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第10話 初めての朝⑥

「陛下は八つの時に前女王陛下を不慮の事故で亡くされ、即位された。その頃に同世代だった僕が側仕えとしてここに連れてこられたのだが、既にもう陛下はあまり感情を露わにされる方ではなかった。ただ一度だけとても激昂される事件があったのだ」  耳を後ろに倒し、口を閉じる。その頃のことを思い出して緊張しているのだろうか。 「その日、僕が躓いた拍子に淹れたばかりの紅茶が入ったポットを落として割ってしまったことがあった。当日幼い僕は見習いだったから、成体の犬族の先輩と一緒に仕事をしていた。先輩は大層怒って陛下の前で僕の顔を拳で殴り付け、僕に謝れと土下座させた。陛下は男に『お前も跪け』と冷たく言い放つと、片膝をついた男の頬を掌で叩き、『私がお前よりも背が高ければ、お前がやったのと同じことができたかと思うと口惜しい』と、そう仰られた」  下向きになった尻尾が小刻みに揺れる。アルが自分を守ってくれたことを嬉しいと思う感情が漏れ出している。 「しかし、男は逆上して陛下の胸倉を掴み、床に引き倒して首を絞め始めた。『毒で殺すつもりだったが、直接俺が地獄に送ってやる!』と。すぐに紅茶には毒が入っていたのだと分かった。そして更に男は言った。『誰も姿も知らないお前を王だなんて思っていない! 誰もお前を必要としていない! お前は要らない!』と。陛下はその言葉を聞いて抵抗するのをやめた。その時の哀しそうで寂しそうな、総てを諦めたような表情を今でも時々思い出す」  幼いアルは親を亡くしたばかりで、毒を盛られ首を絞められるという恐ろしい体験をしたのだ。彼の他人を寄せ付けない雰囲気は、そういった体験のせいなのだろう。 「だが、その後のことはよく覚えていない。気付いたら、辺りは血だらけで、陛下が僕の身体を抱き締めていた。そしてその時初めて自分が獣化していることに気付いたのだ」 「じゃあスウードはアルを殺そうとする男に怒って獣化したのが最初なんだね」  「そうだ」と俺の方を見て瞬きをする。今はこうやって話ができるところを見ると、力のコントロールができているのだろう。 「その男は……どうなったの?」 「男は手足から血を流して逃げているところを捕まり、その後死刑になったと聞いた。王政転覆を狙う者達が前王の夭折で動いたという話だった。陛下はそれ以来僕以外の者を一切近寄らせず、そしてより頑なになられた。僕との会話も必要最低限になり、年を重ねるごとに気高くなられ、今ではもう誰も近付けないほどだ」  きっと、自分を守るためだろう。いつ毒を飲まされるか、殺そうとするやつが出て来るか分からない。だったら、初めから誰も近づけさせないで、独りで居ようとする。そして、王である自分の誇りを守っているのだ。  俺が、母さんの言いつけを守ってきたのは母さんのことを信じたかったからだ。そして母さんのことを忘れたくなかった。俺もアルもそれぞれ違うけど、守りたいものがあって、それゆえに孤独になったのだ。 「しかし、ロポ。君は陛下にとって特別な存在だ。番候補だからかもしれないが、それでも僕以外が近くに居ても平気だなんて今までにないことなんだ」 「うーん……その番って一体──」  スウードが突然地面に伏せる姿勢を取る。背後に気配を感じて振り返ると、金色の眼が俺を見下ろしていて、思わず息を呑んだ。 「急ぐのではなかったのか」 「申し訳ございませんっ! では、行って参ります……!」  スウードが走り出すと猛烈な速さで、すぐに姿が見えなくなってしまった。 「行っちゃったね」  振り返ると、アルは俺を一瞥して踵を返し階段を上り始める。俺は扉を閉めて慌てて追い掛けた。 「えっ、なんか怒ってる? なんでっ?」  無言で階段を上るアルに追い付き隣を歩くが、足が速くてずっと駆け上がっているような感じになって息が上がる。 「ねえ、なんで? 勝手にスウードに話聞いたから? 悪かったってば!」 「……怒ってなどいない」 「えーっ嘘だ! その言い方は怒ってるじゃん!」  流石にずっと追い掛ける体力はなく、途中でバテて立ち止まる。 「もう疲れたぁ……背負ってってよー!」 「何故私がお前を背負うんだ」  先をいっていたアルが立ち止まり、階段に座り込む俺を振り返った。 「スウードは背負ってやるって言ってくれたのにっ!」  耳がぴくりと動いた、かと思うと、再び俺を置いて階段を上っていってしまった。  置き去りにされて、階下を見下ろすと扉が見えた。扉には鍵は掛かっていない。  逃げようと思えばいつでも逃げられる。逃げ出しても、アルは俺を追わないだろう。元の生活には戻れるとは思えないけど。  ──ついて行くかその者を見極めて決めなさい。 「アル! 待ってよっ!」  俺はアルの背中を追い掛けて階段を上った。母さんの言うように、まだアルのことを知らない。知らないうちに逃げ出そうなんて考えるべきじゃない。  それに、俺はアルの孤独を知ってしまった。森の中で結果的に独りで暮らすことになった俺とは違う、独りを選んだ孤独だ。  親を亡くし、孤独を知っているという共通点があるからか、俺はアルのことを知りたいと思った。アルが、何を考え何を思い、この塔で孤独を生きてきたのかを。 「俺アルより背が低いんだから合わせてよ!」  服の袖を掴むと、金色の目が俺を見詰めた。しばらく見詰め合った後、アルがゆっくりと階段を上り始めた。  譲歩してくれたこととこれで無駄に疲れずに済むということが嬉しくて、少し弾みながら階段を上った。

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