3 / 5
第3話 True Colors
「わりいわりい、遅くなって!」
水着やら何やらが入っている、エナメルのスポーツバッグをいつもとは反対の右肩にかけて、ジャージ姿の康一が駆け寄ってくる。
その髪はまだ少し湿っていて、タオルを風呂上がりのおっさんのように頭に引っ掛けてくるものだから、こいつはつくづく整った顔の無駄遣いをしていると思う。ていうか自覚ないのか。毎日鏡で見ているだろうに。
「いや、別に待ってない。てか、チームのやつらと一緒にいなくていいのか」
「ん、別に。あいつらにもコーチにも、全体集合ん時にしっかり挨拶してきたし」
くそ腹減った!と伸びをするとデカい体が余計にデカくなる。なんだそれは嫌味か。
夕焼けでオレンジに染まった辰巳国際水泳場を背にして歩きだす。二つの影が重なって長く伸びた。
出てすぐのコンビニに寄って、労いに唐揚げ棒を買ってやると、店を出た瞬間にぺろりと平らげてしまう。なんだこいつは。でかい餓鬼なのか。
「いやー、来てくれたのに悪いな」
からからといつも通りに笑う康一の声がうまく聞けなくて、俯く。なんと返したらいいのか、わからなかった。
今日は大学生の水泳大会で、インカレと呼ばれる一番大きい大会だった。ここで成績を残せれば日本選手権に出場出来るため、水泳に打ち込む学生たちはタイムを伸ばすためとにかく夏休みに徹底的に泳ぎまくる。それは康一も勿論例外ではなく、小学生から続けてきたらしい水泳で成績を残すため、本当に毎日泳いでいた。康一とつるみだしてからの俺にも、それは毎年のことになっていて、練習終わりに飯を奢らされたり奢らせたり、気晴らしに散歩に付き合わされたりするのが俺たちの夏のルーティンだった。
康一は我が校の水泳部の今年のエースで、今年もバタフライと個人メドレーで絶対に勝ち進むと言われていた。だが、前々から痛めていた肩の故障で思うように結果が残せず、敗退した。スイマーショルダーというらしい。肩の使い過ぎで、肩甲骨の靱帯と上腕二頭筋の腱がこすれ、炎症を起こすのだそうだ。メドレーリレーには他の選手が出ていて、それは苦しくて見ていられなかった。
俺は、康一が肩を痛めていたことは知っていたが、いつもあっけらかんとしている康一が、その肩にどれほどの痛みを抱えているのかも知らず、大会に呼ぶくらいだから大丈夫なんだろうと楽観視していた。練習がない時は大体つるんでいたのに、だ。俺は何も知らなかった。
今まで康一が負けた大会なんて見たことがなかった。俺が「水を得た魚」という言葉の意味を本当に理解したのは、康一の泳ぎを見た時で。50mプールを何の抵抗もなく進んでいくその姿に高揚したのを覚えている。あんなに激しい水音の中にあって、康一はいつも、飛び込みからとても静かな泳ぎをしていた。バタフライは一番激しく水の抵抗を受けがちだが、入水の美しさと水中での伸びやかさで、そのコースの水面は誰よりも穏やかで美しい。きらきらと高い天井から差し込む陽の光が、水を掻き隆起する康一の背中や肩を照らして、美しい陰影をつくる様に俺はいつも見惚れていた。タッチプレートに手をついてタイムを確認し、破顔するあいつに観客が喝采を送るのも、我がことのように気分が良かった。
だから、信じられなかった。康一が他の選手に後れを取るなんて。他の選手が速いんじゃない、康一が遅かったのだ。他の選手たちに容赦なく抜かれていく姿は、タイムを確認しようともせずにプールを上がっていくその表情は、まだまだ夏の暑さが残る9月のはじめにあって、俺の体温を奪った。
「…ごめん」
「なんで謝るんだよ、お前が落ちてどうすんだって」
俺は、小学校から通して、何かをやり続けてきたことがなかったから、こういう、挫折?を経験したことがない。どんな気持ちなのかもわからない。ただ、想像するだけしかできないが、それでも、悔しくて、悲しくて、やるせなかった。
誰よりも練習していた。他の選手たちより、いつもプールから上がるのが遅かったのを、練習後によく待ち合わせしてた俺は知ってる。
それが結果的に康一自身を苦しめてしまうことになるとは露ほども思わず、すごいなあなんて、のんきに思っていたんだ。知っていたなら、そんなに追い込むなとか、サボりを勧めてみたりとか、出来ることがあったかもしれないのに。
友達だろうがよ。
「こんな時、どんな顔していいかわかんねえ」
「なんだよ綾波かよ。『笑えば、いいと思うよ』」
碇シンジの物真似で返してくる康一。芝居の間まで似せてくるな、馬鹿。そもそも俺は綾波レイの物真似をしたわけじゃない。
嘘つくな。強がるなよ。お前が一番、頑張ってきたのに、悔しいはずなのに、悲しいはずなのに、なんで笑ってられるんだよ。
「…泣くなよ悠介」
「泣いてねえ!」
「泣いてるだろが…」
「っ、汗だこれは、汗!!」
「鼻水垂らして目から汗流して、奇病かよ」
ちょっとこっち来い、と湿ったタオルを頭から被せられて、腕を引かれた。
ぐしぐしと目から汗を流す奇病が治まらない俺は、会場の隣の海浜公園のベンチに座らされ、さっきまで試合をしていた選手にスポーツドリンクを奢られるという失態を晒した。子供の声もまだ聞こえている時間だ。二十歳超えた男がベンチでえぐえぐと声を上げて泣いているのはかなり引く光景だろう。
カッコ悪いわ悔しいわで、止まらない嗚咽に肺がうえっとなってえずく。ひぐらしの声が煩いから、声だけでもかき消してほしいと願った。被せられたタオルは塩素のにおいがして、美しい水面とそこを自由に泳ぐ持ち主の姿を思い出して、余計に苦しくなる。
「…っ、なんで、…呼んだっ、今日、っ」
涙もしゃっくりも止まらなくて、聞くのもつらい。
「いやー…ここまで大負けするとは思ってなかったつーか…」
ごめんと謝られる。むかいついたから隣に投げ出されているその無駄に長い足を蹴ってやった。ごめんはこっちの台詞なんだよ。康一の黒いジャージに俺のスニーカーの跡がついたが知らん。
「いつも応援してくれてたし、今年最後だし、」
負けちまったけどな!と大きく明るく言った後、形のいい唇が一瞬歪んだのを、俺は見逃さなかった。
胸がぎゅうと潰されるような心地になる。
「ごめんな、なんか、変な荷物持たせちまったみたいで。ありがとうな」
ありがとうもごめんも、全部俺が言いたいのに、先に言われてしまって。友達の荷物だから持つんだよとか、お疲れ様とか、頑張ったなとか、言いたいことはたくさんあるのに、どうやって伝えればいいのか分からないのも、めちゃくちゃ悔しくて。未だひくひくと嗚咽を漏らすことしか出来ない俺の頭を、康一の馬鹿みたいにデカい手がぐしゃぐしゃにかき混ぜた。
「どんな結果になっても、お前に見て欲しかったんだ。」
その言葉は、俺の涙腺を完全に崩壊させるのには十分で、俺は借りたタオルに顔を押し付けたまま、暫くの間康一に頭をこねくり回されていた。
金曜。俺はまた、クラブ『Squeezin'』に来ていた。
今日はショータイムがあるイベント日で、店内にはいつもの常連客達の他に、きらびやかに着飾ったドラァグクイーンたち、ドラァグショーを目当てに来たヘテロの男女までが入り乱れ、いつも以上にごった返している。
ショーがあるため、今日はバーカウンターの外にいるミユキさんに、俺はいつものハイチェアに座ったまま後ろから抱きつかれて、肩に顎を乗せられていた。正面を向いているのに異様に太いまつげが視界にちらちらと入ってきて、それが七色なのまでわかる、何故だ。どんだけ長いんだそのつけまつげは。一体今日は何の生物の設定なのか。地球人ではないよな。俺の知る限りまつげが七色の地球人はいない。こんな距離では確認するのも怖いので、真正面を向いているしかない俺だ。しかもそもそも身長も高いのに、ほとんど垂直に見える角度のヒールまではいているので、デカすぎて俺に抱き着くのに蟹股になっているっぽい。なおさらこわい。なんだこれは。何の生物?ほんと。
「んで、先週の釣果は~?びびっときた?ねえねえ!」
「…ぜんぜん…」
「またあ~~~~~~~~~?????」
心底つまらなさそうに言うミユキさん。いや、俺だって不本意なんですよ…。
先週の細マッチョくんはなんていうか、自称ドSのとにかく言葉攻めをしたがるタイプの相手で。罵りまくるのがSだと勘違いしている奴だったもんだから、そりゃあもう自尊心をゴリゴリに削られて帰ってきた。しかもネコは出来ないという…一方的に組み敷かれた俺は、ひたすらよくわからない罵倒を浴びせられながらケツにちんこ(しかも身体とは裏腹に御粗末なものだった)を穿たれ続けるという地獄の時間を、心を無にしてやり過ごすしかなかったのだった…。お前の代わりに股開いてやってんだからもうちょっと尊重しろ…セックスは相互のコミュニケーションだと俺は思います…。
「ユウさんまた変なの引きあてたんですか?誰かイイ感じの人紹介してもらいます?僕の運命のピッピに♡」
「お気遣いありがとうアサヒくん…気持ちだけもらっておく…」
今日は合流できた、常に真実の愛に生きるアサヒくんが、モヒートのグラスを傾けながら悪びれなく言う。絶対最後のピッピのくだり惚気たかっただけだろこの子。
その運命のピッピとやらだが、今回もどのくらいもつかわからないし、そこにあやかるのはちょっとなあという本音は墓場に持っていく。
「もうーーーちょっとユウちゃんどうなってんのよ!ラブの!アンテナ!!磨いてもっとほら!!」
まだ若いでしょうに!!と俺の短い髪を魔女みたいに長くて派手なネイルで器用に一つまみして、立てる。
「すごい妖気ですとうさんッ!!」
「あははは鬼太郎だ!イエーイ髪の毛針ー!!」
「今じゃ!鬼太郎!!」
「ははは。絶好調だねえミユキちゃん」
後ろからミユキさんが野太い声で叫び(控えめに言って鼓膜が破けそうだ)、右隣からアサヒくんが楽しそうにツッコミを入れ、左隣のノブさんが穏やかに微笑み。…ここはサーカスか何かなのか?既にみんな酔ってる?
「あったぼうよお!私のショータイムまで待っててくれるわよね?ノブさん!」
「勿論。今日はそのために来たんだからね」
「いやぁんノブさん愛してる♡」
今度はノブさんにしなだれかかるため、ミユキさんが俺の拘束を解いたので振り返ると、普段より30センチほど高いところにミユキさんの顔があって、見上げるだけで首が痛かった。
きっと特注なのだろう、大柄なミユキさんがヒールをはいても収まるドレスは、きらきらの、ミルク色がオーロラみたいに七色に偏光するスパンコールの生地で、ミラーボールもかくやという輝きを放っていた。確認したらやっぱりまつげは七色で、併せてネイルも七色だ。胸とお尻のパットをいれて身体に女性的な曲線を作り、がっちり形を固めたウィッグはブロンドで、レッドカーペットにでもいるのかと見紛う。80'sぽいビビッドなディーバメイクをステージ用にさらに誇張しているため、とにかく目元の圧がすごい。だがこれが、びっくりするほどきれいなんだよな。デカいのとか、野太い声とか関係なくなる。この人はやっぱり魔法使いだ。
「やだあユウちゃんたらあ!そんなに見つめても何も出ないわよっ!罪な女ね、私も~!」
「いえあの…ぶへっ」
パフォーマンスを控え、いつもより数倍テンションの高いミユキさんにばしん!!と背中を叩かれてげほげほとせき込む。アサヒくんがかいがいしく背中を撫でてくれ、いつの間にかミユキさんに頬に真っ赤なキスマークを付けられていたノブさんは、バーテンにチェイサーを頼んでくれていた。なんだかんだ、ここの人たちはやさしいんだよな。
ショータイムに向けて、ショー目当ての客の大半がステージ前のフロアに集まりだす。これから始まる激しく華々しいショーを盛り上げるための緩急か、先程からDJがバラードの曲を続けて掛けているようだった。掛かっているのは、True Colorsだ。曲に合わせて、フロアで数組のカップルが幸せそうに揺れている。なんだか、少し古い洋画に出てくるプロムを見ているようだ。互いを触れる手が、見つめ合う瞳が優しい。
もし世界があなたを狂わせて 追いつめているなら
私を呼んで
私がそばにいるって 知っているでしょ
恋の歌というよりは誰かを励ます曲だが、セクシャルマイノリティとされる彼らがこの曲で優しく互いを支え合い揺れている様は、皆がそう伝え合っているようで、リリックを重ね合わせて少しジンとしてしまう。
あなたの本当の色が 私があなたを愛する理由
だから本当のあなたを隠さないで
それはまるで 虹のように素敵なの
その時、フロアの端の方を他の客たちに頭を下げながら、このバーカウンターに向かってきている客がいるのが見えた。ふたり連れだが、ここには珍しくまともなスーツ姿の客なので、人が多いフロアの中で目立っている。
「……えっ」
思わず席を立ってしまった。
心臓が早鐘を打つ。今日はそんなに飲んでないのに。原因は明白だ。
スーツの片割れを、俺は知ってる。見間違えたりしない。
あれは、康一だ。
「ユウさん?どしたんですか?」
「やだあ、何か落としちゃったの?」
周りが全て、視界から消えたようだった。ぎゅーんと、視覚が康一一点にフォーカスして、その一挙手一投足を見逃すまいとする。耳は必死に彼らの会話を聞き取ろうと、切なげなシンディ・ローパーの歌声をシャットアウトした。ぞくぞくと粟立った肌は、彼らが動かした空気の流れからも情報を得ようとしているようだった。
息をするのを忘れる。
康一の纏ったシングルのスーツは落ち着いたミディアムのグレー地に白く細いストライプの入ったもので、明るめのネイビーのタイを合わせ、胸には同じくネイビー基調の柄物のポケットチーフを覗かせている。そのいでたちには堅苦しさがなく、けれども上品に決まっており、それは俺の知っている康一そのもので、懐かしく優しく、俺の目に映った。
二人はどんどんこっちに近づいてきて、やがて俺たちのところに辿り着く。
俺は咄嗟に二人に背を向けて、カウンターの方を見る。バーカウンターの壁、酒瓶の間の鏡に映った顔が蒼白になっていて、とにかく飲んで落ち着こうとグラスに触れるが、手ががたがたと震えてそれどころではなかった。
「え、ユウくん、大丈夫?」
「すいません、ドリンク、いいですか」
俺の様子を心配して声をかけてくれるノブさんの横に立ったスーツのもう一人の方が、バーテンに声をかける。
「俺はビールで…高梨、お前どうする」
高梨。名前を聞いて、また心臓が煩くなった。
情報を得れば得るほど、康一だという確信が深まって、俺の体温を上げていく。
「え、っと。じゃあ、俺もビールで」
ああ、と、吐息が漏れて、思わず手で口を抑える。
忘れもしない、康一の声だ。その懐かしい響きに、耳が甘く支配される。
やばい、うまく息が出来ない。膝が笑う。泣きそうだ。
どうして東京の、こんな場所、こんな店にいるのかとか、今までどうしてたのかとか、声をかけるべきなのかとか、いろいろなことがぐるぐる回る。
面と向かって康一の方を見ることは出来ないが、ビールのグラスに延ばした手を盗み見た。相変わらず、馬鹿みたいにデカい手。その手に。
指輪が嵌っていた。
左の、薬指。
世界が、足元から崩れていく心地だった。
煮えたぎるほどに熱く昂っていた身体が、心が、急激に冷えて固まっていくのを感じる。
なんでだろう、なんでこんな。
俺は、どうして。大学を卒業して5年、互いに今まで連絡の一つもとらなかった、そんなこいつの5年の間に何があったっておかしくないし、そこに俺は、もう介入できるはずも、その術もないのに。
どうしてこんなに苦しい?呼吸が出来ない?
「ちょっと!ユウちゃんてば!!」
デカくてギラギラした塊が俺の両肩を掴み、大声で揺さぶった。
瞬間、驚いた体に酸素が一斉に入ってきて、俺は再びげほげほと咽た。くの字に曲がり、足元がおぼつかない俺の体を、そのままミユキさんがが抱きとめてくれる。
「っミユキ、さ…」
「悠介?」
その声が、俺の名前を呼んだ。
「え、ユウさんの知り合い?ヤバ、いっけめん!!」
「ほんとに?それは偶然だねえ」
「マジかよ、お前悠介だよな、大丈夫か!?」
「…ち、違います!!」
色めき立つクラブの仲間たちの間から伸ばされた康一が俺の腕を掴んだのを、俺は力いっぱい振り払った。
康一が唇に乗せた名前は確かに俺のそれで、昔と同じく優しく響くのに、俺は顔も上げられない。
「ゆう…」
「こんな人、知らないです、俺…帰りますっ…」
「ちょっと、ユウちゃんっ!!」
「悠介!!」
俺は、伸ばしてくれた人たちの手をすべて振り払って、走り出した。
フロアの人混みをかき分けて、出口に走る。階段を駆け上がり、ぐしゃぐしゃな顔もそのままに、駅まで走って、気付いたら家に居て、声をあげて泣いていた。
なんだこれ。なんだこれ。
全てが突然で、整理が全然つかない。
泣きすぎて、考えすぎて、頭痛がしてきて、俺は泣きながら鎮痛剤を飲んで、しゃくりあげながらベッドに潜った。
夢かもしれない。起きたらただの夢で、何もなくて、すっきり青空が広がってて。なのに。
『悠介!!』
頭に響くのは、俺の名を呼ぶ康一の声、ただそれだけ。
考えるのをやめようと思えば思うほど、康一に掴まれた腕に触れてしまうのを止められずに、俺はまた泣いた。
(True colors/Cindi Lauper)
ともだちにシェアしよう!