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前編
一月一日。
正月というのに湯島界隈は人波で賑わっていた。門前町の店先では商売人が盛んに呼び込みをかけ、その前を行商人達が右へ左と行き交い、売り声を謳う。
勉学の為にはるばる京からやってきたが、知らず草次郎はその光景に浮き足立った。
(少しここで一息ついてから、先生のところに挨拶に行こう)
適当な茶屋の軒先に腰をかけると、直ぐさま主人が声をかけてきた。団子と茶を頼むと、草次郎は不忍池周辺の賑やかな光景に目を細める。
すると、その中でも一際艶やかな集団が目を引いた。
流行りの染め模様の着物に幅広の帯を纏った娘達が、羽根つきをして遊んでいるのだ。振り袖をひらひらと風になびかせ、戯れている。
まるで春の花が舞っているような光景に、暫し心を奪われた。
「旦那、湯島は初めてですか?あの集団、どこかの良家の処女とでも思ってます?」
ふいに主人が茶と団子を持って声をかけてきた。草次郎はそれを受け取りながら首を傾げる。
「ありゃ全員陰間ですぜ。湯島の陰間は皆んなあんな感じの格好ですわ。今日はどこの陰間茶屋も休みなんで、陰間も羽を伸ばしてんでしょ。全くああしていれば、まるで天女みたいに見えるが……」
主人が何か言ってきたが、草次郎は既にその殆どが耳に入っていなかった。
一点を見つめ、茶も団子もそのままに、その場を飛び出す。
「あ、ちょっと旦那!!」
主人が後ろで呼び止めるが、草次郎はそのまま一目散に陰間の集団に駆け寄った。
「千吉!!」
声に一人の少年が反応した。島田鬘を重そうに支える白く細い首を傾げ、驚いた様に目を見開く。
「先生……」
「やっぱり、千吉なんだな!!ああ、こんな所で会えるなんて……ああ、千吉……」
草次郎は違えるはずも無い千吉の美貌を食い入るように見つめながら、感慨深げに名前を呼んだ。
千吉は地元の京で、草次郎が開いた寺子屋に通っていた教え子だった。
五つの時分から寺子屋に通い、一を教えれば百が分かる、非常に優秀なうえ更に、後光が差しているんじゃないかと思うほど美しく近所でも評判の神童であった。
道を歩けば全員が全員振り返るような気品と存在感。
あまりの美しさに嫌な予感はしていたが、千吉は九歳の頃、当然のように江戸に売られていってしまった。
何も出来ずにいた自分が歯がゆく、追いかけようとさえ思ったが、追いかけたところで金もない自分に何が出来るのかと歯噛みして過ごしたのだった。
それから六年ーー。
草次郎とて、千吉の事をずっと思って過ごしていたわけでは無いが、江戸に住む蘭学の先生から、私塾の手伝いをしないかと手紙を貰った時、真っ先に千吉の事が頭を掠めた。
江戸に行けば、もしやどこかで会えるのではないかと気が逸り、手紙の返事もそこそそこに年の瀬だというのに旅だってしまったのは、そういった理由からだ。
だが、本当にこんな正月から実物に出会えるとは思ってもいなかった。
(なんという神の思し召しだーー)
草次郎は思わず涙ぐみそうになりながら、千吉を見つめた。
千吉は戸惑いながらも恥ずかしそうに顔を伏せる。白粉をして紅をひいたその顔は、女そのもの、いや、寧ろそれよりも美しい。
何も変わっていないと思ったが、あどけなさの中に、少しの色気も滲み出て京にいた時分よりも美しさに凄みを増していた。
元気そうで良かった、と声を掛けたいが、茶屋の主人が『陰間』と言っていたのだ。千吉も既に春をひさいでいるのだろう。そう思うと、とてもじゃないが軽率にそのような言葉は口に出せなかった。
なんと言っていいか分からず、ひたすら喘ぐ草次郎に、千吉の方から声を掛けてきた。
「……先生、なんでこないな所に?」
「あ…私塾を手伝いに来たんだ。高名な蘭学の先生でね。暫くそちらにご厄介になることになってーー。まさか、君に会えるとは思わなかったけど、いや、やはり、どこかで会える気がしていたんだ……ずっと、会いたかったから……」
「先生ーー」
「いや、変な意味では無く。純粋に、教え子として、心配だったんだよ。……困った。今の君は綺麗すぎて、何だか口説き文句みたいになってしまうな」
「みたい、じゃなくて、口説いてんじゃないさ。それに、今のこいつは『千吉』じゃなくて『吉弥』だよ」
隣から陰間仲間が口を出してきた。千吉より少し年上の派手な顔の少年だ。
「兄さん、この方は私が通っていた寺子屋の先生ですよ。おかしな人ではありません」
「ちょっと、兄さんなんて呼ばないでよ。気持ち悪い。伊織さんって呼びなさい。とにかく、これ以上話すようなら、きちんと陰間茶屋で上がり代を払うんだね。そうは言っても、今日は元旦でどこの陰間茶屋も休みだけど」
クスクスと忍び笑う声がそこかしこから聞こえてきた。どうやらこの少年が、集団の中で一番年嵩のようだ。
ふと伊織が傘の下の、草次郎の顔を覗き込んできた。
「あら、お兄さん、よく見ると自分こそ舞台子みたいに綺麗な顔しているじゃないのさ。あんたなら、吉野屋に来れば銀50匁(もんめ)で相手してやってもいいよ」
しなを作りながら、腕を絡められ、薫ってきた強い香(こう)の匂いにクラリとする。
「私の客として、水揚げして貰えばいいのでしょう。先生、こっち」
草次郎がどうしたらいいか分からないでいると、千吉が反対の腕を強く引いてどこかに連れて行く。
後ろでは、伊織が戸惑いながら「ちょっと、どこいくのさ~!」と引き留めているが、千吉は振り袖姿とは思えぬ程早く、かつ優雅に仲見世通りを進んでいった。
引かれた腕の、振り袖から覗く白い手首に思わずドキリとしていると、ふいに千吉が振り返り、ふっと吐息を混ぜて微笑んだ。
「先生、どうしはる?本当に、私を、水揚げしはる?」
瞳の色は揶揄いを含んでいたが、どこか哀しみを帯びているようにも見えた。
京で最後に別れの挨拶に来た日、引き留める事が出来なかった自分に見せた、寂しげな笑顔と何処か重なるーー。
そう思った時には、草次郎は思わず頷いていた。
ーーこの腕を、もう離したくない。
「吉野屋に、連れて行ってくれるか?」
草次郎は自分から、千吉の白い手をしっかりと握ったのだった。
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