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一
職場に、仕事のできる先輩がいる。
歳を聞いたことはないが、三十代後半から四十代前半くらいの落ち着いた雰囲気の人だ。
自分の仕事を勤務時間内にこなすだけではなく、他の社員にうまく仕事を割り振り、後輩の失敗もカバー。的確なフォローと立ち回りに、社内からの信頼も厚い。
もちろん俺もそんな彼に憧れ、尊敬すべき先輩として好意を抱いていた。
ただし、彼の私生活に関してはまったくといっていいほど謎で、さらに親交を深めたくても、うまく立ち入れずにいた。
箱井という名のその先輩は、基本的に定時までに仕事を終わらせ、そそくさと家に帰っていく。その背中はどこかソワソワとしていて、勤務中の彼とは少し違った雰囲気だった。
やたらと飲みに行きたがる上司よりはマシなのだが、これほどすごい人となると、少しくらいは自分から歩み寄ってみたくなる。たまには食事に誘いたくもなるのだが、俺はずっと誘えずにいたのだった。
ある日の昼、社屋の空調点検があるために外で昼食をとることになった。俺はここぞとばかりに箱井さんを捕まえて近所のカフェへと誘う。
箱井さんは嫌な顔一つせず、俺の誘いに乗ってくれた。
一通り昼食を終えた後、彼はいつも通りの落ち着いた彫りの深い表情に穏やかな笑みをたたえて、パスタランチについてきたコーヒーをすすっている。
「あの、箱井さん、ありがとうございました。嬉しいです、こうして一緒に昼飯が食えて」
「はは……大袈裟だな。食事くらいいつでも行くよ」
「いいんですか? じゃあ、今度夕飯はどうでしょう? 箱井さん、いつも急いでお帰りになりますよね? だから、その……ご家族と食事をされたいのだと、遠慮してしまって」
そう返すと、彼は整った凛々しい眉を少し歪めて、にっこり笑って俺を見た。
「家族は……いないんだけど、実はうちに可愛い猫がいてね」
「ねこ……?」
「そう。猫を飼っているんだよ。猫が家族。早く帰って、ご飯を食べさせたくてね」
「へえ……いいですね。俺も猫、好きですよ」
箱井さんの表情がどんどん緩んでいく。本当に飼っている猫が可愛いくてしかたがないらしい。
「黒猫のオスでね、甘えん坊なんだ。可愛いよ」
「甘えん坊ですか」
「うん。まだまだ仔猫のようでね。どれだけあげてもミルクを欲しがって擦り寄ってくるんだ」
それからというもの、俺は時々箱井さんの飼い猫談義に付き合うようになった。
猫の名前は「クロ」。艶やかな黒い毛並みが美しく、しなやかな体躯で家中を動き回り、箱井さんの家の主をしているそうだ。仔猫と聞いていたので最近飼い始めたのだと勝手に思っていたのだが、よくよく聞いてみると、ずいぶん長く……少なくとも二〜三年は飼っているようだった。
「やっぱり、ちゅ〜るとか猫缶が好きなんですか?」
「どうだろうね。毎回私が手作りしたものをあげているから……」
「手作り? 猫の餌って作れるんですか?」
「もちろん。同じ生き物だからね。塩分や猫が食べてはいけないものに気をつければ大抵のものはいけるよ。肉や野菜を柔らかく茹でたりすりつぶしたりしてあげるんだ。そうすると不足しがちな水分や繊維質も補える」
「ほお……。面倒くさくないですか?」
箱井さんは独身で、猫一匹と暮らしている。
同じ独身の俺なんて、自分のための家事すら面倒で毎日のようにコンビニ弁当で済ませているものだが。
箱井さん家のクロ、羨ましいな。
「面倒……。考えたこともないな。クロが可愛くて、彼が喜んでくれるならそれでいいんだけど……。そういえば、うちの子はね、人間の言葉がわかるし、話せるんだよ」
「へ? あ……たまにテレビやネットで見ますね」
猫が『ごはん』や『おかえり』と人語のように聞こえる鳴き声をあげているのはたまに見る。
「うん。昨日なんてね『ラーメンが食べたい』なんていうんだよ」
「は?」
思っていた以上に鮮明な人語が返ってきて、俺は耳を疑った。
疑念が顔に出ていたのか、箱井さんが苦笑する。
「変だよねえ。猫にラーメンなんてあげたら大変だ。塩分過多で死んでしまう」
「はは……本当にそう言ったんですか? 一言一句相違なく?」
「そうだよ。うちの子はお利口さんでね」
クロは、かなり頭の良い猫だそうで、まるで人間の家族のように箱井さんの話し相手になっているらしい。
(クロはね、私のことをおじさんと呼ぶんだ。おじさん、ご飯まだ? おじさん、背中撫でて。おじさん、誰の匂いしみつけてきてんの?)
箱井さんの話を聞いていると、猫らしい小生意気な視線で箱井さんを見据える黒猫の姿が目に浮かぶ。
(私の足元で食事をしながら、クロは私を見上げてくるんだよ。そうしていろいろと話しかけてくる。今日は何を見た? 何があった? 明日は家にいるか? 次は何が食べたいか……)
そして食事を終えたクロは、満足そうに毛繕いをしつつ、箱井さんの傍へ小悪魔のように擦り寄り、撫でてくれとおねだりをする。
(クロは艶やかな毛を私に擦りつけて、撫でてくれと甘えるんだ。その様がなんとも愛おしくてつい甘やかしてしまう。仔猫だった頃の癖が抜けなくてね。私の下腹をまさぐって、もっとミルクが欲しいとせがむんだ。困ったものだよ……)
箱井さんは本当に飼い猫が可愛くてしょうがないのだと、俺は笑って聞き流した。
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