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泉は傘さえ差せば、風邪を引くことはないだろう。その傘が俺のじゃないのは一目見ただけでわかるはずで、それを見て泉がどう思うのかが少しだけ気になった。
いったん部屋へ向かって着替えを用意してから、風呂場へと向かう。出来るなら彼女に嫉妬して傘を差さずに帰って欲しいと思う邪 な思いと、泉の体調を気遣う思いが入り交じる。
浴槽に湯は張っていない。少し熱めのシャワーを頭から浴びながら、冷静さを取り戻そうと試みた。
降り始めた雨は案の定激しさを増し、時折雷鳴が入り混じる。風呂から上がってタオルで髪を乾かしながら、親父の部屋を覗いてみた。
「親父」
「ああ、壱人。帰ったのか」
返事が返ってくるも親父はこちらを振り向かず、机に向かったまま。ということは、調子良く執筆が進んでいるんだろう。
執筆すると言っても文字通りに原稿に筆を走らせるわけではなく、真昼だというのに天候もあって薄暗いなかにパソコン画面が浮き上がり、話している間もパチパチとキーを叩く音が止むことはない。
「なんか食う?」
「ああ。悪い」
電気をつけながら聞いてみたが、それに対しての反応はない。その集中力に完全に創作活動に入ってしまったことを知り、俺はそっと書斎を後にした。
親父は作家という仕事上、家にこもっていることが多い。外で働いているお袋とは違い、仕事をしていることも分かりづらい。
子供の頃はそれが嫌だった。普通の一般家庭の父親のように、毎日職場に出勤して欲しかった。それでも親父が好きだった俺は頻繁に親父の部屋を覗いて、そのたびに親父は今のように背中を向けたままで手も止めず、それでいて俺の問い掛けにはきっちり答えてくれていた。
親父はいつだったか、執筆中は周りの音が全く耳に入らないが家族の声は別だと言っていた。その言葉通り、今も昔も俺が問い掛ければ必ず返してくれる。
そして仕事のない時は不在がちなお袋に代わり、何かと俺の世話を焼いてくれる。掃除や洗濯、料理もおてのもので、子供の頃は母親の代わりに授業参観にも来てくれた。
その縛られない自由さに憧れて、自分も作家や漫画家になりたいと夢見た時期もある。そんな親父の口癖が『決して後悔はするな』で、親父は家督を放棄して作家の道を志し、三十を過ぎてようやく日の目を見た遅咲き作家だ。
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