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第1話

 深い森の底には淡い木漏れ日しかさしこまなかった。暗い噂に満ちたこの場所に足を踏み込むことを、男以外の全員が恐れていた。男は小国の王族の一員だった。宰相の一族に国を奪われ、腹心の部下と少数の手勢で逃亡中だった。  王族とはいっても、男は身分の低い母に生まれ、これまで王位継承と無縁なまま騎士として王に仕えていた。宰相一族が王の首を取った時、たまたま都を離れていたために生き残ったのだ。  男の当面の目標は、王の縁戚が治める大国へ亡命すること、その次の目標は挙兵して自国を奪還することだ。しかし今は追われるまま、魔物が出ると恐れられる森をさまよっている。それ以外の道はなかった。  男は森の中まで追手が来ないことを願ったが、王族をひとりでも残せば禍根が残るとわかっている敵方はあきらめなかった。やがて追手の弓に男の腹心が負い、逃げまどう一行はついに道に迷ってしまった。  亡命先の大国のあいだにたちはだかるこの森には、恐ろしい魔物が棲むといわれている。隊商が使う道も森のはずれにしかない。だが男は魔物を恐れてはいなかった。騎士として育ち、魔法のたぐいと無縁だった男には、魔物も野生の獣とおなじようなものでしかない。獣はもちろん用心すべきだが、今は悪意をもつ人間の方が厄介だ。  そんなことよりも、男は自分自身に対して腹を立てていた。奪われた王国から差し向けられた追手をここに至ってもふりはらえず、腹心の部下の手当てもろくにできないことが苛立たしかった。  そうこうするうち、またも追手が現れた。傷を負った部下をかばいながらの戦いは苦しく、これで終わりかと観念したとき、どこからか飛んできたナイフが敵を殺したのである。  木立のあいだから現れたナイフの持ち主はまだ若い男だった。ようやく青年になったくらいの年頃で、商人のような風体である。男が追われていることも気にした様子がなく、怪我人の手当てをしてやろうと申し出た。この森の先にある郷へむかうところだったが、時間のかかる取引のために隊商の列からひとり遅れてしまったのだ、という。  男についてきた古参の兵士は商人を怪しいと疑った。 「暗殺者かもしれません。この森の魔物はひとに化けることもあるといわれています」 「だが我らに味方したのもたしかだ」と男は兵士にいった。 「もう日が暮れてしまう。どのみち他にやれることもない。俺は怪我人を見捨てるのは許さない」  その夜、男は腹心の部下の手当てに商人の手を借りた。その手腕は治療師にみまごうほどたしかなもので、部下の苦痛が和らぐと同時に兵士たちの警戒も多少は解けた。  商人がむかう郷はここから数日でたどりつくという。大国へ向かう前に郷でいったん休息をとればいいという勧めに男の一行は従うことにした。古参の兵士も、森に棲む魔物のことがいまだに気にかかっている様子だったが、商人はたしかに道を知っているようだったし、まだ若いにもかかわらず森を歩く姿は自信にあふれていた。  男の一行はそれから数日かけて森を抜けた。追手はもう現れなかった。そのかわり、昼も夜も、獣とも人ともつかない不可思議な唸り声をきくことはあって、そのたびに兵士たちは怯えた。男も怖れを感じたが、自分より若い商人が平気な顔をしているので、あえてそれを出さないように気を配った。王族としての矜持もあった。部下たちはただひとりの生き残りである自分を信じてついてきたのだ。弱いところをみせるわけにはいかない。  一行を案内する商人は、追手がかかる彼らの事情を察してはいるようだが、仔細にたずねようとはしなかった。商人にはまた、多少説明のつかないところも感じられた。この青年は兵士のようにナイフを使い、治療師のように人を癒すのだ。  明日の昼には郷につくと彼がいった夜のこと、男は奇妙な気配を感じて目を覚ました。部下は全員、不寝番すらぐっすり眠りこけ、焚火が小さな炎をあげている。しかしあの商人がみあたらない。  男は用心深く立ち上がった。梢のあいだからさしこむわずかな月の光を頼りに、木の根を乗り越えて森の中をすすむ。藪をぬけたとき、ふいに丸く小さな空間がひらけた。ぽっかり樹冠があいたところを空からさしこむ光が照らし、円筒形のふしぎな空間を作り出している。  奇妙な形をした影の前に商人が立って手をさしのべていた。  月光に照らされたその顔は、男がここ数日見慣れたものとはすこしちがってみえた。明るい色をしていたはずの髪は漆黒で、前にさしのべた手が影にふれる。そのとたん影がくわっと恐ろしげな赤い口をあけた。商人の手は影をたどるように動いた。男は驚きに目を瞬いた。商人の漆黒の髪が突然銀色に輝き、そこに影がまとわりつく。  男は金縛りにあったように動くことができなかった。異形の影を恐ろしいと思っても、喉は硬直して叫ぶこともできない。ふいに月が陰り、あたりは真っ暗になった。また月があらわれたとき、そこには何もいなかった。男の足はまた動くようになっていた。野営場所へ戻ると、商人は他の者からすこし離れたいつもの寝場所で静かに眠っていた。  自分がみたものは月光がつくりだした幻なのだろうか。男は悩みつつ、また眠った。  翌日一行は商人が案内する「郷」へついたが、そこはただの村里ではなく、森の真ん中に奇跡のように広がる小さな王国だった。森を抜けたとたん、豊かに実る農地を縫う道とその先の家並み、そして小さな城がみえたのである。  男の一行は喜び勇んで道を進んだが、ふと気がつくとここまで案内してきた商人の姿がみえない。腹心の部下は「役割が終わったと思って勝手に行ってしまったんでしょう」とどこか不快そうにいったが、男は昨夜のことも思い出し、穏やかな気持ちではいられなかった。  道を抜けるあいだ、すれ違う人々は一行に親切で、彼らが自分たちに害をなすなどと思ってもみないらしい。おとぎ話にでも迷い込んだような気持ちでいる中、ついに城の入口についた。迎えだという者が立っていて「ようこそお越しくださいました」という。男の身分も知っている口調に理由をきくと「先触れをいただきましたから」と答えた。  そのまま城の中に案内されて、一行はこの小さな王国を治めている王と王妃、そして王子や王女たちに出迎えられた。大国へ亡命する途中に一時の宿を借りたいのだと伝えると、承知している、滞在を歓迎する、といわれる。男の不審はつのるばかりだった。なぜ知っているのかとたずねたとき、もう一人の王子があらわれた。  王子の顔はあきらかに森の中で出会ったあの商人だった。しかし外見はかなり違っていた。髪は明るい色ではなく漆黒で、身分の高い者たちとおなじ服装でその場にならぶと、森で会ったときよりはるかに美しく、高貴な人物にみえた。 「これは第一王子です」そう王はいった。そして、別の王子を世継ぎだと紹介した。  長子なのに世継ぎではないのか。男は怪訝に思ったが、王族にはさまざまな事情があるものだ。第一王子の外見は父王にも妃にも、他の王子王女にも似ていなかった。男自身も、母の出自のために王位継承から外されてきただけに、それ以上の詮索はしないことにきめた。  いまや王子と正体のわかった若者に男の部下は頭を下げたが、王子は気にしたそぶりもなく、すぐにその場から姿を消した。

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