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二
箱井さんと少し距離が近づいてから数ヶ月が経った、ある蒸し暑い夏の日。俺は箱井さんから「たっての願いがある」とのことで呼び出された。
昼の休憩時間に、いつもの喫茶店でランチを前に座っているだけなのだが、箱井さんの表情は硬い。
「箱井さん、何か俺に頼みごとでも?」
そう切り出すと、彼は何かを言いづらそうに口ごもった。俺と目が合うと口の端を歪めて苦笑いを浮かべ、こめかみに落ちてきていた前髪を指で掻き上げて耳にかける。
普段の勤務時には見せない表情に、俺は「この人も、こんな顔をするのか」と少しだけ得をした気分になる。
仕事では見せない彼の表情を知っているのは、きっと俺だけに違いない。だから、俺は彼の「たっての願い」をできれば叶えたいと思っていた。
俺が彼の仕草を食い入るように見つめていると、彼はその視線に気づき、照れているのかほのかに頬を染めて、スーツの内ポケットへ手を伸ばす。
しばらくポケットの中を探ると、彼はその手に何かを握ってテーブルの上に差し出した。
鍵だ。大きさからして、どこかの家のものだ。
「こんなことを……蓮見くんに頼んで良いのかわからないのだけれど、今度出張に行かなくてはならなくなってね……。その間、うちの猫の世話を見てもらえないだろうか?」
「世話……ですか。いいですけど、それは?」
俺はテーブルの上に置かれた鍵を指差す。
「これはうちの鍵だよ。クロは家から出たがらなくてね。私がいない一晩だけ、うちに来て面倒を見てもらえないだろうか?」
なるほど。外に出せないとなると、世話する方が家へ行った方が話は早い。
「俺が断ったらどうする気なんです?」
「ペットホテルにも預けられないし、他に頼める人もいないからね。二日分の水と食事を用意して出張に行くよ」
うちの子は賢いからねと言って彼は笑った。
「わかりました。一晩だけお世話に行きますよ」
「本当かい? 助かるよ。ありがとう」
箱井さんは安心したように表情を緩める。
俺は、彼が家の鍵を預けるほど俺を信用してくれているのが嬉しかった。
それだけではない。他に頼める人がいないと言っていたのも、俺の自尊心をくすぐる。
「クロに会えるのが楽しみだなあ。そういえば、いつも話は伺いますけど、どんな子か見せてもらったことはないですよね。写真とかないんですか?」
箱井さんは優雅に食後の紅茶をすすっていた。
「写真、撮ったことないなあ。若い子はみんなスマホでなんでも撮ってネットにあげているよね。私はそういうことをやっていないから……」
自虐的に笑う彼も新鮮で心をくすぐる。
「今度撮ってみようかな……」
彼はスマホの画面をちらっと覗き、俺を見た。
箱井さんの部屋で甘えん坊の黒猫に会えるのが楽しみで仕方がない。
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