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ヘリオサ・ヤミール

 青年はヘリオススの西にある「いつもの場所」にいた。赤茶の大地の上に屈み背中を丸めた後ろ姿を認めたブラッドは、煤けた白色の愛馬から降りてゆっくりとヤミールに近づいた。  地平線ぎりぎりまで落ちた夕日が、赤い大地をさらに濃厚な色に染め上げている。自身の短い金の頭髪までも赤く染める強烈な光に、ブラッドはつり上がった切れ長の目を眇めた。  視線を遠くへとやれば、自身の卑小さを思い知らされるような、茫漠とした大地が果てまで続いている。どこまで行ってもひび割れた大地しかないのだろう。  ここには、小さな岩がひとつ、立っている。周辺の大地から突き出た巨岩より遥かに小さく、ファルカタよりも丈の短い、細長い赤い岩だ。  ヤミールはその小さな岩の前にしゃがみ俯いていたが、砂を擦る足音と馬蹄の音を聞いて、悠然と立ち上がった。砂塵を浚った乾いた風が、ヤミールの艶やかな黒髪を揺らしている。 「カミールに何を話していた?」 「同胞がひとり、死んでしまったと……。本当はそんな話、せずに済むといいですが」    手綱を引きながらヤミールの隣に立ったブラッドは、足元の小さな岩を見下ろした。手頃な大きなのものを探して拾ってきただけだから、歪な形をしている。  ここは墓所だ。ヤミールの双子の妹、ただひとりのための墓所。  他に墓石は立っていない。そして、唯一の墓石の下に、彼女が眠っている訳でもなかった。  死んだ同胞は炎で燃やし、煙となって天高くまで昇っていく。魂は太陽の加護のもとで再生され、新しい命を得て再び大地へ生まれる。弔いの炎は故人の骨をすべて燃やし尽くす。それは、生まれ変わった魂が誤ってもとの傷ついた身体に戻ってしまわないようにするだめだ。カミールの身体も、骨の一片すら残さず焼き尽くした。  ブラッドを庇いユリアーンによって殺されたカミールを、すぐに葬送することはできなかった。記憶にこびりついて離れない豪雨の日、温度を失った彼女の身体を雨の当たらない場所に移動させ、布にくるんだ。一緒にヘリオススへ帰るまで、幾日待たせてしまったか。戦が終わり、ヘリオススへ帰還して、ヤミールはすぐに妹を焼いた。生憎、ブラッドはベッドから起き上がれる状態ではなかったため、すべてヤミールに任せてしまったが、墓を立てようと提案したのはブラッドだった。  そもそもダイハンには、墓を作るという文化がない。なぜ作るのかと問うたヤミールに、ブラッドは遺された者のためだと答えた。死んだ者を思えるように、思い出せるように、気持ちの置き場が必要だった。  それらしい岩を見繕ってヘリオススの西に立てると、まるでそこにカミールが眠っているような気がした。本当は、太陽のもとで傷を癒している最中なのだろう。以来、ヤミールとブラッドは定期的に彼女の墓所を訪れる。クバルやグランも一緒に来ることある。特別花を手向ける訳でもない、彼女の前で他愛もない会話をして、時折話しかけるだけだ。 「話すなら、いい報告にしろ」  ヤミールは端整な顔を苦笑に染めた。彼も、初めて会った頃に比べると笑うようになった。アステレルラの僕をしていた彼は、故意に感情を押さえ込み、何を考えているのかわからない時があった。 「けれど、よい報告などありません」 「いくらでもあるだろ。お前はよくやってる」  よくやってる、なんてヘリオサに対する評価にしては上から目線すぎる。けれど、今さらヤミールに対する言葉遣いを改めるのは何だか不自然な気がしていたし、ヤミール自身も望んではいなかった。ヤミールは未だに、一介の腹心の戦士であるブラッドと話す時には共通語を使用し、丁寧な言葉遣いを崩さない。 「この二年でダイハンは変わった。他部族との争いは激減し、戦いの中で命を落とす戦士の数は減った」 「ダイハンの馬や家畜、ヘリオススの水を渡して友好関係を保っているのを、馴れ合いだとか、奴隷だとか言う者もいます」 「立派な取引だ。ダイハンが搾取されている訳じゃない」 「ですが、今まで敵だった者たちと、そうして手を取り合うことに抵抗を示している戦士は、昼間の彼だけではありません。とりわけ、今回のツチ族との交渉に関しては」  昼間集まった際の戦士の言葉を思い、ヤミールは視線を伏せ、小さな赤い岩を見下ろした。道に迷い、助けを求めているように見えた。 「私は、何を選択すればいいのでしょう」  途方に暮れる彼の肩は、ダイハンのどの戦士よりも細く頼りない。昼間、泰然とした態度を崩さなかったヘリオサの姿は今はなく、妹の墓の前に立っているのはダイハンの命運を背負い押し潰されそうな自重に必死にたえる若い青年だった。 「確かにツチ族は、これまで相手にしていた者たちよりも遥かに手強く、一筋縄ではいきません。ですが、交渉を諦めて武力に頼ってしまったら、今まで順調に積み上げてきたものを壊してしまう。多くの戦士の命が奪われてしまう。かつての私やカミールのように、民たちは危険な目に遭ってしまう」 「和解か……戦いか」  二年前、ツチ族との争いで失ったものを思う。存亡をかけたアトレイアとの戦で散った命を思う。その儚さをヤミールは知っている。ヤミールも、ブラッドもクバルも死にかけた。 「……どうすべきか、自分でわかってるんだろう。ヘリオサ・ヤミール」    低く静穏な囁きに、青年は顔を上げる。不安そうに、自分の両手を身体の前で硬く握り込んでいる。  自分の判断が正しいものなのか確証を持てないヤミールは、縋るようにブラッドの精悍な横顔を見つめる。 「わかっていながら……迷ってしまう。私は、不甲斐ない王です」 「自分の選択に自信を持て。自分のした選択が唯一の正解だと信じろ」 「ヘリオサ・クバルだったら、迷わずに判断し、抗う戦士たちも従わせることができたのでしょうか」  ヤミールの口から出たかつてのヘリオサの名に、どきりとした。昼間、一瞬でも、クバルがヘリオサだった頃なら、などと考えた自分を嫌悪した。湧き上がった罪悪感に目を瞑り、ブラッドは馬の手綱を握る左手に力を込め、ヤミールを正面から見つめた。 「クバルと自分を比べるな。あいつとお前は、違う。ヘリオサとして同じ場所を目指す必要はない」  たった一度を除き、迷いのなかったヘリオサ・クバル。豪胆で、敵も味方も容赦せず、時に冷酷で、立ち竦むことはなかった。ダイハンの民を守るためだけに、長い間戦ってきた。  ヤミールも、ダイハンの民を守るために、戦わないことを選択しようとしている。 「俺はお前の決断を支える。もちろん、クバルもそうだ」 「……感謝します。ブラッドフォード」  かつての優れた王に対する劣等感はやはり容易に消えるものではないのか、ヤミールは曖昧で強張った笑みを浮かべた。

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