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第2話

 男の一行はしばらくこの小さな王国に滞在した。部下たちは十分な休息をとって傷を癒した。王国は農地と森の恵みで支えられているようで、人々の暮らしぶりは悪くない。城の周囲を散策しているとき、男は数回第一王子に出くわした。彼は王や他の王子のように城の中では暮らしていないという。城の裏側はあまり整えられているとはいえない庭園になっていたが、王子はその中に立つ塔で寝起きしているという。塔は庭園の中でもことさら手をつけられていない、野生の森のような樹々に囲まれていた。  部下の傷が完全に回復すると、男は王に感謝をのべ、ここを発つと告げた。男が出発する前日の夜、王は別れの宴をひらいた。城の広間で音楽と舞踏が繰り広げられる中、男は自分を助けてくれた第一王子にまだきちんと感謝を伝えていないのではないか、と不安になった。  そこで第一王子を探したが、広間の中にはみあたらなかった。男は城を抜け、王子が暮らす塔の方へ歩いて行った。  明るい月夜だった。塔の前まできたとき男は王子の影をみたと思った。あとを追って庭園に足を踏み入れた時、まず目に入ったのは驚くべき光景だった。王子は巨大な怪物の前にたたずんでいたのだ。漆黒だったはずのその髪はまばゆい銀色に輝いていた。  男は怪物をみたとたん反射的に腰の剣を抜こうとしたが、即座に王子の手がひらめいて、なぜか剣は男の足元に音を立てて落ちた。 「心配ない」  短く告げた王子の声は月の光のもとおごそかに響いた。 「このものたちは郷を護っているのです。彼らは竜の民。わたしはその長」  王子が手をふると怪物は静かに長い首をのばし、翼を広げて飛び立った。怪物を見送って男に視線を投げた王子は、言葉を発するのをためらっているように見えた。 「教えてほしい」と男はいった。「きみは何者だ」  王子はやっと口をひらいた。 「この郷の王族にはいつもひとりだけ、魔物をあやつる才能の持ち主が生まれます」  月の光に王子の銀の髪が照り映える。 「その才能は数世代おきにひとりしか生まれない。その者は他の王族よりずっと長命で、この国を護る使命を負っている。だからわたしは世継ぎではないのです。この小さな郷が、あなたがこれからおもむく大国に併合されずにいるのは、わたしの祖先が竜の民と契約をかわしたから」  男は告げられた事実に心の底から驚いたが、同時に王子の眸のなかに沈んだ孤独にも気がついた。思わず数歩足を踏み出して王子へ手をさしのべたのは、ひどく寂しげな相手を思いやりたいという、純粋な衝動にかられたせいだった。  騎士として鍛えられた男より王子はずっと細身だったが、腕に抱きしめるとつよい若木のようなしなやかさを感じた。男は王子の眸をみつめ、あらためて悟った。森の中で最初に出会った時から、自分はこの若者に惹かれていたのだと。 「きみが好きだ」男はささやいた。 「俺は行かなくてはならないが、いつかまたこの郷へ、きみのもとへ戻ってくる」  王子は男の腕を拒まなかった。男は王子の銀の髪をかきまわし、衝動にかられて唇をよせた。王子の唇は甘く、絡んだ舌と舌でさぐりあううちにふたりの体は熱くなった。王子は塔の中へ男を誘った。月の光が差しこむ簡素な寝室で男は王子の素肌に触れた。男の愛撫をうけとめて王子は甘い吐息をもらし、怜悧な美貌が薄紅に染まった。その様子は息を飲むほど淫靡で、男は月が空にあるあいだ、何度も王子を抱いたのだった。  男は翌日部下とともに出発した。  第一王子ではない、べつの道案内のもと、安全に森を抜けて、大国に亡命を果たした。大国の王や貴族の一部とは古い血のつながりがあったから、男の一行は暖かく受け入れられた。しかし宰相の一族に乗っ取られた母国について、明るい情報はすこしもなかった。  故郷では一部の領主が反乱を試みたものの、すぐに制圧され牢へ入れられるか、人質をとられていた。民は混乱し、作物の収穫もままならず、鉱山では無理な生産が祟って大事故が起きたという噂があった。悪い噂が広がるのを恐れ、元宰相である現国王は民の口を憲兵で封じているという。  こんな事態を放置するわけにはいかない。男は大国の権力者たちに働きかけ、兵をあげて自国を取り戻そうと画策をはじめた。  そんなある日、街中でおもいがけない人物に出会った。遠い異国の錬金術師の姿に変装した、あの小国の第一王子である。  それはたまたまの出会いだったのか、あるいは王子本人に仕組まれたものだったのか、男にはずっとあとになってもわからないままだった。男はその日、大海の彼方から訪れた異国の有力者をたずねていた。迷路のような路地をたどる帰り道で、すれ違った人物のかぶったフードから、はらりと銀髪の房が落ちたのである。  針葉樹のような爽やかな香りが鼻孔にただよい、男はすぐにあの夜のことを思い出した。月光のもとで王子を抱きしめた夜のことを。  男はフードの人物のあとを追った。その日は路地でまかれてしまったが、男はあきらめなかった。やがて王子に再会したのはなんと宮廷の宴会場だった。王子は異国の錬金術師に扮し、大国の貴族たちをたくみな話術で魅了していたのだ。  男が人の輪に近づくと錬金術師はたしかにあの王子のまなざしを男に注ぎ、人々がまばらになったあとでひと気のないバルコニーに男を誘った。この日は空に月はなく、男は黒髪の王子を抱きしめて口づけを交わした。  王子はこの国で何をしているのか、自分を追ってきたのではないか、という推測がただの男の願望、もしくはうぬぼれだったことはすぐに判明した。  じつは大国は長い年月のあいだ、王子の郷を隠すように取り囲んでいる森に何度も軍隊を送っていたのだ。森の中にあると思われていた鉱脈が大国の狙いだったが、いつも魔物や森そのものに阻まれ、不成功に終わっていた。 「森を制圧されればわたしたちはあっけなくこの国に併合されてしまう」  と王子はいった。だから彼は姿を変えてこの国に入りこみ、大国の注意を森からそらすために働いていたのだ。  男は王子の力になりたいと思い、実際にそう告げもした。しかし自国の奪還をもくろんで兵をあげようとしている今、口でいうほど簡単なことではなかった。というのも男への協力を承諾した大国の権力者は、兵を貸すかわりに森を制圧することを条件にしたからである。  さらに男の腹心の部下は王子との再会を喜ばなかった。男が王子と再会したことを打ち明けたのはこの部下ひとりだけだった。母国からともに逃れ、深手を負っても自分に忠誠を捧げてきた者である。だが部下は、男が王子に心惹かれすぎていると警告し、これもまた罠ではないか、と男に語った。 「以前から思っていましたが、あの者は危険です。人間を魅了する魔術を使っているのではありませんか」 「おまえは彼に命を助けられたのを忘れたのか?」 「わがきみ、俺が忠誠を誓うのはあなたひとりです。あなたが惑わされるのをみるには忍びません」  男は部下の言葉にとりあわなかったが、部下は独断で王子を罠にかけるべく動いた。この者は怪しげな錬金術で害をなすものと憲兵に密告したのである。男が気づいたときはもう間に合わず、王子は大国の権力者の手に落ちていた。  自国の奪還か、あるいは王子を助けるか。男は愛するふたつのものを天秤にかけるつもりはまったくなかった。だからひそかに王子を助け出そうとしたが、男が牢へ忍び込んだまさにそのとき、王子は人外のものに姿を変えて牢の窓から逃げたのである。  王子のゆくえが知れないまま、男は結局大国の軍隊に同行することになった。軍隊は森を制圧したのち、男の挙兵に協力することになっていた。  しかしこの行軍は何もかも、思惑通りに行かなかった。森に入ったとたん、恐ろしい数の魔物が軍隊を阻んだからだ。男は銀色の髪をした王子が樹々のあいだを駆けるのを目撃した。大国の兵士たち、男の腹心も死んでいく中、生きのびたのは男ひとりだけだった。  男は腹心の亡骸を埋葬しようとしたが、そのとき、彼が最後まで大切にふところにしまっていた書簡に気づいてしまった。それは大国の権力者との密約だった。  長いあいだ信頼していた腹心の部下は男に隠れて大国に通じていたのである。国を取り戻して男を王位につけたあと、大国の傀儡となるように男を操るつもりだったのだ。  男は思いがけない裏切りに呆然とした。いったい自分が信じていたものはなんだったのか。  男はふらふらと立ち上がった。兵士たちの亡骸をそのままに、人の心を失くしたかのように、森をさまよいはじめたのだった。  月が何度か欠けて満ちるあいだ、男は森の奥底で獣を狩り、草の実を食べ、小川の水を飲んですごした。  男が銀の髪の王子に再会したのは何度目かの満月の夜である。  王子はいつかのように、月光に照らされた森の中の空き地に立っていた。男をみとめると頬にさびしげな笑みが浮かんだ。 「わたしを恐ろしいと思ったでしょう。はやく森から出て、ひとの世界へ帰ってください」  王子の声をきいたとたん、男のなかに人間の言葉と感情が蘇った。男は首をふり、まっすぐに王子のもとへ歩んだ。 「俺はなにも怖くない。きみを愛している」  男は王子を抱きしめ、森の底でふたりは愛しあった。男の愛撫に王子が声をあげると、応えるように森のどこかで生き物が鳴き、樹々の梢はやさしく揺れた。王子の悦びを森全体が感じとっているかのようで、何度も愛をかわすうちに、男は自分もまた森に受け入れられたのを悟った。彼は王子に属するものとして森に迎えられたのである。

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