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ゆっくり此方へ近づいてくる律仁さん。
途中ですぐ隣にいた花井さんに目線を向けては人差し指を自身の口許に持ってきて、一の字に広げると「君、俺がここに来たこと誰にも絶対、言わないでね?」と口封じをしていた。
花井さんは背筋を正して頬を赤く染めながらも「はい」と返事をする。
誰だって律が自分に向けて喋ってくれたら嬉しいに決まってる。
明らかな営業用の笑顔だと分かっていても
渉太は少し羨ましくもあり、そんなに感情すら抱く権利などないのだと戒めては複雑な心境だった。
律は自分のものでも誰のものでもないのに、その花井さんに向けている笑顔も律仁さんだと思うと嫉妬心が渦を巻いた。
こういう時に出てきてしまう独占的な心が浅ましい。
「渉太…レジ頼んでもいいかな?」
花井さんに意識を向けていると、律仁さんはいつの間にか目の前まで来ていて、渉太は咄嗟に顔を俯かせた。
律仁さんが自分に会いに来た…。
嬉しいけど…嬉しくない……。
真面に律仁さんの顔を見てしまったら、きっと気持ちが溢れてくる。律仁さんの自分の名前を呼ぶ声を聴くだけでも平常心を保つのに精一杯だった。
渉太は無言で頷くとモップを近くに立て掛けてはレジへと向かう。
グラタンとペットボトルの飲みものがカウンターに置かれては、向かいの律仁さんに「タバコもお願いできる?」と言われて37番の煙草を手に取るとひとつひとつバーコードを読み取っていった。
何時ものお客さんと同じように淡々と接客すればいい……。
そう自己暗示をすればする程に律仁さんの視線を意識しては、渉太のハンドスキャナーを持つ手が震えていた。
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