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第2話 Happy

「悠介え、今日学食どっち行く?」  バックパックにノートと筆記具をぞんざいにぶち込みながら、隣の席に座していた高梨康一が尋ねてきた。  大学の中程度の講義室、社会学のじいさんの話を、今にも音を鳴らしてしまいそうな腹を物理的におさえながらどうにか聞き終え、チャイムの数分前から少しずつ講義室を飛び出す用意を始めていた俺は、さっさとメッセンジャーバッグを肩にかけて立ち上がる。空腹が限界だ。 「絶対B棟。トゥデイズ丼がロコモコ丼だからな」  その日は麺類に強いもう一つの学食のイチ押しがコーンラーメンだったので、俺は迷わず丼ものに強いB棟の学食を選択した。ラーメンもコーンも好きだが、コーンはスープに沈んでしまうので食べづらいし、ボリューム的にもあまり得した感じがない。いくら安い学食とはいえ、質も量も大事だ。 「康一は?」 講義を受けていた学部棟の階段を早足で降りながら聞く。学食の座席は有限なのだ。 「俺は今日カツ丼食うって決めてたんだ。一緒に行く」 それを聞いて、思わずぎえって顔をしかめる。 「学食のカツ丼、油ギトギトじゃん…帰りにかつや寄れよ」 「ばか、佐藤のおばちゃんの揚げるカツを馬鹿にすんな!」 「熟女好きめ…」 「佐藤さんは!うちの死んだばあちゃんに雰囲気が似てんの!」 「はいはい」 「それに出汁と卵でとじれば油も言うほど気にならん」 「ギトギトなのは認めんのかよ!」 ツッコミを入れながら学部棟を出る。すれ違ったどっかの学部の女子たちが、背中でわっと色めき立ったのが分かった。  わかるわかる、これが康一を前にした人の普通の反応。180センチの上背で、国体常連の水泳部のエース。顔も整ってて、成績も、人当たりも悪くない。はっちゃける時ははっちゃけられるが、程よく品があり、おまけに実家はなんかの会社をやってるという、前世でどんな徳を積んできたのか聞きたくなる人物だ。何故秀でたスキルの一つもないフツメンの俺と毎日つるんでるのか不思議だが、ウマが合って一緒にいて楽なので、こっちから遠ざけるつもりもない。 「すまん、ハンバーグちょっとくれ」 「なんでメインをやらにゃならん、二杯目でロコモコ丼いけし」 「全部とは言ってないだろ!カツ一切れやるから!」 デミグラスのにおいがやばすぎて、と眉間に皺を寄せるのが面白かったから、少しだけ切り分けたハンバーグをやって、俺は隙を見て二切れ目のカツを奪い取り、3限は案の定油のせいで胃もたれと戦いながら講義を受けたのだった。  あいつ…康一が田舎へ帰って、俺も春から新社会人になって、早五年。康一とつるんでいた週末は何も予定がなくなってしまった。最初の頃はそれでも、新社会人で世間の波にもまれていたから何とも思わずに済んだが、社会人として使い物になって安定すればするほど、余暇が苦しくなっていった。  康一がいない。  別に、俺たちには何があったわけでもない、ただの、よくつるんでいるだけの友達だった。  言葉での約束も、身体の関係も、何もなかった。振り返ってみれば、学生という性欲の塊、猿のような時期に何もしなかったってすごい。ただ本当に、俺たちはそういうのではなかったし、純粋に友達だと思っていたから、そんなことにはならなかった。お互い彼女がいた時期もあったし。名前も忘れたけど。  ただ、どうしようもなく、空虚だった。康一がそばにいないことが。 自分をそこそこ理解してくれる、理解しようとしてくれる誰かに隣にいて欲しかった。ただそれだけだったが、いつしか身体はぬくもり求め、それが男にも向いてしまったのだった。  最初はタチから経験した。女を抱いた経験はゼロではなかったから、入りやすかった。後ろから入れさせてもらって、出来るもんなんだなと思ったくらい。つうか、ほんとにケツに入るんだなとか。人体の不思議展かよ、と思ったのを覚えている。だが、肌が触れ合うのはやっぱり気持ち良かったし安心するのは同じだったから、出来るなって、世界が広がった気がした。  ネコをやるのは、虚無感がすごい。うまい相手ならまだましだが、欲のためとはいえ、無防備に足を開くのは結構堪える。男として。だからその屈辱に耐えた上で下手な奴にあたってしまうと、それはもうどん底のような気持ちになる。  …というわけで、俺、湊悠介は、先日の手マン野郎のせいで、今週いっぱいダウナーな気分が晴れぬまま電車に揺られていた。  こんな俺だが、平日の昼間は普通のサラリーマンをしている。ちゃんと毎日律義に出勤している。俺えらい。  会社では役職があるわけじゃないが、まあ別に給金も最底辺というわけでもない。ブラックでもなく、かといってホワイトかと言われれば首を傾げたくなるような、どこにでもある普通の企業勤め。上司も良い奴もいれば悪い奴もいる。取り立てて不満に思うことがあるとすれば、最近喫煙所が狭くなって肩身が狭いことくらい。あ、自販機の飲み物にときめくものがないのもちょっと不満だ。社食は安くてボリュームがあって、おばちゃんが適度な距離感のおかんで、そこは気に入っている。  そんな可もなく不可もなくな生活を送る俺の、あいつがいなくなった後の週末の過ごし方といえば。  一旦自宅に帰って軽く何か口に入れてから、スーツからラフな格好に着替えて繁華街へ繰り出す。今日はゲイ向けの出会い系アプリでもめぼしい相手は捕まらなかったし、取り敢えず愚痴りに行きつけの店へ向かうことにする。  主要駅から地下鉄に乗り換えて二駅ほど先の駅で下車し、そこから徒歩10分弱、雑多に立ち並ぶビル群のうちの一棟、普通ならば見落としてしまいそうな地下への狭い階段を降りるとある、黒塗りの扉を開ける。ベースの音が薄く響く、狭く暗いカウンターで財布を開き、IDを見せて、そのさらに先の重い防音の扉をぐっと体当たりをするようにして開ければ、そこは。  最早地鳴りレベルに響くハウス系の曲に合わせて、ミラーボールがブルーを基調とした店内の照明を乱反射させ、コンクリ打ちっぱなしの壁や床をキラキラと照らす。地下の割になかなか広い店内には、ダンスフロアとDJブース、ショーを行うステージと酒を提供するバーがある。腰を落ち着けられるカウンターやソファもいくつかあり、そこここで客たちが飲みながら談笑している。  ただ、一つ普通と違うのは、右を見ても左を見てもほぼ男だということ。ここ、『Squeezin'』は、れっきとしたゲイクラブである。  二枚もらったドリンクチケットをひらひらさせながら、ダンスフロアの人込みをかき分け、バーカウンターへ向かう。今日はあのひとたちがいるはずだ。 「ユウちゃん!いらっしゃーい」 「やあ、ユウくん。こんばんは」 俺に気付いて声をかけてくれたのは、バーテンでドラァグクイーンのミユキさんと、常連のノブさん。 「ミユキさん、ノブさん、こんばんは。ここ、いいスか」 「勿論。」 カウンター席に座るノブさんが、自分の隣のハイチェアをぽんぽんと叩いて呼んでくれる。  ノブさんは、笑顔と物腰の柔らかいザ・ナイスミドル。確か50半ばだったと記憶している。歳のわりに身体には無駄な脂肪はついておらず、いつもすっきりと無駄のない、それでいて清潔感のあるいでたちで、とても美しい姿勢でここに座している。身につけている眼鏡や時計、靴もいつもお洒落だし、今日着ているポロシャツやスラックスも、量販店なんかのものではないだろう。普段は結構いい仕事してるんだろうなと思う。いつも落ち着いていいお酒を静かに飲んでいて、なんというか、がつがつしている人が多いこういう店では、なかなかレアなキャラクターだ。枯れ専の客からのお誘いを受けているのをちょくちょく見かけるが、俺が知る限りではこの席から動いたことはない。 「何のむ~?」 「んー…ゴッドファーザーお願いします」 「やだっ!それ週末何も予定がない時飲むやつじゃないの!」 オーダーしながらドリンクチケットを差し出すと、目も歯も向いたミユキさんがバーカウンター越しに身を乗り出してきた。  ミユキさんは、ここのバーテンでドラァグクイーン。ドラァグの時の癖でか女言葉だが声帯は完全に男のそれなので混乱する。もう慣れたけど。今日はドラァグはしない日らしく、ムキムキの鍛え上げられた胸筋が、店のロゴの入ったTシャツを激しく盛り上げて主張している。これが世にいう雄っぱいというやつだ。こんな体躯だけど、ドラァグすると性別を超越しためちゃくちゃ美しい生物になるから、化粧ってマジで魔法だと思う。歳はアラフォーだと聞いているし、喋っていると確かに人生経験をビシバシ感じるけど、ドラァグするともう、本当にいろいろな垣根をぶっ壊し飛び越えてしまうからよくわからん。この人はそういう生き物なんだと思うようにしている。もしかしたら歳ももっと上なのかもしれない。 「いいんです。今日は誰もヒットしなかったし…」 念の為、出会い系アプリをチェックしてなにもないのを確かめてから、ケツポッケに仕舞う。 「フロアにいる人誰か声かけて遊べばいいじゃないのー。何のための店だと思ってんのよお」 「ここの常連じゃ…今後ここ来ずらくなるし…」 「あんた、毎回やり捨てる気満々なのほんとよくないわよ…」 ジト目で言いながらも、ちゃんとゴッドファーザーを出してくれる。やさしい。いや、業務だけど。  ミユキさんの背中の、高級そうな酒瓶が並ぶ戸棚は鏡貼りで、酒瓶の隙間からそこへ映った自分の顔が見えた。ちらと見えたそれは思ったよりダメージを受けた顔をしていて、俺は思わず俯いて、オーダーしたウィスキーベースのカクテルに視線を落とす。  俺だって、やり捨てたいわけじゃない。この人だ、と思えればそのままちゃんと付き合いたいって思ってる。ただ、そういう人がいないから結果的にビッチになってしまってるだけ。さらに言えば俺はゲイじゃない。性欲を発散する相手が男でも女でもよくて、尚且つ女性とそういう風になるのには時間がかかるから、手っ取り早く後腐れない男と寝てるだけ。バイってやつだと自分では思っている。  手っ取り早くとか言っている時点で、この人、に出会える可能性を下げているのかも知れないけど。  仕方ないだろ。隣に誰もいないとすうすうするんだ。  グラスに触れると、ノブさんが優しく、お疲れ様、と自分のグラスを掲げてくれる。俺は少し下からグラスを合わせて、お疲れ様です、と返した。  口元に持っていき、ひと舐めする。アルコール度数の高いそれは、そんなに酒に強くない俺にはちびちびやるくらいが精一杯だが味は好きで、予定が何もない週末にこうしてオーダーする。ウイスキーの芳醇な香りと、アマレットの甘い香りがふわりと鼻腔を刺激した。酒は裏切らない。いつも美味しい。 「まあまあミユキちゃん。ユウくんだって、いい人が出来たらきっと紹介してくれるよ。まだ出会ってないだけなんだよね、きっと」 「でもでも!ユウちゃん基本的には良い子だもん、ビッチなんて言われるの腹が立つじゃない!」 「…基本的にはとは?」 「いいじゃない若いうちは、ちょっとくらい短絡的でも。模索中模索中。」 なんか俺、悪口を言われてはいまいか…? 「あの、ふたりとももしかして俺のこと嫌いです??」 「まさか。ユウちゃんはあ、極度の寂しんぼなだけよねー」 仕方ないわよう、とため息をつきながら、フロアから注文されたドリンクを手慣れた手つきで華麗に作っては出し作っては出していくミユキさん。そのゴツイ手から作り出されるものは全て、びっくりするほどきれいだ。色とりどりの宝石のようなカクテルが次々に生まれていく。やっぱりこの人は魔法使いなのかもしれない。作るものとは裏腹に、口から出る言葉は辛辣だが。 「…べつに、そんなことは…」 「まあ、あーちゃんみたいに毎回毎回一か月かそこらで終わる『運命の人』連れてくるのもどうかと思うけど、あれはあれで毎回本気みたいだし」  あーちゃん、というのは、ここでよくつるんでいる常連の一人で、アサヒくんという大学生だ。若くていつも明るくてにこにこしているので、周りに人が絶えない。そして彼氏も絶えない。ただ俺の知る限り最長で三か月。その度にこの世の終わりだってくらい泣いて荒れて飲んだくれて、次に現れるときには「真実の愛を見つけたんです!」と新しい男と腕を組んで幸せオーラを振りまいているという、すごい子だ。 「さっき見かけたけど、今回の子は三週間はもってるよ。長続きするといいよね」 菩薩のように微笑むノブさん。年の功ですか。俺も年をとればそんな風に達観できるようになりますか…。 「ユウちゃんも、ビビっ!てくる人が出てくるといいわね、ほんと。ただし、」 びしっと、カクテルを作っていたマドラーを突き付けられる。 「とっかえひっかえしてると、理想どんどん高くなるからね?そこんとこ理解してやんなさいよ」  理想…理想か。俺は、まだ見ぬその人、に何を求めてるんだろう。  DJが選曲を変えた。途端、ミユキさんがきゃあ!と高いんだか低いんだかわからない声を上げる。ミユキさんが好きなアーティストの曲だ。  ル・ポールという、ドラァグ界では生きる伝説のような人物で、ホストを務めるドラァグやメイクアップの番組はアメリカやイギリスで放送、サブスクで世界中に配信され、セクシャルマイノリティの人々から絶大な人気を誇っている。アルバムも結構出していて、ミユキさんはよく彼女の曲をステージで使用しており、今もカウンターの中、ノリノリでリップシンクしてる。  盛り上がる用の曲だからか、そのリリックはとても単純で、「みんな幸せになりたい」って曲だ。 『I'm gonna show you the way, I'm gonna show you the way, I'm gonna show you the way…』 私が教えてあげる、と繰り返し歌うル・ポールの声に合わせて、最早ドリンクを作る手を止めてしまったミユキさんがリップシンクするのを、にこにことグラスを傾けながらノブさんが眺めている。  幸せを教えてくれる人。誰だろう。俺はそんな人に出会えるのだろうか。誰かのそんな人になりうる日が来るのだろうか。  今まで寝た男たち、彼女たちがフラッシュバックする。幸せを教えてくれるような人はいただろうか。俺がその気になれば、そういう関係になることだってできたのかもしれない。あとのまつりだけど。  でも、違うと心が言うんだ。きっと、彼らじゃない。こういうのって、びびっとくるもんなんだろ?本能が求める人に出会いたいんだ。  ノブさんの言葉を借りれば、俺はまだまだ模索中なんだろう。  いつの間にかカウンターの周りにはノリノリのミユキさんを見に人だかりができていて、ミユキさんもミユキさんで、さながら『カクテル』のトム・クルーズのように(それにしては歳がいっているが)リップシンクをしながら華麗にシェーカーを投げたりキャッチしたり、客にウィンクしたりと大サービスのパフォーマンスを繰り広げ、客に喝采を浴びていた。  その時、ケツポッケのスマホが震えた。取り出してタップすれば、誰かが俺に興味を持ったらしいと告げるポップアップ。アプリを開いて、一応そのいいねの主のプロフィールをチェックする。顔写真はアップロードされておらず、中の中との文字情報だけ。その代わり体の写真が上がっていた。細マッチョ系。悪くない。位置情報を確認すると、ここからそう遠くない場所にいるらしい。  今から会えるかメッセージを送ってみると、さすが週末、すぐにOKが返ってきた。  スマホから顔を上げると、ノブさんがにこりと笑んで、軽い前ノリのリズムと客の喝采が響く中、いってらっしゃい、と唇で言ってくれた。俺も、また、と手を振り、グラスに残ったゴッドファーザーをぐっと煽って席を立つ。気付いたミユキさんが俺に投げキッスを送ってきたので、苦笑してグラスの下にチップを置いて、「皆もチップ弾んでよねー!!」と客たちを煽るミユキさんの低い声を背にカウンターを離れた。  然程強くない酒を一気に煽った為、頬が熱い。地下からの階段を上がると、冷たい夜風が吹き抜けて心地が良かった。アルコールで血管がひらいて血流がどくどくと煩いのを、この胸の高鳴りは新しい出会いへの期待なんだと都合よくすり替えて、歩みを進める。  誰もが幸せを求めてる。俺だって。  今日出会う相手が、少しでもそこへ俺を導いてくれる人であるようにと淡く願いながら、俺は自分の姿が映るウィンドウで髪型や恰好を整えて、待ち合わせの場所へと向かったのだった。 (HAPPY/Ru Paul)

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