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第1話

1. ――初めて彼に出会ったのは、春まだ浅いとある日のことだった。決して二度とは忘れられないその日はまた、自分の新部署での勤務初日でもあった。  冬の間は八時半を過ぎてようやく寝坊助の太陽が昇ってくるようなロンドンだが、もうこの時期になると七時過ぎには、だいぶ明るくなるようになってきた。ここまで来ると待ちかねていた春という季節がやって来るのも、もう間もなくだと実感出来る。  緯度が高い英国では冬の間、午後三時過ぎには日が暮れて、朝日は八時半過ぎまで上がってこない。そして曇天の日が続き、蒼い空を見るのはまれだ。  人々が春を恋しく思い、待ちかねるのも当然のことだった。  リチャード・ジョーンズ警部補は、この日も規則正しく目覚ましのベルで起きると、身支度を手早く整えてフラットを出た。いつものようにバス停の手前にあるカフェに立ち寄り、カフェラテをテイクアウェイで購入する。  カフェの顔なじみの女性店員が「今日は何かいいことでもあるんですか?」と尋ねてきた。 「どうして?」と、リチャードは聞き返す。  女性店員はにっこりと笑って答えた。 「いつもよりも表情が明るいですよ」 「今日から別部署に異動になるんだ。そのせいかな」 「希望されてたところに異動ですか? それは良かったですね」  女性店員はラテの入った紙カップをリチャードの前に置くと、代金を受け取りそう言った。 「ありがとう」  手短に会話を終えて店を出る。すでに彼の後ろには数人の列が出来ていた。朝のこの時間帯は、出勤時にテイクアウェイでコーヒーを買う客が多い。リチャードはあまり無駄な会話をして、他の客を待たせたくなかった。 ――いや、別に希望してた部署に異動って訳でもないんだけどね……  リチャードは心の中でそう言う。  通勤客で混み合うバス停でコーヒーを飲みながら、自分が乗るバスが来るのを待つ。バスはいつも大体同じ時刻にやって来るが、交通状況で変わることもあるので、リチャードは余裕を持ってフラットを出るようにしていた。  バス停には電光表示板が設置されていて、あと何分でどの路線のバスがやって来るのか分かるようになっていた。リチャードがチェックすると、自分が乗るバスはもう間もなく来ることになっている。  コーヒーを飲み終えると、紙カップをゴミ箱に捨てて、ジャケットのポケットからカードを取り出す。  ロンドン市内はバス、地下鉄、水上バス、電車など全て一枚のICカードで乗降出来るようになっている。  カードを取り出すのと同時に、ロンドン名物の赤い二階建てバスがバス停に滑り込んできた。リチャードの前に立っていた数人が乗り込み、彼も後に続く。  一階部分はすでに満席だったので、階段を昇って二階部分へ上がった。  二階の一番正面席が空いていたのでそこへ座る。彼はこの席が好きだった。大きな窓の向こう側に広がるロンドンの街並みを眺めていると、自分がまるで映画のワンシーンの中にいる登場人物のように感じられる。  いつもこの風景を見ると、初めて田舎からロンドンに出てきた日のことを思い出す。映画やテレビの中でしか知らなかった場所に、自分がいると思っただけでわくわくと胸がときめいた。  いつしかこの風景に見慣れてときめきも薄れてきたが、それでもたまにその頃のことをふと思い返して、懐かしくなることがある。  この時もそんな風に感じていた。  多分、異動して新しい部署への初出勤の日だったから、余計にそう感じていたのだろう。  バスは時折渋滞に引っ掛かって徐行しながらも、ロンドン市内を進んでいく。窓の外はどんよりと曇っていて、この時期特有の空模様だ。  リチャードは目の前に広がるロンドンの街並みを見ながら、これから自分が行く新しい部署について思いを巡らせていた。  彼が勤務しているロンドン警視庁内では、内部異動は特に珍しいことではない。自分が希望することもあれば、上役からの意向で異動させられることもある。  今回の人事異動は自分が希望したものではなかった。  リチャードが以前配属されていたのは、特別犯罪捜査部と呼ばれる凶悪犯罪を捜査する部署であった。だが五年前の配属当初より上司との折り合いが悪く、長年我慢し続けてきたのだが、十日前にとうとう本気でやり合ってしまった。  その翌日すぐに異動の通達がリチャードに出された。考えられる理由は一つしかなかった。  そもそもリチャードが上司と折り合いが悪かったのは、彼のせいではなかった。  リチャードはすらりと背が高く、知的な甘いマスクとアイスブルーの瞳、明るい金髪をいつもきちんと撫で付け、三つ揃いのスーツを嫌みなく着こなすような美丈夫だった。まるでモデルのような容姿に、上司や周囲の同僚から嫌味を投げかけられることも少なくなかった。配属当時はよく面と向かって「お前みたいな優男に警察官なんて合わない」と言われることもあった。  そして容姿だけではなく、彼のオックスフォード大学卒という肩書きすら、周囲の人間たちの目の敵となった。リチャードは大学で法律を学び、卒業後は法曹界入りを期待されていた。だが彼が選んだのは警察学校への入校だった。大学在学中に彼の進路を変更させるような気持ちの変化があったのだ。リチャードは警察学校も優秀な成績で卒業し、希望していたロンドン警視庁へ入庁することが出来た。自分の望んだ道を進むことが出来ている、そう思い彼はどんな陰口や陰湿な言葉にも耐えて、まともに取り合うことはしなかった。そして着々と実績を積み重ね、昇進試験を受けて、気付けば周囲の同僚たちをあっと言う間に追い越して警部補にまで昇進していたのだ。  そんな彼の様子が気に入らなかったのか、何かにつけ上司はリチャードにきつい言葉を投げかけてきた。リチャードはなるべくまともに受け取らないようにしていたが、彼は彼で上司のやり方に反発心をずっと覚えていた。上司は黒いものを黒と言わずに灰色のように扱い、目の前で犯罪を見逃すことすらあった。確かに証拠不十分な時もあったが、大抵はもう少し捜査をすれば決定的な証拠が手に入るのに、その手前で手を引いてしまうことが多かった。それまではそんな上司に面と向かって反抗したことは一度もなかったが、十日前の朝、リチャードはとうとう今までの鬱憤を爆発させてしまったのだ。  それというのも、数ヶ月間に渡ってリチャードが捜査していた事件を、突然上司は幕を引け、と言ってきたのだ。あと少しで立件まで持って行ける、というところまで来ていただけに、リチャードは驚いた。どうやら背後に大物が絡んでおり、上から圧力がかかったようだった。  そんな上司に対してリチャードが「幕引きは出来ない」と反論したところ、上司は彼を馬鹿にしたような口調で「正義の味方を気取るな」と言い放ったのだ。  リチャードは悔しくてその晩は眠ることが出来なかった。  そしてその翌日に、特別犯罪捜査部からの異動を申し渡されたのだった。

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