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責任

 皆殺しだ、と誰かが言った。口にしたのはひとりだったが、その場にいた戦士全員が、同じように思ったに違いない。  ヘリオスス、王の家である洞窟の中の一室に戦士たちは集結していた。王の腹心の五名と、その他にも七名。彼らの視線の先は同じ一点のみだった。燭台の炎に照らされた薄闇の中、わずかに湿った地面に座した彼らの中央、薄汚れた布切れの上に男の首が転がっていた。  骨と肉の見える断面は腐敗を始めており、風通しのない湿った洞窟の中に異臭を漂わせる。死んだ同胞の死の臭いに鼻を摘まむ者はいなかった。驚愕したように眼の縁を広げた男の白目は濁っている。交渉のため、ツチ族の陣営へと向かわせた使者のひとりだった。 「あの連中、生かしてはおけない」  獣が唸るように戦士のひとりが言った。皆殺しだ、と言った者だ。彼に同調するように、赤茶色の天井から冷たい雫が滴って地面に跳ねた。首を囲う戦士たちは、そうだ、やはり殺そう、今宵、いや今すぐにでもヘリオススを発って。洞窟に反響するほど声を荒げて憤怒を露にする。 「待って」  彼らの暴論に制止をかけたのは、彼らの王だった。ヘリオサ・ヤミール。この場にいる誰よりも虚弱な体格、峻厳な顔つきの戦士たちとは正反対の美しい顔立ち、耳障りのいい、少し高めの声。 「それは、駄目だ」  水底のように静かな声だったが、同胞の死を嘆くばかりではない、他の戦士たちと同様の憤りが滲んでいた。 「ならばどうするというんだ。また使者を送って、殺されていくのを黙って数えているつもりか。……そもそも連中相手に交渉するのが間違いだった、ヘリオサ」  その戦士の言葉に少々威圧的な声色を感じ取り、黙って聞いていたブラッドは眉間に険しい皺を寄せた。ダイハンで暮らしてもう長い。ダイハンの言葉は、時折聞き逃すこともあるが概ね理解できるようになっていた。 「奴らは話が通じる相手じゃないんだ。奪い、犯し、殺す。それが奴らのすべてだ。無駄に仲間を死なせるだけだとわかっていただろう」  話の通じない、獰猛な獣。かつてブラッドは、ダイハン族のこともそう認識していた。確かに粗暴で血の気が多い騎馬民族だが、それが彼らのすべてではないともう知っている。でなければ強さのみを認めるダイハンの戦士がヤミールを王に認めたりなどしないし、ダイハンに背くことになったブラッドを再び受け入れることもしないし、これまで敵対する部族との交渉を粘り強く続けたりなどしないだろう。  だから、彼らの中で燃え盛る皆殺しの意思を聞いて、ヤミールと同様、それだけは駄目だと思った。  ブラッドの祖国である北のアトレイア王国との戦が終結し、二年が経過した。ダイハン及び赤い大地に生きる民族すべてを滅亡せしめようとしたアトレイアに対し、半永久的な相互不干渉を条件にこちらの降伏を認めさせたのは、今考えても破格の好条件だった。  その後、ダイハンは決意を新たにし、負った傷を癒し、ヤミールを新たなヘリオサとして認めた。当然、他部族との交渉には時間を要した。不戦、互いの縄張りへの不可侵を誓い、あるいは物資の提供や交換。対する部族に応じ多様な条件のもと、中には酷く難航した件もあったが、腹心の戦士たちを中心に乾いた赤い大地中を奔走し、アトレイアを害さないという約束を取りつけることができた。  その間に奪われた命はいくつかあった。けれどこの先、アトレイアとの盟約を破ることで失ったであろう命の数を想像すれば――代償は軽い、とは決して言えないが、守られた命はある。  目下の問題は、長きに渡りダイハン族と敵対関係を築いてきたツチ族のみだ。アトレイアとの戦が終結した後から今まで、常にツチ族への警戒は怠らなかった。放浪する彼らの所在と行き先を探り、時には小競り合いが発生することもあったが、大きな戦闘には発展していない。 「殺されるのをわかっていたら使いを送ったりなどしない。同胞の死は、最も避けるべくこれまで行動してきた」  詰め寄る戦士に対し、ヤミールは憤然と言い放った。彼の赤い瞳にはかつてとは違う、強い輝きが宿っている。結果、仲間を死なせることになったとしても、彼はこの二年間、仲間の安全を第一に考えてきた。そのことを、ブラッドも他の戦士たちも知っている。  ツチ族とは、殺し、殺されてきた。その関係を変えようとするのは、限りなく困難だ。例えば彼らと和平を結ぶよりも、先に戦士が皆殺しだと言ったように、彼らそのものを乾いた赤い大地から消してしまった方が楽かもしれない。けれど。 「ブラッドフォードがアトレイアと不戦を約束し、国境を侵さないことを誓ったのは、ダイハンの民を守るためだ。そしてダイハンの皆の命を守るために、この二年間、皆で辛抱してきた。ここでまたツチ族との戦いの火蓋が切られたら、戦闘は苛烈を極め、人死には今まで以上に出るだろう。それこそ、使者ひとりでは済まない。それでは本末転倒だ。ここで諦めてしまったら、何のために二年間、私たちは奔走した?」  ヤミールは鋭い剣幕で言いきった。自分は臆病だと嘆いていたかつての青年の影はどこにも見えなかった。ヘリオサに楯突いた戦士は一瞬、怯む。 「なら……どう責任を取るつもりだ。死なせるつもりはなかったのなら、こいつが首ひとつで帰ってきたのは、間違った決断をしたヘリオサの責任だ」 「そうだ。私の責任だ。だから私が直接、ツチ族のもとへ赴く」  ブラッドはぎょっとして青年を凝視した。軽々しく言ってくれる。他の戦士たちも、この中で最も座高の低いヤミールを、窺うように上目に見ていた。  それは、危険すぎる。責任を負う行為にしては、あまりにもリスクがありすぎる。ブラッドは割って入ろうと、胡座を掻いた膝に置いた左手を握り締め、口を開く。 「責任の所在を問う時じゃない」  低く、張りのある声。ブラッドのものではない。ブラッドの隣に座る男のものだった。 「今は誰も冷静じゃない。……先に死んだ同胞を弔おう」  ヤミールの、自然と強張った顔から力が抜けていくように思えた。戦士の男は、鼻を鳴らし、立ち上がって背を向ける。  ブラッドは肺に澱んだ息を吐き出した。例えば彼、クバルがヘリオサであった頃なら、有無を言わさず敵陣に乗り込んで行っただろうが――時を経て、クバルも、もちろんブラッドも、慎みというものをいくらかは覚えた。簡単に自分の命を危険に晒す真似はしないようになった筈だし、ヤミールにも同じことをさせたくはなかったのだ。  結局、その場はお開きになり、戦士たちは死んだ同胞の首を携えてヘリオススの外れへと行った。そこで男の唯一残った身体の一部を焼き、生まれ変わって再び命を得ることができるよう、黒い煙が太陽へ昇っていくのを静かに見守ったのだった。

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