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第5話 I Miss Us

 繁華街から少し離れた、いつもは通り過ぎるだけの公園で、俺は足を止めた。そこは公園というにも広場というにも狭すぎる、ビルとビルの間の細い路地に面した、地元の子供でもここで遊ぶか?という、東京らしいといえばらしい、小さな小さな公園だ。申し訳程度にベンチがひとつと滑り台、そしてこれまた小さな、猫の額ほどの砂場がある。  こんな時間になれば人通りなどももちろんないような場所だ。俺はSqueezin'からの酔いを醒ましたい帰り道、地下鉄に乗らず主要駅まで歩くことがあるのだが、ここはそんな時に駅までのナビを頼んだスマホの地図アプリがここを通れと指示してきた道を歩いていて見つけた場所だ。こんな住宅地を抜ける必要はあるのだろうかとちょっと不安になるような、そんな道すがらにある。ふたつしかない街灯のひとつはだいぶ前から点滅していて、遊具を力なく照らしている。まるでホラーゲームの背景にでも使えそうな、まったくお誂え向きの景趣だ。  そうだ、ホラーだ。五年ぶりにずっと会いたかった親友に再会したのに、混乱して泣いて逃げて恋心を自覚して、諦めようと呑みに行ったらまた会って。なんだこのスピード感は…気持ちを整理する間もなく揺さぶられまくって、感情が絶叫アトラクションのただなかに置いてけぼりにされたようだ。戦慄迷宮とFUJIYAMAをただただ足したような…足すだけだ。2では割らない。俺の心は今それ程に目まぐるしい、最早一人富士急ハイランド状態だというのに、こんなものをどうして少女漫画誌に持ち込めというのか。時間差だがミユキさんとアサヒくんに再びツッコミを入れざるを得ない。  繁華街の大通りは週末らしく煩くて明るくて、人混みも喧噪もうっとおしいとイライラしたが、住宅地に入ってしんと静かになったらそれはそれで、結局混乱しっぱなしで答えの出ない自分のざわついた心にイライラした。静かな住宅地に、俺と康一の靴音だけが響いていた。それが否が応にも、康一と二人で歩いているという現実を突きつけてきて、苦しかった。  ここまではとにかく無言できた。落ち着きたかったし、何から伝えればいいのかとか、そもそも何を伝えればいいのかとか、うまい切り出し方があるのかとか、そんな風にぐるぐるしていたら、そんなに店から近くもないはずなのにあっさりと到着してしまった。  康一もジーンズのポケットに手を突っ込みながら無言で着いてきて、信号待ちの時などにたまに隣に並んだ。背丈はあまり変わっていなかった。まあ、大学卒業してから伸びることもないか。服装は少し落ち着いたような気がする。あの頃なら、アウターはもっとラフなものを選んでいたように思う。身体の厚みは変わらないようだから、水泳は続けているんだろうか。俺は横目で、変わったところ、同じところを探して、五年の間に康一の身に起ったことを考えた。何も分かるわけはないのに。  結婚して、離婚して。あとは書類だけと言っていたから、調停中とかいうやつなんだろうか。事情を聞かせてくれた康一の声音は寂しさを含んでいた。当たり前か。まだ、最中だ。…今も好きなんだろうか。会ったこともない嫁さんを思う。姿も顔も分からないけど、きっと康一が好きで結婚したような人だから、いい人だったんだろう。寂しそうにするくらいなら、なんで別れたんだろう。  そんなことを詮無く考えていたら、結局自分のことを考えていたのはこの道行の2割程度で、あとは康一のことばかりだった。何がしたいんだ全く俺は。  小汚い公園の小汚いベンチの半分に、仕方なく俺は座った。黙ってついてきていた康一はいつの間にか途中の自販機で飲み物を買ったらしく、隣に座して、ん、と、ホットの缶コーヒーを差し出してきた。黄色と茶色のカラーリングが派手な、関東圏では有名な甘いコーヒーだ。 「…なんだよ、超甘いって有名なやつだろこれ」 言いながら受け取ると康一も同じ缶を振って笑った。 「頭使う時は甘いもんだろ。使わせてるの俺だから、せめて。牛乳じゃなくて練乳入ってるらしいからよく振れよ」 「練乳…」 言われるままに、渡された缶を幾度か適当に振って、プルタブを引き、口をつける。途端にぶわりと練乳の甘さが口に広がり、脳天を突き抜けて、俺の肌は総毛だった。 「あっつ、あっっま!!!口が、脳が溶ける…!!」 普段ブラック派の俺は耐えきれずに悶えた。飲めたものではない。 「…うぁ、マジだ、甘すぎ!なんだこれ!!」 「ていうかなんでホットにしたんだよ馬鹿、甘さが倍増すんだろ!」 「肌寒いからといい思ったんだよ、まさかこんな甘いと思わないだろ!?」 じゃあせめておまえの分は普通のお茶買って来いとか色々文句を言って、俺たちはあの頃みたいにど付き合いながら、ちゃんと顔を合わせて笑った。途中でママチャリがしゃーっと駆け抜けて、ここが住宅街だったことを思い出し、二人して肩を震わせながら息を殺す。 「なんだ、喋れるな、普通に」 ほっとした、と康一が肩の力を抜いた。 「普通にってなんだよ」 「じゃあ、さっきまでのお前が普通だったとでも?」 「…五年もあればいろいろ変わるだろ。お前だって」 何が今の俺たちの普通かなんて。きっとお互いわからない。  すっと、二人して息をのんだ。 「…ごめんな、こんなとこまで付き合わせて」 「いや…俺の方こそ。お前の行きつけの店、荒らしちまってるし」 「なんか、今日謝ってばっかだな俺たち」 「…もう一生分謝った気がする」 「馬鹿、俺には一生頭下げて生きろよ。結婚式にも呼ばなかったんだぞお前は」 「それは…、どうせ壊れるものだったんだから、もういいだろ」 ぐ、と唇を噛むから、軽口にしては言い過ぎたと後悔した。いや、本当のことだし、それはまじで一生引きずっていけばいいとは思っているが、度が過ぎたことは否めない。  すっと、また静かになって。けれど、甘すぎる缶コーヒーにはお互い口をつける気になれず、二人して手の中の温かい缶を弄ぶ。  もう、言い過ぎたついでに、全て言ってしまおう。どうせ今夜限りだ。俺の気持ちが変わらない限り、こいつに会うのは辛すぎる。  だって、昔みたいに笑い合ってみて、どれだけこいつの隣が心地好かったか思い出してしまったから。こいつの笑顔がどれだけ眩しいかも、それがどれだけ自分の胸を熱くするかも。だから、もうおしまいにしなきゃいけない。こいつの前から去らなきゃいけない。 「さっきさ、」 「うん」 「俺がゲイなのかって聞いた時、」 「うん」 思い切って康一を見つめたら、康一も俺の何かを受け止めようと、目を合わせてくれた。そんなとこまで優しいんだな、お前。知ってたよ。 「男と寝てるのかって、聞きたかったんだろ、ほんとは」 明け透けな言葉で問えば、ぐ、と康一の大きな体が強張った。  す、と血の気が引いていく。自分が言ったことの、していることの、結果なのに。  康一を、きっと俺は傷つけている。傷つけようとしている。分かっていてそうするのはとても残酷なことだ。でもそうでもしないと、俺は俺自身を守れない。だから、止まれない。 「俺さ、結構モテるんだよ、これでも。俺はワンナイト以上に付き合う気はないけど、大体次また会おうって言われるんだ。タチでもネコでも。男と寝るの、才能あるみたいで」 一度酷い言葉を投げてしまうと、それは簡単に、するすると出るようになる。こんなこと知りたくはなかった。本当は。 「悠介…」  怯えるような、怒りのような。康一の瞳が苦しそうに揺れて、俺から逸れた。  そうだよな、せっかく会いにきてくれたってのに、その友達がビッチじゃあな。でも、もう止まれないから。  俺は俺自身を守るために、お前を諦めるために、俺たちを壊すよ。  甘い缶コーヒーを足元において、視線をそらしたままの康一の膝を情(いろ)をこめて撫でた。 「試してみるか?男同士のセックス。タチでもネコでも、お前がいい方でシてやるよ。」 ぐっと唇を耳に近づけて、囁いてやる。  一度吐き出してしまったクソみたいな言葉たちは、次々と勝手に飛び出して止まらない。だけどそれだけ自分が、自分をそういうものとして、情を使って、生きてきてしまったことは変えようがなかった。下手な芝居を打ってみたつもりが、それはそのもの自分自身だったとわかって絶望する。 「やめろよ!!!」 肩を掴まれて引き剥がされた。  ほらな。やっぱりだめだろ?お前は。だけど俺は、こんな下卑たものも含めて…そういう気持ちで、お前と『付き合いたい』んだよ。 「やめてくれよ…そんな、そんなふうに、」 懇願するように、声を絞り出す康一。俺の肩を掴んだまま俯いているから、表情までは読み取れない。  ふわりと毛先を遊ばせた康一の髪が夜風に頼りなく揺れている様を、俺は空虚に見つめる。心も体も冷め切っている。どんな酷いことだって言える。今なら。 「自分を、貶めるのは…」 縋るような声は辛そうで、でもどこまでも優しくて、俺の肩を掴む手は熱くて。俺の心は一層どす黒く染まっていく。  その気がないなら、もうやめてくれ。 「貶めてねーよ。実際ビッチなんだよ、俺は。もう何人と寝たかも、相手の名前も顔も覚えてない」 康一の熱い体温が触れられた肩から広がってイライラする。その熱が俺の黒い心を苛んで真っ二つに割って、冷たく突き放す言葉を投げつけながら、同時に詮無い本音も押し出そうとするから、必死で耐えた。  そうだよ、俺は、お前と居られなくなったから、お前の代わりを探したんだ。何人も、何人も、名前も顔も覚えられなくなるくらいに。 「溜まるもんは溜まるんだし。誰でもいいんだ、気持ち良ければ」 本当は、お前しかいらない。きっと、相手がお前だったら、性癖が歪んでいようとセックスが下手だろうとちんこが小ぶりだろうと(そうでないのは水着姿見てるから知ってるが)気にしない。お前ならなんだっていい。  …でも、言えないだろ、そんなこと。 「でも、それでも、…っ」 ぐっと、肩を掴む康一の手に力が篭った。 「お前には、ちゃんと!自分大事にしてっ、大事なひとと、愛し合って欲しい、相手が、男だって構わないから、だから、…っ、…う、っ」 ぐす、と、康一の鼻が鳴って。ジーンズの膝に、染みが出来るのが見えた。 「え、お前泣いてんの?」 「お前があの時みたいに!」 思わず少し慌てて問えば、康一はがばっと顔を上げて、涙と鼻水を垂れ流しながらまま声を荒げる。 「俺の気持ちわかって、代わりに泣いてくれないからだろお……っ」 「なんだそれ…勝手かよ……」 あの時、お前がぼろ負けした水泳大会の日。今も覚えてるよ、お前のタオルから香った塩素の匂いも、頭を撫でてくれた手つきも、お前が笑いながら辛そうだったのも、全部、重箱の隅つつくみたいに、細かいとこまで思い出せるよ。帰りに目を腫らしたままファミレスで食べたものとか、立ち寄ったスーパー銭湯の場所まで。だけど、覚えてるからこそ、終わらせたいんだ。  お前が言うみたいに、大事な人と愛し合うのは、無理だから。 「なんで今は、わかろうとも、してくれないんだよ…俺は、お前がどんなだって構わないのに」 違う。違うよ。俺が、どんなお前でもいいと思うようには、お前はきっと俺に思えないよ。見ているものが違いすぎるから。 「俺が構うんだよ!」 全部、俺を思っての言葉だとわかっている。だからこそ、言葉通りに出来ないことが余計に辛くて。でも、どうしようもないんだよ。だけど全部、うまく言葉にならなくて。  焦れた俺は康一のシャツを掴んで引き寄せて、その残酷なくらいに優しすぎる言葉を吐き出す唇に、自分の唇を重ねて黙らせた。  驚いた康一が少し口を開けたからやけくそになって、その隙間から舌を突っ込んで、口腔を舐って、舌を絡めとって吸って、貪る。愛を伝えるものでも、快楽を誘うものでもない、ただ奪うだけの乱暴な口づけ。こんなクソみたいな虚しいだけの行為だというのに、康一は甘ったるいコーヒーの味がして、それは余計に俺を苛立たせた。じゅう、と音を立てて唾液を吸う。 「っ、やめろ…っ」 その水音に我に返った康一が俺を突き飛ばして、逃げるようにベンチから立ち上がる。足元に置いたコーヒーはその拍子に倒れて、甘すぎる茶色の液体は公園の砂に吸われていった。 「これでわかったかよ…」  ベンチに座ったまま康一を仰ぎ見ると、袖口で口を拭っていて、ああ、男とのキスなんて嫌だったろうよと、分かっていたのに心臓を抉られるみたいなショックを受けた自分に、最早嗤えた。  馬鹿だ。俺は本当に馬鹿だ。どうしてこんなことしか出来ないんだろう。これが良くないことだなんて分かっているけれど、俺にはもう、こうするしか。 「ゆう、」 「俺は!お前のことそういうふうに見てんだよ!だからお前が、…俺のこと、そういうふうに見られないなら、一緒にいたって苦しいだけなんだよっ…」 まだ名前を呼ぼうとしたから、聞きたくなくて遮るように吠えたのに、結局最後は尻すぼみになって、震えて、泣いてるみたいになった。  俺はゆっくりとベンチから立ち上がって、告げた。 「だからもう、お前の友達ではいられない」 顔は見られないけれど、それでもしっかりと言葉を渡して、俺は踵を返した。康一の苦しそうに飲んだ息の音だけが聞こえた。  さよならだ。康一。俺の想いも、さよなら。  公園を出た後、俺は住宅地の静けさに耐え切れず、すぐに大通りに出た。足を延ばせばすぐ繁華街であるこの辺りは、大通りともなれば週末のこんな時間でも車も人通りも多い。さっきあんなにイラつかせてきた都会の喧騒に、今は少しほっとさせられている。現金なもんだ。  多くの人々が腕を組んだり、手を繋いだり、肩を触れ合わせて、繁華街の煌びやかな灯りに向かって歩いている。俺はそのすぐそばを歩いているはずなのに、なんだかすごく遠く感じる。どうやら俺は、無事にあの公園に心を置いてきたらしい。ははは、何も感じないならもう無敵じゃないか。  からからと無意味に笑っていながら歩いていたら現れた、電柱の防犯灯に照らされた自販機の中に、あの甘いコーヒーが陳列されて光っていた。認識した途端、胃からとてつもない不快感がせり上がってきて、俺は思わず電柱の足元に向かって嘔吐した。それはびちゃびちゃと歩道を汚して、スニーカーにも跳ねた。胃液の不快感に涙を流しながら、やっぱり俺は無敵なんかじゃなくて、ただ世界に見離されただけなんだと思い知る。  なんて最低な夜だと袖で口元を拭えば、さっきまるで同じ仕草をした康一の、知らないものを見るような瞳を思い出して、俺はまた吐いた。   (I Miss Us/ Kenny Loggins)

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