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第1話 Stay Awhile

桜が、少し強めの風に煽られて散っていた。 荷物を詰め込んだ軽トラックは、あいつの次の住まいに既に走り出した後だった。 あいつが乗る予定の高速バスの時間まではまだあって、毎年決まって花見をしていた、あいつのアパートから歩いてすぐの川沿いのベンチで二人、缶ビールなんて開けた。 タバコを吸って、ビールと一緒に買ったコンビニのさきいかをつまんで、それはいつも通りの春のようだったのに、お互いに口数だけ少なかった。 春になりかけの陽は短くて、わりとすぐに肌寒くなって、あいつはそろそろ行くわ、と腰を上げた。 「じゃあ、また」 そう言って、いつもと同じように別れた。風の音が煩くて、普段より大きい声が出たのを覚えている。 その声はあいつの背中にちゃんと届いて、振り向いて手を挙げて、あいつもいつもより大きい声で「またな」と言った。 トラックに大体の荷物を任せてしまったからと、財布と携帯とタバコ、読んでいた本を入れたトートバックひとつの、これから遠くへ行くなど到底思えない姿で。 別に握手をするわけでも、ハグをするわけでも、次の約束をするわけでもない。特別な時間にしたくなかったから、俺はいつも通りにベンチに座ったまま、背中を見送った。 散り急ぐ桜の花びらが、歩道に落ちて踏まれてただのごみになっていて、美しくもなんともないその光景に、何となくほっとしたのを覚えている。 けれど俺は、肌寒いを通り越して本当に寒くなって来ても、近所のアパートの窓から香ってくるみそ汁の匂いがしなくなっても、そこから立ち去ることが出来ずに、結局持ってたタバコを一箱、若干震えながら吸いきるまで、冷えたベンチに留まっていた。もそもそと帰ってからも、誰もいないワンルームで、俺が捨ててやるからと持ち帰った、あいつの飲み切った缶ビールのごみを、何となく処理できずに眺めながら、冷蔵庫にストックしてあった缶ビールを飲んでそのまま寝落ちして。それで次の日風邪を引いたんだ。 それがあいつとの最後。その後、またなと別れたはずの俺たちの間には、何もなかった。 そんな俺の、大学を卒業した春の思い出。 自分の家よりもだいぶ大きな、クイーンサイズのベッドで大の字になりながら、ぼおっと天井を見上げている。 繁華街のラブホテルのベッドに俺はいる。別に何の面白みもない部屋だ。まわるベッドとかプールとか、デカい鏡があるとかそういうんじゃなくて、ただの部屋。エンタメ感ゼロ。あるのはトイレと洗面所とイロイロ致すための広めの風呂場、テレビとソファ。やるためだけの部屋だから、最低限の設備と、2人以上が横になって狭くないベッドがありさえすれば別に構わない。相手も大事なひととかそういう繊細なもんではないから、どうでもいい。見上げる天井もただの白い天井だ。あ、照明に埃。 今日の相手は顔はまあまあだが下手くそだった。前戯もそこそこに突っ込もうとしやがったから、恥じらうふりしてめっちゃローション使った。あほか。男は勝手に濡れないんじゃ。AVの見過ぎかガシガシ手マンしてきて、なのに俺のいいところも見つけられないままぶちこんで、やりたいように、自分だけ気持ちよく腰振ってイきやがった。そのくせピロートークなんてしようとする。そういう空気はど頭から作っとけ。最終的に焦れた俺はそいつに跨って、自分で自分のいいとこに擦り付けてイッたというのに、まるで自分の手柄みたいな顔しやがるからイラっときた。これなら気を使わない分家にあるディルドの方がましだ。 だが俺はやさしいビッチなのでそういうことも言わずにおいてやっている。ビッチがこんなことでいちいち相手に酷くあたっていたら、いつかどこかで刺されてしまうかもしれない。刺されないまでも、男が男に向ける力で殴られたらそれだけで結構大事(おおごと)だ。 相手には先にシャワーを使わせている。しんどい。出すもん出したが、それだけで満たされるほど俺は初心じゃない。 体がだるい。ケツも痛い。切れてはいないが、マジであの手マンはなかった。くそ、痛え。 虚しいなあ。 俺は起き上がって、ジャケットのポケットからタバコを取り出して火をつけた。ついでにスマホも引っ張り出して、音楽ソフトを弄り、ライブラリの再生履歴から適当にかける。 ベッドのスプリングがケツに響いた。くそ。 スマホは最近聞いていた80’sロックを流してきた。愛のバラードだった。 きみを抱きしめるためなら どんなことでもしよう きみに触れるためなら どんな場所へでも行こう きみが望むなら どんなことでもしよう ただひととき、きみがそばにいてくれるなら 俺でも聞き取れる簡単な英語で歌い上げられるそれは、わかりやすく、素直な愛の歌だ。 なんでこんなの聞いてたんだ俺…虚しさが加速するだろうが。いい曲だが今じゃない。絶対今じゃない。スマホおい。なんでこれにした。つうかせめてもうちょっと聞き取れんかんじで歌ってくれとか、スマホやバンドのヴォーカルにまで難癖をつける。 そんな、この場にそぐわなさすぎる曲を聴きながら、苦い煙を吐き出す。なんでロックバンドってバラードの方が売れてしまうんだろうか…前ノリの曲の方が本職?なんだろうに。バックでぎゅおんぎゅおんともっと激しい音を出したげなギターの音色を耳で追う。 まあなんにせよ、シャワーの音が遠くなるのだけはいい。…目を閉じてあけたら、違う世界ならいいのに。 その手をのばして 僕に ああ、落ちていく 少しハスキーなハイトーン。何度か聞いてるけど、心地好い声だな。 そんな風に乞われるのは、どんな気持ちだろうか。 ふわふわとそんなことを考えていたら、風呂場の戸が開いて、腰タオルで手マン野郎が出てきた。名前忘れたな。何だったか、思い出す気もないけれど。 「ユウくん、上がったよ。シャワー使いなよ」 「…ああ、うん」 「何の曲?カッコいいね」 「んー。なんか、昔の曲」 ベッドの隣に座って身を寄せてきたけど、俺的にはこいつは顔が良くてもナシなので、スマホをタップして、音楽アプリを閉じた。 「ねえ、ユウくんこの後どうする?良かったら飯でも…」 「ごめん、俺、そういうのダメなんだ。ほんとごめんだけど、先出てて。」 「あ…うん」 あからさまにしょんぼりする手マン野郎。こんなにケツが痛くて飯屋の硬い椅子になんか座れるかボケ。自分のテクのなさを恨みな。 でも俺はやさしいビッチだからね。 吸いさしのタバコをサイドテーブルの灰皿に押し付けて立ち上がると、まだ濡れているその頭をくしゃりと撫でてやる。 「今夜はありがと。また、どこかでね」 「!うん…!」 あーあー、見えない尻尾が見える。ワンコだったら、ちぎれるくらい尻尾を振っているだろう。次に会ってもどうにかなる気なんぞ毛頭ないが、まあ、こっ酷く袖にして恨みを買うよりいい。 笑顔になったのを見届けてから、風呂場へ向かう。顔だけはまあまあよかったんだけどなほんと。 シャワーコックをひねって、熱い湯を出す。無駄に広いので、家よりもちょっと熱めの設定にしないと、空気が冷えていてすぐ温くなってしまう。江戸っ子の親父のような設定温度の湯で汗を流しながら、さっきの曲をリフレインしていた。 I'm fallin', fallin', fallin'… 恋だか愛だかに落ちていく歌詞の意味は、俺にはよくわからない。ただ、心地好い音だから、唇に乗せてみるだけ。 だけど、手を伸ばしてもらえたら、自分も惹かれる誰かが心の底から乞うてくれたなら、どんな気分なんだろう。 「…っ、いって」 ぼんやり髪を洗っていたら、ちり、と熱い湯がケツ穴に滲みて、考えていたことは痛みに吹き飛ばされた。 ただ、手マン野郎に「また」と言ってしまったのを思い出して、またなんてないのになあと、あいつの背中を思い出して少し笑った。 (Stay Awhile/Journey)

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