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第1話
朝晩は涼しくなったが夏の名残で森の緑は濃く、冬前にと急いで咲く花と、早く熟そうと急ぐ木の実の色が彩を添えている。見通しの良い丘の上にある大きな岩の上に黒い影がひとつ、イライラと悪態をついた。
「今日はおせーな」
黒い影に見えるのは、尖った耳をピンと立てた利発そうな狼族の少年だ。年の頃は15、6歳だろうか。
少年の名前は白狼という。『白狼』という名前だけれど白い狼ではない。毛皮の色はこの辺で一般的な狼の毛色、つまりは黒っぽい灰色だ。この名前は両親が『雪の様に白く清い心になるように』と付けてくれた。その両親はもう何年も前に狼狩りに捕まり連れて行かれてしまった。兄弟達も両親を追って一緒に捕まり、一番身体の小さかった自分だけが、怯えて一歩飛び出すのが遅かったおかげで捕まらず、ただ一人ここに残っている。
でも寂しくはない。
両親も兄弟も、白狼をかばって振り向きもせずに連れられて行った。白狼がこうしていられるのは家族のおかげで、いつか家族が戻って来た時に迎えるためにと、ずっと一人で暮らしている。
「あ」
やっと来やがったな、と白狼が呟いた。口は悪いが、表情と声色はウキウキと嬉しそうだ。
白狼がずっと眺めていた森の入り口には小さな赤い塊がひとつ、森へ入ろうとしている。白狼は足音をたてて気付かれないようにそっと、森の入り口への近道である丘の急勾配を自慢の足で駆け降りる。
赤い塊に近付いていくと、赤い色は頭からすっぽり被ったケープだとわかる。その、ぴょこんぴょこんと跳ねるように歩く様子は、それだけで愛らしさが溢れている。
白狼は近くの木から小さく固くて甘い木の実を採ると、赤いケープのフードめがけて投げる。
「いてっ!」
赤いフードがハラリと落ちて、フードの下で垂れていた耳がピンと立ち上がった。耳は長くて灰色だ。だけど、白狼の毛色のような不穏な黒と言うよりは、お日様に透けるとふわふわと暖かく柔らかに見える煤竹色だ。そんな愛らしいいで立ちとは裏腹に、「コラー!」と怒鳴り散らしてキョロキョロと辺りを探り、白狼を見つける。
「そこだな!! イテーじゃねーか! 今、木の実を飛ばしただろ! 頭に当たったんだからな」
「俺がか? 俺はここで木の実を喰ってただけだぜ。証拠あるのかよ」
白狼は素知らぬ振りで、にやにやとその愛らしい兎を挑発する。
「証拠はないけど、お前意外にいないだろ!」
「小鳥が落としたのかもしれないだろ」
そう言われて『証拠はないけど、でも絶対あいつだ!』とギリギリと歯ぎしりをして悔しがる。そんな仕草さえ可愛くて、白狼はワクワクした。
「この実、喰ったことあるか? ないだろう。美味いんだぞ、喰ってみるか?」
そう言うと、食べごろの実をいくつか採り、自分の口に入れて見せてから、その兎に届ける。赤い塊は納得いかずに悔しそうだが、美味いという実の誘惑に勝てずに、素直に白狼の手からひとつ摘まんで口に放り込む。
「甘い!」
「だろう?」
思ったよりも甘くフルーティーな味に兎が思わず笑顔になると、白狼も釣られて自慢気に笑う。
「これ美味いな。ばあ様にも持って行ってあげよう」
さっきまでの怒りも忘れて嬉々として白狼に話しかるのは、笑った笑顔が少年と言うに相応しい、元気な印象の兎の男の子だ。名前は玄兎と言った。
くりくりとした大きな目、その深い黒色の瞳にちなんで、黒を表す玄兎と名付けられた。大きな目、濃い瞳、長い耳、柔らかな茶色の体毛は少年らしい明るい元気さと繊細さをよく表している。身体は白狼と比べると半分を超える程しかなく、狼族に比べて小柄な兎族の中でも玄兎は特に小柄だった。
手を伸ばしても到底届かないだろうと思うのに、玄兎はその小さな身体を精一杯伸ばし、跳んで木の実を採ろうとする。フードを落とした真っ赤なケープが、玄兎の動きに合わせてふわふわと舞う。その姿は小さな子供が遊んでいるようでとても可愛らしいが、本人に言ったら鬼のように起こるだろうと、何も言わずに白狼は玄兎に採った実を渡した。
「美味いが、沢山食べると毒だってさ」
「そっか、じゃあこれだけにしておこうかな。サンキュ」
玄兎が白狼を見上げてニコリと笑う。
「実が欲しかったら呼べ。代わりに採ってやる」
「またチビだってバカにしやがって……。すぐに白狼なんて追い越してやるからな」
バカにしたわけではないがそう聞こえたのか、玄兎は白狼に噛み付くように言う。
「抜かせるものなら、抜かしてみせろ」
そう答えながら、何ですぐに玄兎は怒ってしまうのだろうと考える。多分、自分の言い方が悪いのだろうけど……。
今から二カ月程前、一年で一番暑い季節に玄兎に出会うまで、白狼はほとんど誰とも話さない生活をしていた。肉食獣は一般的に草食獣には好かれない。怯えて逃げられてしまうのが常で、今まで出会った草食獣は話をするのはおろか、側に寄る事もできずただ楽し気に遊ぶ姿を遠くから眺めるだけだった。
だからだろうか、玄兎と会話をするのは何だがむずむずして、思った事を上手く口に出せない。それを歯痒く思いながらも、一度怒らせてしまえばより挑発してしまうか、何も言えず黙ってしまうしかできない。
ぷりぷりと先をゆく玄兎の後を、傍からはそう見えないがしゅんと尻尾を落とした白狼が着いていく。
玄兎の耳が時折、ピクリピクリと後ろを向いて白狼を気にしているのがわかる。そのままずんずんと進んでいたが、木陰の所で玄兎は止まり白狼が追いつくのを待つ。
「そんなに離れて、尻尾垂らして付いて来られたら俺が虐めたみたいだろ。隣歩けよ」
「尻尾なんか垂らしてない」
言い合いをしながら並んで歩きだす。すると白狼が歩くのが早くて玄兎が駆け足で付いて行くようになり、今度は「お前早すぎるんだよ」「玄兎が足が短いからだろう」と言い合いになった。
憎まれ口を言いながらも、白狼がこうして側に寄っても逃げ出さずにいてくれるのは玄兎ただ一人だ。
他愛ない話をしながら玄兎のばあ様の家まで、三十分程の距離を並んで歩く。
玄兎が初めて一人で森に来て入り口で立ち竦んでいる時に「何してるんだ?」と白狼が声を掛けた。驚きと恐怖と、出てきたのがおばけではなく言葉の通じる狼だった事に安堵して、『肉食獣には気を付けろ』と言われた事も忘れて玄兎は思わず泣き笑いになった。
涙でうるんだ瞳で「ばあ様の家に行くんだ」と言う玄兎に、「そんなチビが一人で行くのは怖いだろう」と森を抜けた一軒家のばあ様の家まで一緒に歩いた。それ以来、習慣のように玄兎が森に入る時には白狼が現れて、ばあ様の家の近くまで送って行き、帰りはまたどこからともなく現れて帰りの三十分程を一緒に歩く。
森の中の一本道を一人で歩くのは村育ちの玄兎からしたら心細く、白狼が一緒にいてくれるなら心強かった。どうせならと、そこから先の村に続く原っぱに白狼を誘ったこともあるが、森から先には絶対に出てこなかった。
「今日はいつもより長かったな」
玄兎がばあ様の家から出て森を通り抜けようとすると、またどこからともなく白狼が現れる。
「ばあ様は元気だけどやっぱり年だから。最近、少し調子が悪いみたいでなるべく長くいてやりたいんだ」
「意外と優しいんだな」
「意外とって何だ、俺は最初から優しいだろ」
そう言われて白狼は考える。確かに愛らしい見た目に反して口汚くて粗雑だが、こんなに小さな兎族の子供が一人で森を抜けてばあ様の見舞いに行こうなんて、余程勇気があって優しくなければ出来ないだろう。
「ふむ。確かに、ばあ様には優しいかもしれないな」
「ばあ様には、って何だ。そんな事言う奴には、ばあ様からの土産やらねーからな」
そう言って、手に持った袋からチーズのかけらを取り出す。
「ごめん、玄兎は俺にも優しいです。だから、チーズ下さい」
大好物のチーズに白狼はピンと耳を立て、すぐに謝ってチーズをねだった。
本来、狼族は肉食で他の種族を捕らえて食べてしまう事もある。それ故に肉食獣は草食獣に恐れられていたが、今では草食獣の村と契約をして赤子の入っていない卵をもらったり、乳をもらってタンパク質を取る事もあるらしい。中には草食獣が死体を提供して他の肉食獣や人間から守ってもらうという習慣もあると聞いた。けれど若い一匹狼の白狼がそんな事をできるわけもなく、普段は果物や木の実で飢えを凌ぎ、小さな虫やカエルを食べて栄養を取っていた。
玄兎からもらえるチーズは好物なだけじゃなく、貴重なたんぱく源だ。
「ほら」
「ん?」
てっきり一片だけだと思っていたのに、手に持ったチーズをポイっと自分の口に入れた玄兎は袋ごとチーズを白狼に渡し、白狼はズシッと重い袋に驚いた。
「いいのか? こんなに……」
「お前、狼だけど俺のことは食べないだろ。だから、俺の代わり」
「代わりって……」
「なんてな。ばあ様がくれたんだ。ばあ様の家はミルクが沢山貰えるから。好物だろ? ばあ様が狼にくれてやれって」
「まって、おばあさんに俺の事話してるのか?」
「当たり前だろ」
さも当然という玄兎に驚く。玄兎は白狼を受け入れて話もしてくれるけど、普通、孫が狼と会っているなんて嫌がりはしないだろうか。
「おばあさんは、俺に会うなとか言わないのか?」
「言うわけないだろ。お前が一緒にいれば森も怖くないしな。知ってるか? この赤いケープ、遠くからでもすぐにどこにいるのかわかるし、目立てば襲われにくいからって着せられてるんだぜ。似合わないのにさぁ……。でも、それがばあ様の家に来る条件だから仕方ないんだけど」
玄兎はフンッと気に入らなそうに口を尖らす。
「似合ってる、けどな」小さな呟きに「何?」と聞き返された。
「ちっちゃい子供みたいで似合ってる!」
「……バカに、してんだろ?」
「してねーよ!」
そう言いながら、白狼は顔が紅潮するのをごまかそうとする。
「やっぱ笑ってんじゃん!」
腰を小さな拳で叩かれてビクリとする。
初めて、玄兎に触れたかもしれない。全然痛くなくて子供に叩かれたようなくすぐったいものだったけど……、心までくすぐったくなり「痛ぇよ」とうそぶく。どうしたらいいのかわからなくなり、そのままずんずんと先を歩く。
「ごめんって!」
慌てた玄兎が追いかけてきてするりと白狼と手を繋ぐ。白狼は驚いて、それこそ地面から飛び上がったが、あたたかくて柔らかな手は意外な程力強くて、振り解こうとしても離せない。
「……俺達、兎と狼だけどさ……、でも友達だろ?」
小さな呟きに玄兎を見ると、大きな黒い瞳が白狼を捉えてじっと見つめる。嬉しい事を言われてるはずなのに、実感が全くない。ドギマギと玄兎から目を逸らして言う。
「……そ、うかぁ? 狼と、兎だぞ」
「狼と、兎でも!」
ぎゅっと手に力を入れられて、白狼にふわふわとした嬉しさが湧き上がる。
「そっかぁ……、俺、友達って初めてだ」
「やった! じゃあ、俺が白狼の友達一番だな」
満天の笑顔を向けられて、きゅっと心臓が苦しくなった。玄兎は繋いだままの手を大きく振って歩き出す。白狼は小さな子供を連れた散歩みたいだな、と思ったけれど何故かそう言うことはできなかった。
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