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プロローグ
気遣わしげな視線が鬱陶しかった。
ささくれだった心の内でだけ悪態を吐いたつもりだったのに、無意識に握り締めた左の拳を食卓に叩きつけていた。ガチャン、と耳障りな音が立つ。
しまった。ブラッドは、はっとした。案の定、窺い見れば正面のヤミールが杯を手にしたまま端整な顔を凍らせている。周囲の戦士たちの峻厳な視線が、ブラッドただひとりに集まった。
夕餉の時間、ヘリオサとそれに近しい腹心の戦士で食卓を囲むのは慣習だった。ヘリオサ・ヤミール、王としてはまだ未熟な彼を支える腹心であるブラッド、それからグラン、他三人の戦士たち。二年前に新たなヘリオサが誕生してから欠かさず毎晩繰り返してきたこの慣例を辞退する訳にはいかなかった。そうすればますます心配されるだけなのだ。だから沈黙の落ちる夕餉の時間がいくら息苦しくても、ブラッドはヘリオススの洞窟の中に足を運ばざるを得なかった。
ブラッドの発した言葉は共通語であったが、ヘリオサに対する不遜な発言を他の戦士は察したらしい。咎めるような鋭い視線が突き刺さり、ひとりの戦士は立ち上がろうとした。それをヤミールが片手で制する。ブラッドは鳥の油に濡れた手を拭う。人ひとり分空けて隣に腰を落ち着けるグランが、不安げな視線を寄越す。
「悪い。今のは良くなかった」
「……いいえ。私がブラッドフォードを見ていたのは事実です。不快な思いをさせてしまいました」
「……今日はもう、戻る」
気分が悪いのを隠すこともできなかった。憮然とした声で告げ立ち上がれば、ヤミールは薄い唇を引いて「おやすみなさい」と律儀に挨拶をする。ダイハンの王が、無礼を働いた戦士に対して気を遣うなんてもってのほかだと言いたくなる。元アステレルラとその僕という関係を知っていたとしても、ヤミールをヘリオサと認める他の戦士たちはブラッドの近頃の態度を許容しないだろう。現に、立ち去る背中には吹き曝しの敵意が突き刺さる。
自分の天幕へと帰ったブラッドは、火を灯すこともせず、暗がりのなか毛皮を敷き詰めた広い岩のベッドに身を沈めた。大の男がふたり横になってもまだ余裕がある大きさだ。
夜の挨拶をしてくれたヤミールに対して、「ああ」と冷たい相槌しか返さなかったことを思い出しブラッドは自己嫌悪に陥った。今日は駄目な日だった。自分を繕うことが下手すぎた。
八つ当たりだ。当たり散らすのはいけない。周囲の心配を集め、不安を与えてはならない。平常に戻らなければ、そう言い聞かせても、一日中、何をしていたって不意に喪失を突きつけられる。
うつ伏せに寝た毛皮の先を、自由な左の拳できつく握りしめた。その時、天幕の向こう側から控えめな声がかけられる。
「ブラッドフォード」
テノールの穏やかな男の声。短くくぐもった返事をすると、愛嬌のある顔立ちの戦士が、入り口の布を押し上げて入ってきた。彼はヘリオサの腹心の戦士の住処へ足を踏み入れることに何の遠慮も抱かない。まるで旧来の友人のような気安さで、ベッドに身を沈めたまま微動だにしないブラッドを見下げ、「疲れてる?」などと見当違いのことを口にする。いや、見当違いではないか。あえて明るい口調でそう話すのだ。
「疲れてねえ。用件は?」
「明日の狩りのことで。あー、エイリスが、ガンバスを獲りにいくのに一緒に連れて行って欲しいって」
「あいつまだガキだろ」
「十四だよ。狩りなら大丈夫。弓矢も上手くなったし」
「そうか。ならお前が面倒見てやれ」
相手の顔を見ないまま会話を続けていた。起き上がるのも億劫で、何ならこのまま寝落ちてもいいかと思った。だから、思いのほか相手がすぐ傍まで接近したことに気づかなかった。
さら、と短い頭髪を撫でられ、ブラッドは仕方なくベッド脇に膝を突く男に顔を向けた。きっと酷い顔をしている。
「やめろ」
「大丈夫?」
彼にその言葉をかけられたのは初めてだったが、明らかに無駄で無用な問いだった。そんなのは見ればわかるだろうし、ここ十数日の間、あらゆる者から向けられる憐憫の眼差しも同情の言葉も、ブラッドはすでに辟易していた。
「明日、狩り行く、やめる?」
片言の共通語が、休息を勧めてくる。
「……やめねえ。仕事は、する」
そうでなければ、ヘリオサの側近として示しがつかない。いくらブラッドが虚脱感に囚われていようが、苛立ちに飲まれていようが日常はやってくるのだ。自分のすべき務めを怠るべきではない。そう自身に言い聞かせて、ヤミールに求められれば彼に力を貸したし、ダイハンの村々への使いも果たしたし、明け方は狩りにも出た。すべてを振りきるべく。
「無理しない。ヘリオサ、心配してる」
「……わかってる、ガト。よくわかってる」
虚勢を張る度に自身を磨り減らしていると。温かな掌が白い頬を撫でた。その温もりが、一番欲しているものと異なることを再確認して、ブラッドは顔を背けた。
「ごめん。嫌だった?」
「お前も、もう寝ろ。明日の朝、エイリスを叩き起こさなきゃならねえだろ」
「そうかも」
ガトは白い歯を見せて笑って、勢いよく立ち上がった。おやすみ、とヤミールと同じように挨拶をして、ブラッドの天幕を出ていく。彼の足音が遠ざかっていく。
途端、自分の押し殺した呼気以外に音のない、静寂が戻ってくる。
閑寂とした夜を過ごすのにもすでに慣れてしまった自分に嫌気が差した。
こんな乾いた夜を迎えるのは、幾度目か。
一体、どうやって生きたらいいのだろうと、詮ないことを毎夜考える。行き場のないこの空虚な心を、どうやって昇華させたらいいのか。
日々の務めを終え、仲間と食卓を囲んで、住み処へと帰る。
そこに彼はいなかった。温もりも残っていない。
幻影すら見ない。左腕を精一杯に伸ばして指先を広げ、筋ばった指を曲げてみても、空虚を掴むだけだ。
手の中には何もなかった。何も、掴めない。掻き抱いた身体は、紛れもなく自分のものだ。
腕を抱いた左の指先が細かく震えていることに気づいて、「クソ」と悪態を吐いた。失望した。こんな他愛もない悲傷、いくらでも辛抱できた。自分はこんなに弱くはなかった筈だと、ブラッドは服の上から爪を立てる。
俺に虚しさを与えるお前が、心底憎い。
お前を、思うことすら許さないのか。
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