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第1話
1.
あいつに声を掛けられたのは、会社の男子トイレでだった。
その日、俺のオフィスの階のトイレが配管トラブルとやらで使えなくなり、わざわざ違うフロアのトイレを使わなければならなくなったのだ。
俺は面倒臭いな、と思いつつ、一階上のフロアのトイレを使っていた。一階下のフロアのトイレを使っても良かったが、そうすると、用を足した後で階段を上らなくてはならない。それなら先に階段を上がって一階上のフロアに行って、用を足した後、階段を下りる方がいいと思ったのだ。
普段足を踏み入れることがないフロアのトイレは、なんだか気持ちが落ち着かない。俺は総務部所属で、普段あんまり社内の他の社員とやり取りがないから、余計だ。
俺は用を足して、手を洗っていた。なるべく周囲を見ないように手を洗うのに集中する。他の社員に何か話しかけられるのが嫌だったのだ。幸い、今このトイレ内には俺以外誰もいない。ホッと安心して気を緩めたその時だった。
「ねえ、きみ総務部の桜庭 くんだよね?」
突然耳元で声を掛けられて、俺は驚いてその場を飛び退く。誰もいないと思っていたので、油断していた。
――冷たっ……
水が跳ねて、シャツやスラックスに染みを作る。
――やばい……
「なに驚いてるの?」
視線を上げると、嫌味なぐらいハンサムな男が立っていた。
「……誰、あんた」
目の前の彼はものすごくびっくりした顔をして、その後眉を顰めると信じられない、と言いたげに口を開いた。
「俺のこと知らないの?」
「知るわけないだろ? なんで、社員全員の名前と顔知ってないといけないんだよ」
「いや……俺を知らないなんて、ちょっとビックリだなと思って」
「なんで?」
「だって、俺営業部の若手で一番成績良くて、イケメンで、社内で一番のモテ男って呼ばれてるんだけど」
「あ、そう」
俺は濡れてしまったシャツとスラックスの方が気になって、目の前の自称イケメン男の自慢話なんてどうでも良かった。
「……俺に興味ない?」
「興味? なんで? 全然ないけど」
俺の即答に彼はますます驚いた顔をした。
「……桜庭くん、俺みたいなのタイプだと思ってたんだけど」
ヤツは俺に顔を近づけてくるとそう言った。
――は? 何言ってるの、こいつ……
「男が好きなんだろ? おまえ」
――な、なに? なんなの……?
俺は瞬時に血の気が引くのを感じていた。
「……なに言ってるんだか……」
「さっぱり分からない? 嘘ばっかり。俺知ってるんだよ? おまえ、この間辞めた営業一課の宮本くんと付き合ってただろ?」
俺は目の前の変な男を見つめたまま、体が固まって動かなかった。
――どうして、こいつが知ってるの?
「……平気、この話は俺しか知らないから。桜庭くん、ばらされたくなかったら俺の言うこと聞いてくれる?」
「言うこと聞けって……それ、脅し?」
「脅し? まさか。俺そんな悪人に見える?」
あいつはニヤッと笑った。その顔は充分極悪人に見えた。
「まあいいや、とりあえず今日仕事終わったら飲みに行こう? いいだろ?」
「な、なんであんたと飲みに行かないといけないんだよ」
「行かなかったら、ばらしちゃうけど。……いいの?」
「くっそ……分かったよ。どこに飲みに行くんだよ」
「携帯に送るよ。番号教えて」
俺は渋々ジャケットのポケットから携帯を出した。あいつは憎たらしいぐらい余裕の態度で、俺の携帯番号を登録している。
「じゃ、後でね。桜庭くん」
「ちょ、ちょっと待てよ」
「なに? 今更行かないとか言わないよね?」
「違うよ。俺……おまえの名前知らないんだけど」
あいつは一瞬動きを止めた後、思い切り吹き出した。
「なに笑ってんだよ。名前ぐらい名乗るのが礼儀だろ?」
「いや……ごめん。本当に俺を知らないヤツが社内にいると思ってなかったからさ」
「だからさっきも言っただろ? 全社員の名前と顔なんて知らないっつーの」
「冗談かと思ってた」
「冗談なんか言うかよ、この状況で」
「俺は田崎。……田崎亘 だ。営業三課だよ」
あいつはそう言うと、トイレを先に出て言った。俺は濡れてしまったシャツとスラックスをペーパータオルで拭き取りながら、何でこのフロアのトイレに入っちゃったんだろ、と激しく後悔していた。
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