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第4話 Foolish heart

人生ってやつは大抵うまくいかないもんだ。 「頭痛え…」  湯を張った浴槽で、俺は茫然自失している。  もう昼過ぎだ。やる気は勿論ない。今日は引きこもる。  昨日は泣き疲れて、いつの間にか眠ってしまったようだった。  風呂に入ろうと洗面所の鏡の前を通った時は何事かと思った。泣き過ぎで放置して腫れ上がった目元はもともと一重の俺の目を一層凶悪にしていたし、シャワーも浴びずにベッドに入ってしまったため、ワックスをつけたままの髪が寝癖の形にキープされ、それはもう酷いものだった。スーパーサイヤ人も真っ青だ。モンスターか何かかと思った。マジで。思わず二度見してしまうほどに。  鏡よ鏡、世界で一番美しくないのはだーれだ、と鏡に問えば、間違いなく今日の起き抜けの俺の顔が浮かび上がるはずだ。  全く以て、世界の終りのような気分だ。  ベッドはぐしゃぐしゃのまま、掃除も洗濯もする気になれず。カーテンは一度開けてみたものの、俺の気分とはあまりにかけ離れた雲一つない晴天で、確認した途端吐き気がしたので一瞬で閉めた。遮光カーテンにしておいてよかったと心底思う。落ち込んだ時こそ陽の光を浴びた方が良いと聞くが、今浴びたら逆に死にたくなるわ。セロトニン?知らん。日光の代わりにチョコでも恵んでくれと思う。  お行儀も大家も気にしていられず、死に損ないのような俺は今、風呂場にタバコと灰皿を持ち込んでしまっている。あと缶ビール。浴槽の蓋を蛇腹に折り曲げた、少々不安定なところへそれらを置いて。とにかくより不安定なのは俺の心の方なので、色々目を瞑っている。  ただれている自覚はある。学生の頃の俺が今の俺を見たら…いや、自堕落なのはあまり今と変わらなかった気がする。人間、急には成長できないものだ。  広くもない浴槽の中、体育座り程ではいかないが膝を折り曲げて、ぼうっと熱めの湯に浸かっている。  タバコを噛んで、大きく吸う。ああ、今日もタバコはまずくてうまい。  ふうー、と浴室換気扇に向かって長く煙を吐く。それは一度、湯気と共にゆったりと空中でとどまり、やがてするる、と換気扇へ吸い込まれていく。同じように、この重苦しさもどこかへ行ってしまえばいいのに。  バスルームには、そういう用途ではないのに煙まで飲み込んでくれている換気扇の汚いハミングみたいな音と、俺の動きに合わせて静かに揺れる、ちゃぷ、という水音だけが聞こえている。 「あ゛ーーーー………」  誰に聞かせるでもない声は勿論、誰も拾ってはくれない。なのに無駄に響くのがやたらと虚しくて、俺はビールにも手を伸ばした。  否応なくフラッシュバックするのは、昨晩の出来事。  康一の、左手の薬指。  結婚したのか。  ずきりと、胸が痛む。  …いやいや、おかしいだろ。めでたい話じゃないか。友達が結婚して苦しいことなんてあるか?  あれだけけつるんでいたのに秘密にされ、友人代表の挨拶を任されなかったどころか、式に呼んでももらえなかったからか?…そんなに自分の心が狭いとは思いたくない。  だとしても、だ。久しぶりに友達に会えて泣くってなんだよ。感極まりすぎじゃないか?自分のクレイジーさに今更だがかなり引く。  あんな場所に来て、ゲイなんだろうか。いつから?いや、でも一緒に来ていた…多分同僚?はそんな感じがしなかったし、昨日はイベント日だったから、おそらくドラァグショー目当てできたんだろう。きっと、結婚相手は女性だろう。あいつには、会社を経営しているような立派な実家だってあるし、そう簡単に男同士の交際は認めてもらえないはずだ。ましてや指輪を付けているほどの関係なんて。それに、もしあいつがゲイだったのなら、俺にだって… 「…まてまてまてまて。」 あいつがゲイだったらなんだっていうんだ。俺にだって、とは?有り得ない、友達だぞ。  でも、否定すればするほど浮かんでくる、康一との学生時代の思い出はどれもとても優しくて、俺の胸を柔らかく締め付ける。 『悠介』  久しぶりに聞いた、あいつが呼ぶ俺の名前のその響きが、どれだけ幸せに俺の耳に響いたかとか。  掴まれた腕に感じた、あいつの掌の大きさや感触が、体温が、今思い出すだけでもどれだけ俺の体温を上げるかとか。  考えて、思い返して。気付いてしまう。これはもしかしなくても。  俺は、康一のことが。 「…す、…」 すんでのところで言葉を飲み込む。悪あがきだとはわかっているが、唇に乗せてしまったら終わりだと思った。  どう考えても、あまりに頭の悪い着地にしかならなくて。でも、気付いたところで、あいつはヘテロで、既婚者で。何もかもが遅すぎるし、同じ土俵にも立てない。  俺のこの、康一に対するもやもやも、つらさも、ほんのりとあたたかい何かも全部、一生実ることはないのだと。  俺は静かにタバコを灰皿に押し付け、ビールを浴槽の蓋に置いて。そのまま、取り敢えず無言で湯に頭まで沈んだ。 「なにそれえ……じゃあじゃあっ、ユウちゃんがビッチだったのって、コウちゃんに一途だったからなの!?その続きどこで読めるの!?白泉社!?」 「ユウさんがビッチの時点でララも花ゆめもちょっと…安パイ少コミ、フラワーズでぎりぎりですかねえ」 「フラワーズ!いいわ!ユウちゃん、持ち込みするなら小学館よ!!」 今日はカウンターの中にいるミユキさんが、そのゴツイ手が作り出した俺への美しいテキーラサンライズを出しながら、ずずいとカウンター越しに身を乗り出してくる。今日は雄っぱい仕様なんですね。テーブルに大きなおっぱいを乗せてる女の子って男の憧れだけど、男の雄っぱいでも可能だったなんて俺は知りたくなかったなあ。  俺の虚しい恋心を少女漫画にしようとするミユキさんに、スマホをタップしながらアサヒくんがのる。なんでそんなに少女誌事情に詳しいんだこの人たちは。アサヒくんの可愛らしさを助長させているふわふわの髪を耳にかけて、運命のピッピとお揃いにしたんですう♡と俺が来店するなり一番に見せつけてきたピアスが、形のいい耳にきらりと光った。小ぶりのその石はまさかのダイヤモンドで、石言葉は『永遠の絆』なんだとご丁寧に教えてくれた。俺はそもそも石言葉なんてものがあることもその時はじめて知ったわけだが。  ビールを飲んで風呂に暫く浸かったお陰で案の定のぼせて、ぐでぐでになりながらバスルームから出た俺は、放り投げていたスマホに鬼のようにLINEが入っていたことに気付いた。そのLINEの主はミユキさんで、昨日の俺の様子に大層心配してくれているというメッセージの連投だった。  思い返さずとも大変に失礼な、というか完全に意味不明な退店の仕方をしてしまっていたので、謝りにいかなければと思い、引き籠る予定は返上して、今日も今日とてSqueezin'へと足を運んだのだった。根掘り葉掘り聞かれることは必至だが、どうせどうにもならない想いである。早いところ全部ゲロって皆の酒の肴にされたら、踏ん切りもつこうというものだ。 「いや、もう…漫画にはしないですけど笑ってください…」 自嘲気味に言って、テキーラサンライズのグラスの底のグレナデンシロップをマドラーでステアした。底に沈んでいた赤が鮮やかなオレンジと交わり、その名の通り朝焼けのようになる。まあ、俺の気分はサンライズというよりサンセットなのだが。ははは。一寸先は闇である。  ミユキさんのテキーラサンライズは、グラスの縁に塩をまぶした、ソルティ・ドッグのようなスタイルだ。グラスに口をつけると搾りたてのオレンジの酸味とマッチしたグレナデンの甘さが際立ち、その味わいにほうっと吐息が漏れて、少しだけ肩の力が抜けた。美味しい。美味しいものは、呼吸も思い出させてくれるんだと気付く。 「てか、鈍すぎません?離れて5年?ちょっと意味わかんないです僕は。それで知らないうちに結婚までされて?どんだけチキン野郎なんですかあなた」 「ぐうの音も出ないよ…自覚あるからいじめないで…」 アサヒくんの言葉がまるで針のように刺さる。いや、針なんてもんじゃないな、剣だこれは。ぐさぐさ。心が失血死してしまいそうだ。素直って怖い。…でも、この子と付き合う人は、きっとこういうストレートなところがいいんだろうなあと思う。好きなら好きとはっきり伝えられる強さが俺にはないから、彼の真っ直ぐさはいつも眩しく映る。図星刺されるから大体痛いけど。 「若いって色々あるよね…かわいい。よしよし」 言いながら頭を撫でてくれるノブさんは、まるでお父さんだ。なんかもうこのひとは包容力がカンストしている。細くて長い手指がふわふわと、本当に子供か小動物にするように触れるのが心地好い。こんなどうしようもないヘタレな男なのに、壊れ物みたいに本当に繊細に撫でてくれるから、俺の弱った心はまた涙腺に直結してしまいそうになる。耐えようとしたがぐす、と鼻が鳴った。 「でも、そっか、コウちゃん…指輪してたもんね…それはショックよね…」 「だけどお、ヘテロかどうかはわからなくないですか?絶対に無理ならドラァグも見に来ないですよね」 「そうかもねえ。一緒にいた子も上司って感じではなかったから、強制って訳じゃなさそうだし。ゲイかどうかはわからないけど、少なくともね。」 「でも、相手がいるなら…どちらにしろ……」 ぎゅ、とグラスを掴む手に力が入る。  ミユキさんとノブさんが、俺の言葉に気まずそうに視線を落とす。アサヒくんは眉間に皺を寄せて、そんなの奪っちゃえばいいのに、とかぶつぶつ言ってつまらなさそうにしている。ああ、ただ聞いてもらいに来ただけなのに、ほんと悪いな。俺は、いいんですよと笑ってみせた。無理してるのはきっとバレてるけど、仕方ない。 「だから、今日は3人に笑い飛ばして欲しくて…」 「まあ、そこも含めて、本人に色々聞いてみればいいんじゃないですか?」 アサヒくんは触っていたスマホをカウンターに置いて振り返り、フロアに向かって手を振った。 「は?」 アサヒくんの視線の先を追えば、ダンスフロアの人混みをかき分けてこちらへ向かってくる一人の人物。ばっちり目が合ってしまった。 「えっ!?」 シャツにデニムにジャケットというラフないでたちで、髪も少し遊ばせて。昨日とは印象が違うけれども、こっちの方が、俺のよく知っている康一の姿だ。  いや、え?なんで?ちょっと待ってくれ。  固まってしまっている俺のところへ、康一はすぐに辿り着いて。 「よお、悠介」 …もうさ、名前を、呼ぶなよ…それだけで俺の心臓は大変だ。 「コウちゃん、待ってたわあ!いらっしゃい!」 「こんばんは、昨日はどうも。」 人のいい笑顔で、康一が頭を下げる。ていうか、 「ミユキさんも知ってたんですか!?」 「ごめんね、ユウくん。二人が彼を呼ぶって、どうしても聞かなくて…」 俺が思わず声を荒げると、ごめんね、とノブさんが手を合わせる。  いや、ごめんと言われても!!俺はこいつを忘れようとしているのに!!しかしうまく言葉にはならずに、口はぱくぱく開くだけ。 「昨日ユウさん泣いて帰っちゃった後、コウさんすごい落ちてたから。イケメンはキープしておこうと思って」 言って、カウンターに置いたスマホを指先でとんとん叩くアサヒくん。 「なのにちゃんとショーまで見てってくれてね、私のドラァグ褒めまくってくれて嬉しかったから、またイベントの時は誘っちゃおーって、私も連絡先聞いちゃったあ」 てへ、とミユキさんもスマホを振ってみせた。 「か、帰る!帰ります」 「はいダメー、それ昨日の二の舞ですから。」 もう何も信じられない絶望的な気持ちでハイチェアから勢いよく降りたが、それを見越されていたのかアサヒくんにがしっと腕を掴まれて、逃げることを阻まれる。振りほどこうともがいたが、ふと康一に目の前に立たれて、思わず動きを止めてしまった。 「アサヒくんが、友達としてやり直せるかもしれないからおいでって、連絡くれて。…連絡なくても、来るつもりではいたけど…」 顔を上げられないから、表情からそう言った康一の思いを読み取ることは出来ないけれど、その声音は何処か心許なく、寄る辺なさがあって、程度の差こそあれ、互いに不安なのだと知れた。 「…なんで…」 「お前に会うために決まってんだろ」 ずぎゃん。 予想外に力強く返ってきた応えに俺の心臓はもう止まりそうだ。というか今撃ち抜かれた音がした。だめだもうだめだ。なんだよ、なんだよそれ。一言前はあんなに不安そうだったくせに、そういうことは思い切りよく言ってくるとか…揺さぶられすぎて、頭がおかしくなりそうだ。康一は友達として言っているだけなのに、俺が喜ぶような展開など待っているはずもないのに、そんなこと言わないでくれ。一喜一憂するだけ無駄だ。  俺の右隣に座っていたアサヒくんが席を立ち、康一に譲る。 「…隣、いいか?悠介」 胸がぎゅっとなる。本当に、来なけりゃよかった。苦しすぎる、こんなの。 「なんでこんな、騙し打ちみたいな…」 「ごめんなさいね。黙ってて悪かったとは思ってる。でも、お互い話したいことがあるならチャンスじゃない?無理だと思ったら、帰っていいから。」 「そう。僕らのことは、第三者機関とでも思ってもらって。」 「第三者、機関…」 そんな言葉がするりと出てくるあたり、やっぱりノブさんは法律的な仕事をしているのではないだろうかと考えつつ、どんな意味だったろうかとぼんやり繰り返す。 「うん。ユウくんに不利益があると感じたら、ちゃんとストップをかけるから。ね?」 「…はい……」 ノブさんのゆっくりとした、でも芯のある優しい声音がとても頼もしく聞こえて、少し安心する。  俺の気持ちを知っているこの3人になら、任せていいのかもしれない。どうせ実らぬ、先のない想いだ。この際徹底的に玉砕して、忘れたらいい。 「コウちゃんも、それでいいわよね」 「はい。悠介がそれでいいなら。」 ぐっ、と息が詰まる。  こういうところだ。俺が、康一をいいなと思うのは。人の気持ちを優先する、優しいところ。  康一のその応えを聞いてミユキさんがうごうごと悶えていたが、ノブさんがしい、と唇に指を当てて宥めてくれている。  …ほんとに忘れられるんだろうか… 「悠介…」 ああもう、その声で名前なんて呼んでくれるなよ…さっきから心臓がダメージくらい過ぎて壊れそうなんだよ。 「…いいよ、座れよ。」 「ありがとう。」 いきなり挫けそうになりながらも、仕方なく立ちんぼのままの康一に声を掛ければ、康一はほっと息をついて、アサヒくんがいた俺の右隣に座った。アサヒくんはそれを見守ってから、そのまた隣に座す。  どきどき、心臓の音が煩い。そんなはずはないのに、隣の康一にも聞こえてしまうかもしれないと、不安になる。それくらい煩い。まだアルコールのせいに出来るほど飲んでいないから、それも悔しかった。やけになって、俺はグラスのテキーラサンライズを煽る。酒の味が遠くて、もっと強い酒を頼むんだったと後悔した。ただのジュースだこれは。 「はい、コウちゃんはビールよね。落ち着いて、話してね。」 ミユキさんがサーバーからビールを注いで、康一の前に出す。向けられた言葉は、どう考えても俺宛だよなあと思ったので、口を開く努力は…会話する努力は、してみよう。 「康一…その、」 「ごめん、悠介。連絡取らなくて。…5年も」 「そ、れは…俺も…」 謝ろうとしたら食い気味に謝られて、なんだか面食らう。 「なんか、連絡するの、照れくさくて。お前から連絡くれるかもってもだもだ待ってたら、5年も…経っちまって」 ごめん、と頭を下げられる。 「出来ればまた…お前さえ良ければ、飲んだりとか?出来たらなって思ってる。」 「でもお前、田舎に」 「戻ってきたんだ、こないだ。昨日はこっちの同僚にドラァグショーに連れてこられて…お前に会えるなんて、嬉しい誤算だったけど。だから、よければ。…嫌なら、俺、ここにも来ないから。」 どこまでも、俺を尊重してくれようとする言葉に、じんとしてしまう。俺は自分のことだけで手一杯だというのに、なんだか悔しい。仕方ないことだが。 「…ユウちゃんがいない時にこっそり私のショーだけ見に来て欲しいわ…」 「ミユキさん!!」 ミユキさんの言葉をアサヒくんが諌める。カウンターの中のミユキさんの大きな体が少しだけ小さくなった。 「お前からはなんか、聞きたいこととか言いたいこと、あるか」 「えっと…」 急に問われて、言い淀む。だが、先ずは、俺も素直に今までのことを謝ろうと決める。あんなにあっさり謝られてしまっては、こっちも謝らねば同じ土俵に立てない気がする。…ぶっちゃけあんまり俺は悪いとは思っていない。が、ここは、男として…クソビッチの俺にだって矜持というものがあると、声を絞り出した。 「俺も、連絡、しなくてごめん…俺もなんか…照れ臭くて…俺も、お前からの連絡、待ってしまってた…自分から、すれば良かったのにな…ほんとにごめん」 えらい。えらいぞ俺。思ってもいないごめんを2回も言えた。えらい。誰か褒めてくれ。  思い切って告げると、隣の康一がふう、と少し長めの息をついた。 「じゃあそれは、お互い様だな。仲直り。…て、喧嘩してたわけじゃなかったな。」 ふ、と微笑んだ音がした。…っなんだよカッコいいなクソ!!褒められるとかよりも隣に座する康一の「ふ」がご褒美だったというのか!!クソ!!俺酔ってるのか!!??  いや、落ち着け、落ち着かなければ。俺がどうにも居た堪れなさすぎる今この瞬間を耐えているのは、このクソみたいにどうしようもない想いに、とどめを刺してもらう為だ。どうしても、聞かなければならないことがある。  心許なく己の手元しか見られずにいたが、意を決し、しかし恐る恐る、ビールに手を付け始めた康一の、カウンターに置かれたその左手に視線を送りながら問う。 「その…お前、結婚…あれ?」 その薬指に光るものは、なかった。 「あれえ!?コウちゃん指輪は!?」 カウンターで気持ち小さくなっていたミユキさんが、びっくり箱のように飛び出した。やっぱりでかい。知っていたがいろいろがでかい。 「え?あー…結婚は、した。けど、もうすぐ別れるんだよ。ていうか、もう別居してて。あとは書類とかそういう処理だけ。」 情けないけど、と苦笑する。 「職場では、してるんです。色々面倒だから。昨日もそれで…あと、こういうところに来たことなかったから、パートナー居ますっていう…防衛?みたいな意味も込めたんですけど。」 なんだかほっとした気がしたのに、パートナーという言葉に、再び胸が苦しくなる。 「でも、昨日ここに来てみて、皆さんと話して、すごく失礼な考えだったなって思ったので、外してきました。」 すみません、と頭を下げる。  確かに、そういうヘテロの男性は多い。ゲイを見れば、自分が性的対象にされるのではないかと過剰に防衛したり、飛び越えて攻撃してくるような奴。だけど勿論それぞれ好みはあるわけで、誰彼構わず手を出すわけじゃない。そこは、普通の恋愛と同じだ。  すぐにそういうやって考えを改められる柔軟さも、いいなと思う。……あーーーもう俺さっきから褒めてしかいない…… 「そっ、か……残念だったな」 脳内で褒めてしかいなかったためそのまま、お前いい奴なのにって続けそうになって、すんでのところで飲み込んだ。 「いやまあ、いいんだ。」 少しだけ、寂しそうな音を聞かせる康一。好きだったのだろうかとか、そりゃあ好きじゃなきゃ結婚なんてしないよなとか…俺はその見も知らぬ女性を寂しく羨ましく思うことしか出来ない。なんで別れたのだろうか。俺の知っている康一…大学の四年間しか知らないが、それでも、こいつと離れたいなんて思ったことは、とそこまで考えて、どれだけ俺はこいつのことをと頭を抱えたくなる。 「俺からも、聞いていいか?辛かったら答えなくてもいいから。」 「わかった」 「昨日は、なんで…逃げたか、聞いていいか」 うぐ。…そりゃあそうだよな。だが、俺もそれは一晩明けてからぼんやりと分かったことで。簡単だが、口にするのは難しい。何より、女性と結婚するヘテロの、しかもその婚姻にまだ未練のあるらしい康一に聞かせられることではない。 「…こんなとこにいて、軽蔑されるかもって」 それも一つではあるけれども。一番それらしく聞こえる理由を聞かせてみる。 「お前がそれで幸せなら、軽蔑なんてしねえよ。安心してくれ。」 「…ありがとう…」 なんだこれは。一体何に愛されたら、こんな素で二百点満点みたいな、まるでお手本のような回答ができるんだ…。俺はお前がこういうやつだと知っていたから照れるくらいですんだものの、ミユキさんはぐずぐず鼻鳴らしてるぞ。 「それで、お前は、ゲイ?なのか?…こんな聞き方、気を悪くしたらごめん。」 「バイ、だと思う。女の子も、好きだし…」 どうやらお前のことが好きで、でも手に入らず寂しくて恋しくて、さらに若い身空の性欲を持て余した結果ビッチになりましたなんて、口が裂けても言えない。 「そっか。わかった。じゃあ、もしこれから話したりする上で、俺が何か、失礼なことを言ったらちゃんと言ってくれ。」 「いいこ…!!!」 「ええと、収まるところに収まった感じかな?」 「分かってもらえて良かったですねえ、ユウさん。」 どこまでもどこまでも優しい、これがスパダリのお手本です、みたいな康一の言葉に、ミユキさんとノブさん、アサヒくんが安心した声を聞かせ、それぞれのグラスを上げる。厳密には就業中であるはずのミユキさんは何故、いつ飲みだしたのかよくわからないが、とにかくその輪に康一も巻き込まれ、再びビールに口を付けている。  ノブさんの言うように、本当に、収まるところに収まった、のだろうか。昨日から急展開を見せる、少なくとも5年は抱えている俺のこの、不毛としか言えない想いは。だがそれならば、未だ重く俺の呼吸を乱している心の澱も、どこかへ行ってしまっているはずで。だから、解決というにはなんだか、違うと感じる。だって俺は、康一はおろか、以前誰の顔も見ることが出来ず、項垂れたままだ。 「…ユウちゃん、まだ、何か言いたいことある?あるなら今よ」 明るい空気に乗り切れない俺に気付いて、ミユキさんが声をかけてくれる。 「康一…」 「なんだ?」 「話してくれて、ありがとう。だけど」 「だけど?」 「…前みたいに付き合うのは…無理、だと思う」 「……どうして」 「それは…」 さっきのように、適当な理由をでっち上げようと口を開いて、辞めた。確かに、そうしてこの場を終わらせることもできるだろう。きっと下手な嘘でも、康一は優しいから身を引いてくれるだろうが、ここまで来て曖昧にして終わらせるのは…いや、既に嘘は幾つか吐いた気がするが、それでも、俺は早くこの重い何かを完全に下ろしてしまいたかった。それはここでは出来ないような気がしたし、ここまでお膳立てしてもらっておいて決着がつけられないのも申し訳ない。折角なら、ここまできたならちゃんと、自分で着地させたい。逃げてばっかりでは駄目だ。  俺は勇気を振り絞り、テキーラサンライズの残りを飲み干して、ハイチェアから降りた。 「康一、ちょっと付き合ってくれ。すいませんみなさん、また連絡します」 「え?ああ」 「大丈夫?ユウくん…」 不安そうに声をかけてくれたノブさんと、心配を隠そうともせず眉尻を下げているミユキさん、眉間に皺を寄せるアサヒくんへ、大丈夫ですと頷いて返し、康一がついてくるのを背に感じながらフロアの人混みを掻き分けて、店の出口へと歩みを進めた。  終わらせなければ。自分のために。前に、進むために。  俺は自らに言い聞かせ、煩い己の心音を気持ちだけでも掻き消してくれる、身体に響く重低音が遠くなるのを心細く感じつつも、店のドアを開けながら、何度も何度も、深呼吸を繰り返していた。 (Foolish heart / Steve Perry)

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