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第9話

3.  幼い頃の夢を見た。母と水族館に行った時の夢だ。  田舎の寂れた小さな水族館で、幼い頃の紅は楽しそうに水槽を見ている。ふよふよと泳ぐ海月の美しい姿に心奪われた少年は、その赤い瞳をきらきらと輝かせて、無邪気に笑って見せた。  思えば、幼い時分より酷く臆病で、引っ込み思案な性格の紅は、派手な容姿の割に他人と外で遊ぶよりも、一人室内で本を読むことを好んでいた。騒がしいのが苦手で、クラスの中心人物とはなるべく関わり合いたくない。できれば空気のようになれたら最高だった。  いつからそんなに一人が好きになったのかは覚えていない。保育園の頃は、よく蒼に手を引かれて園庭や近所の公園で遊んでいた時期もあったが、いつの間にか、蒼のようにクラスの真ん中でみんなと遊ぶのが苦手になっていた。  夢の中の自分は、まだ無邪気に笑っている。おかーさんと舌足らずに笑う姿は、この世の穢れなんて知らないというような顔だ。  父親に捨てられたことも、自分がオメガであることもまだ知らない、無垢な子供。  自由に水槽を泳ぐ海月が、幸せだって信じて疑わない、幼い自分。  水槽という箱庭で、必死に泳ぐ姿が本当に幸せだというのなら、同じように必死に泳ぐ自分は、果たして幸せなんだろうか。止まる選択肢が彼らにないように、逃げる選択肢が与えられず足掻く自分は、どこまで落ちれば右京美樹から逃れられる?   うっすらと目蓋を開けると、頬を涙が伝っていた。陽の光がカーテンの隙間から差し込んで眩しくて窓に背中を向けるように寝返りを打つ。爽やかな朝には似つかわしくないため息が零れ出た。  ふと、枕元に置いていたスマートフォンのバイブが鳴る。手に取って画面を見ると、バイト先からの着信だった。 「はい。佐渡です」 「ああ、紅くん! 朝早くにごめんね。急なんだけど今日の昼シフトに穴が開いて困ってるんだ。一時から五時まででれないかなあ」 「あ、いいですよ」 「そうか、よかった。ありがとう。じゃあ、よろしく頼むね」 「はい、じゃあ一時に」  六十手前の柔和な雰囲気の男性が柔らかな口調でそう言うと、紅は相手に見えているわけでもないのにこくこくと頷いて通話を切った。  紅が働いているのは自宅から徒歩で十五分の喫茶店だ。先程の男性がマスターを務めており、一年生の頃から世話になっている。バイト募集の張り紙を見ていた紅にマスターが声を掛けてくれたのがきっかけで働き始めたのだけれど、職場の雰囲気はとてもいい。大学生が二人と、社会人が三人、マスターと最年少の紅を含めて従業員は全員で七人。男女比は男性の方が多いか。バース比はベータが多い。  美樹にラインで急にバイトが入ったことを伝えて、朝食を摂りに寝室を出る。コーヒーを淹れて飲みながらテレビをつけた。ニュースには華王子家のことが取り上げられていて、つい顔を顰める。クロワッサンを齧る手が思わず止まって、胃にもやもやとしたものを感じた。  小さく息を吐いてクロワッサンをさくさくと食べ終えるとリビングの椅子から立ち上がって寝室に戻り箪笥を開けて着替えをする。少し大きめのサイズの白いトレーナーに袖を通すとスマホがブーッブーッと音を立てた。  画面を見ると四堂蒼の文字。応答を押して耳にスマホを当てる。 「もしもし」 『よお、紅! 今日暇か?』 「今日はこれからバイト」 『あれ? 休みじゃなかったのか?』 「急遽入ったから……」 『そっか、買い物行きてえって思ったんだけど……仕方ねえかー』  残念そうに蒼が電話向こうでため息を吐く。 「バイト、終わったら大丈夫だよ」 『マジ?じゃあ駅で待ち合わせしよう』 「うん」  顔が見えてもいないのに笑顔を浮かべて頷く。通話を切って、大きく伸びをすると黒のズボンを履いてランドリーバスケットに入った洋服をまとめて洗濯機の中に放り込んだ。ゴウンゴウンと鳴る機械が甲高い音を鳴らすまで部屋に掃除機を掛ける。ポケットで何度かラインの通知音が鳴る度、美樹かどうか確認し、わざわざ取り出して返信を打たねばならないので時間がかかって仕方がない。大体終わったかというくらいに洗濯機が音を鳴らしたので慌てて取りに行き、ベランダに運んで丁寧に干す。青空の下に広げられた洗濯物が風に靡いてパタパタと揺れる。  時間を見て準備を整えると玄関に向かう。行く前に本屋に寄りたいと思った紅は少し早めに家を出ることにした。  お気に入りのスニーカーを履いて家を出る。鍵を閉めて、つま先で地面をトントンとして靴に足を押し込むと歩き出す。胸の前に着けたボディバッグからスマホを出してイヤホンを繋ぎ音楽を聴く。機嫌のいい紅の足取りは、音楽もあってとても軽かった。 *** 「紅くんはいつも偉いねえ」  紅がコーヒーを机に置くと同時に老齢の女性が優しそうな笑みを浮かべて言った。常連客の彼女は決まって十五分ほどで退店していく。いつも窓際の席で楽しそうに微笑む姿が紅の小さな癒しであることは本人も知らないだろう。  照れくさそうに笑うと、紅は勤務中だけ右側に一纏めに止めている前髪をそっと撫でた。  女性がくすくすと笑っている反対で、カランカランとベルが鳴る。いらっしゃいませと、笑顔で振り返ると顔面が凍り付く。  やっほーと手を振る男はマスターに声を掛けると適当な席に腰を下ろした。後ろから八木と古川が続く。今まで一度もバイト先に来たことはなかったが、なにか気に障ることをしただろうか。紅は嫌な汗を掻いて引き攣った笑みを浮かべる。 「い、いらっしゃい、ませ」 「こんにちは、紅ちゃん。エプロン姿もいいね、似合ってんじゃん」  ニッコリと笑う美樹が手招きする。仕事だと割り切ることはできないで、引き攣った顔で近寄って注文を取る。 「注文は……」 「俺はアメリカン」 「俺カフェオレー」 「俺もアメリカンかな」 美樹の後に八木、古川が続く。注文書にメモして席を離れようとしたが、着ていた服をくいっと引っ張られて足を止めた。 「バイト、終わるまで待ってるから。あと四十分弱でしょ?」 「右京、今日は」 「待ってるから」  言葉を遮られて何も言えず口を閉じる。美樹の鋭い目が、その先を言うのを許さなかった。  手に持った紙をマスターに提出すると、お盆を胸に抱えてため息を吐いた。 「紅くんもう上がっていいよ」 「おう、佐渡。ご苦労さん」 「お疲れ様です」 マスターと、紅と交代で出勤してきた二十七歳の馬場に声を掛けられてバックルームに入る。前髪を留めていたピンを自分用の引き出しに入れて、エプロンとシャツを脱いで着てきたトレーナーに着替えると、着ていた制服をバスケットに放り込んで勤務カードに打刻する。 「お先に失礼します」  バックルームから出てぺこりと頭を下げると二人は小さく手を振った。店内を見ると、美樹がひらひらと手を左右に振っているので恐る恐る近づくと、今日はもうおしまい? と首を傾げられた。こくりと頷くと美樹は立ち上がって紅の手を引き、喫茶店から出ていく。その背をつんのめりながら追う。会計は古川と八木が行っていた。 「右京、あの、今日は予定があって」 「ああ、そうなの? 誰と?」 「あ、それは……その」 すたすたと駅の方面に歩いていく美樹の背中に声を掛けると振り向きもせずに聞き返されて言葉に詰まる。蒼とは会わないという約束をさせられているのに、蒼と会うと言うわけにはいかなかった。急に口を噤んだ紅に美樹はぴたりと足を止める。振り返って、無表情で首を緩く傾けて問う。 「四堂と会うんでしょ」  ドキリと胸が変な音を立てる。嫌な汗が背中を伝った。問いではなく、その言葉は確信だった。ばくばくと心臓が大きな音を立てる。怖くて美樹の目が見れない。掴まれている手に力が籠って、思わず顔を歪める。  否定も肯定もしない紅を、美樹はしばらく黙って見つめていたが、その背中に八木たちの姿を確認すると、けろっとした様子で手の力を緩めて、にこやかに笑った。 「いいよ。許してあげる。今回は特別ね。待ち合わせどこ?」 「え……? あ、駅前の、銅像の前に十五分待ち合わせだけど……」 「じゃあ早く行こ。古川―お前ら二人今日もう帰っていいよ」 「はいよー」  ぐいっと手を引かれて紅は再び歩き出す。何を考えているのかよくわからない男は、会うなといった相手との待ち合わせについてくるつもりらしい。帰れと言われた古川達は気だるげに手を振って反対方向に歩いていく。  紅は美樹と蒼が会うのに対して不安を抱いたが、それを止める術もなくただ黙って唇をきゅっと噛んだ。 *** 「あれ? 美樹じゃん。紅と知り合いだったの?」  合流した蒼が不思議そうに開口一番そう言った。隣で手を振る男がにこやかにそうそうと頷く。  二人が知り合いだったという事実に驚いて美樹の顔を見たが、平然とした様子でいつも通りの笑みを浮かべているだけだった。 「そうそう、クラスメイトだったんだよね。まさか、蒼クンのいう佐渡紅くんが、俺のだーいすきな紅ちゃんだとは思わなかったんだけどさあ」 「そうだったのか。紅は学校の話してくんねーからさ。ちゃんと友達いるみたいで安心した」 「そうなの? あんまり自分の事話したがらないもんね、紅ちゃん」  くすくすと笑う美樹に蒼がうんうんと頷く。二人の間に挟まれて居心地の悪さを感じながら、紅は何も言えずに立ち止まる。蒼の様子や会話を聞くには自分との関係は伏せられているようだが、いつ、全部バラされるかと冷や冷やしていた。ぎゅっと心臓を鷲掴みにされているような感覚に陥る。 気持ちが悪くなって眩暈がした。 「どうしたの? 紅ちゃん。行くよ」  美樹が手を差し伸べる。少し悩んでゆっくりとその手を取る。駅近くのショッピングモールを素通りして、美樹のおすすめのショップに向かって三人で歩く。楽しそうに二人が会話をしている横で、紅は小さくため息を吐いた。 右京美樹の考えていることが、よくわからない。  蒼はどうやら新しいパーカーを買いたいと思っていたらしく、美樹が案内したのは蒼が好みそうなストリート系のブランド店だった。右京ということを伏せているのに店員が妙にへこへこしているが、蒼は鈍感なので気が付いていない。 美樹も服を見ているらしく、気に入ったものを手に取っては、これは似合う? これはどう? と何度も聞かれ、紅は返答に困ってしまったが、蒼の無意識なフォローのおかげで事なきを得た。 蒼も蒼で、これ買いたいといちいち確認をしに来る様はまるで子供の様だった。 「今日はありがとうな、美樹」  駅で蒼が笑う。美樹だけ家の方面が違うと言うのを知っているのか、そうだと無意識に思いこんでいるのか、蒼はじゃあなと手を上げた。美樹が手を振り返したのを見て、方向が一緒の紅に帰るかと声を掛けた蒼に、満面の笑みの美樹が「違うよ」、と言った。  紅の中で嫌な予感が過る。 「紅ちゃんは、俺の番予定なの。わかるでしょ? ここまで言ったら。蒼クン悪いけど一人で帰ってくれる?」  ぐいっと腕を引かれて美樹の胸に収まり、その言葉を聞く。否定したいのに、喉が張り付いて言葉が出ない。違う、違うんだ。蒼ちゃん! と懸命に心の中で叫ぶ。今、彼がどんな顔をしているか見えないが、蒼の戸惑ったような声が確かに聞こえて、拳をぎゅっと握った。 「あ……そか、ごめん、気が付かなくて…………お、おれ、帰るわ!」  慌てたように、ガサガサとショッピングバッグの音を立てて駆け出して、ぶつかりながら人を掻き分けて去っていく蒼を見て、美樹は口角を上げる。頭の中が混乱しているだろう蒼の顔は、ショックで蒼褪めていた。 「さ、邪魔者は帰ったし、おうち行こうか、あ――」 美樹がその名前を呼ぼうとしたとき、拳が彼の頬めがけて飛んできた。それを寸でのところで避けて、手首を掴む。掴んだ手とは反対の手が美樹の胸を力なく叩いて、紅の身体からずるりと力が抜けた。 「な……んで、なんで、蒼ちゃんに言うんだよ……嫌いだ、お前なんか、お前なんか嫌いだ……」  しゃくりあげて泣く紅に美樹は目を見開く。そんなにあの幼馴染が大切なのか。しゃがみ込むその背を優しく撫でながら、自分の中に蠢くどす黒い感情を必死に抑え込む。 あの、人当たりのいい、ただの運動馬鹿のような四堂蒼という人間が、まさかここまで佐渡紅の中を占めているとは、美樹にとっては全くの計算外だった。  左手で紅の背中を撫でながら、右手にスマホを取り出して速水という名前の人間に電話を掛ける。ふたつ、みっつほど言葉を交わして通話を切ると、美樹は鼻を啜りしゃがみ込む紅を抱き上げた。 「こんなところで泣いてたら目立つし、とりあえず移動しよっか。迎え呼んでるから、帰ろ」  じろじろと見る人間の視線をシカトして軽々しく抱きあげた紅を連れて駅のロータリーに足を向ける。  数台の乗用車に紛れて停車した黒いリムジンの周りには、人が数人ほど物珍しそうに集まっていたが、美樹は慣れた様子でその真ん中を抜けていく。それに気が付いた速水という名前の四十代半ばの男性が恭しく頭を下げてドアを開けた。 「出せ」  紅と美樹が乗ったのを確認して運転席に乗り込んだ速水に美樹が冷たく言い放つ。丁寧に返事してゆっくりと動き始めた車の中で、美樹は足を組んで窓の外を眺める。ちらりと見た紅は、俯いて拳をぎゅっと握っている。どうやら、美樹と話をする気はないようだ。 軽くため息を吐く。いつもならびくりと跳ねる肩はこれっぽっちも動かない。頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜて、美樹は天を仰いだ。  ――四堂蒼。本当に、邪魔な奴。 3 終

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