つか競合するかでなければ興味がないからな、あの人たちは」  皮肉なもので、それから母の手がける世界は、どんどん美しさを増していったという。  母の最初の本は、その手のものでは珍しく、発売即重版になった。それを機に母は大学を休学。やがて正式に中退して仕事に打ち込むようになり、その縁で知り合った百樹の父親と結婚した。  離婚したのは、まだ百樹を妊娠中のことだったという。  それでも、祖父母の反応は薄かった、と轍人は呟いた。 「姉さん、少しおまえに手がかからなくなった頃、何人かの男ととっかえひっかえ付き合ってたことがあったよな。おまえを置き去りにして家をあけたり。それは知ってたんだ。……でも、姉さんよりさらにみそっかすでまだ学生だった俺には、どうすることもできなかった」  反応が欲しいわけではなかったのだろう。轍人は言うだけ言うと「飲み物でも買ってくる」と立ち上がった。    病室に入るのが許される頃には、すっかり日が暮れていた。  母子共に命に別状はなく、子供は念の為保育器に入れられている。そんな医師の説明を、百樹はひどくうつろに聞いた。  母は相変わらずどこか少女のような面影を残していたが、今はひどくやつれて見えた。眠るまぶたに血の気はない。  その姿に、名付けることのできない感情がこみ上げる。  無事で良かったという気持ち。  素直にそう思いたくない気持ち。  そんな自分を責めるべきなのか許すべきなのか、わからない。 「……ももき?」  か細い声がする。気づけば、ベッドの上で母が透けるほど青白いまぶたを力なく持ち上げていた。 「来て、くれたの」  病室の隅には轍人も龍介もいるのだが、たぶん、まだ意識のおぼろげな彼女の目には入っていないだろう。 「……お休みだったんでしょう? ごめんね」  母も、百樹が彼女に対して複雑な感情を抱いていることには気がついていたのだろう。その瞳が翳る。  その悔いの色を見て取ったとき、百樹の中にはたしかにいびつな喜びがあった。  そうだ。後悔して欲しい。俺を愛さなかったこと。俺のことは愛さなかったのに、また別の命を宿したこと。 「……っ」  言葉は明確な形を持たず、ただ、呻き声のようにこぼれ落ちた。  自分の中の醜さ。  それを許せない気持ち。  けれどその醜さは、この人の仕打ちから生れたんだという気持ち。  すべてが絡み合う。膝から下が消えたように力が入らなくなった。まただ。心と体がそれぞればらばらに苦しんでいる。  今すぐ背向けて、ここから逃げ出したくなる。  ドアに視線を走らせたとき、そこに立つ龍介と目が合った。  とっさに仮面を被れなかった。  ーー今のおれ、たぶん、情けない顔してる。全然遊びやすくなんかない、捨てやすくない顔を。  それでも龍介は視線をそらさない。ただ、ゆっくりとひとつ頷いてみせた。    機内でも、病院の廊下でも、龍介は握った手を離そうとしなかった。    百樹は、母に向き直ると、目を閉じてすうと息を吸う。 「……会ってちゃんと文句言えって、言うなら生きてるうちだぞって言ってくれた人がいて」  母が目をしばたき、それに払われたかのように翳りが消えていく。  弱々しかった表情にかすかな笑みが乗ると、百樹の中でくすぶっていた気持ちも少しずつ氷解していくようだった。  母がゆっくりとまぶたを伏せる。 「どうぞ。ちゃんと、全部聞くわ」  覚悟を決めたように唇を引き結ぶ顔からは、少女の面影が消えていた。  うーん、と百樹はわざとらしく唸る。 「なんかもう、いいかな」  そう口にしたのは、母の体調を気遣ったからではなかった。轍人の話にほだされたからでも。 『大丈夫』と言ってしまったあの日から、ずっと喉元につかえていたものがあった。  笑っていても、演じていても、それはずっとそこにあったのに、もう存在を感じない。体は妙に軽かった。  きっと、会いに来なかったら、まだつかえたままだった。  仮面をはぎとってくれる人がいなければ。 『嫌いなら、嫌いでいい。それをちゃんと伝えに行こう。五歳であんたに傷つけられてずっと苦しかったって、ちゃんと言うんだ』  そう俺の代わりに言ってくれる人が。

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