69 / 138
08
降り始めた雨は本降りとは程遠く、小走りに行けば彼女がバスに乗り込む停留所までは傘なしでも行けそうだ。
「結木。傘持ってる?」
「傘?」
行為の最中にしか下の名前を呼ばない俺に全く疑問を持っていない結木は首を傾 げて、
「折り畳み傘なら」
「貸して」
素直に俺に傘を差し出した。
朝、擦れ違った時に傘を持っていなかった泉。泉が置き傘や折り畳み傘を持っていると言うことは、あいつの性格を考えればまずないだろう。
なんとやらは風邪を引かないという諺 そのままに妙に健康なくせに、雨にだけは弱かったりする泉。机にうなだれた塩を掛けられた蛞蝓 のようにとけそうな泉に背後から近寄って、
「……ぶっ!」
頭上から泉の後頭部を軽く机に押し付けた。ごちんと物凄い音がしたところを見ると、恐らくはおでこを机に打ち付けたんだろう。
「……ふ」
(……低い鼻は打たなかったか)
そんな些細なことに和まされたが、
「……な、でっ!」
泉がこちらを振り返る前に、手にした傘で追い打ちを掛けた。手に残る久しぶりの泉の柔らかな髪の感覚に甘い疼 きを感じながら、手にした傘を置き去りにして出入口のドアへと向かう。
「お先に」
背中に泉の視線を感じながら教室を出た。瞬間、何か泉が叫んだような気がしたが、その声は俺たちには届かない。
「ねえ、壱人。傘持ってたっけ?」
「いや」
「うそ、それじゃどうすんのよ」
当然のように文句を言ってくる結木に送ってくと一言告げると、それ以上は何も言われなかった。
結木、ごめんちょっとだけ貸してくれ。校舎の玄関へと向かい、下駄箱から靴を取り出した瞬間、誰かに強く腕を引かれる。振り返ると眼下につむじが見えた。
激しく上下する肩と息遣いが、折り畳み傘を手に、膝に両手をついて荒い息を整えているつむじの主が走って来たことを物語る。
「差してけ」
「あ、でも。そしたらおまえらが」
「走るし、小降りだから」
そう言って着ていた制服のシャツを脱ぎ、脱いだシャツを結木の頭上に翳 した。
「おまえ、すぐに風邪をこじらせるだろ」
そう言い捨てると、つむじをポンと軽く叩いて外に出る。
ともだちにシェアしよう!