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第1話
―プロローグ―
雨の音が聞こえる。
絶え間なくしとしとと降り続く雨。僕は目を開けて周囲を見回した。いつもの僕とマミィのベッドルーム。それほど広くはない質素で古くさい印象の部屋の中は、がらんとして家具はほとんどない。古いワードローブと、座面が色褪せた椅子が一脚あるだけ。視線を上げると、天井からは時代遅れの布で出来たランプシェードが下がっている。僕はゆっくりと顔を横に向けると不安になった。隣で寝ている筈のマミィの姿がない。
「マミィ?」
僕はブランケットの下からもぞもぞと抜け出すと、ベッドを降りて部屋を出る。階段を途中まで降りた時に、人の声が階下からしているのに気が付いた。
「……本当にすまない。きみが生活に困らないだけのお金はせめて援助させて欲しい。やっとの思いできみを見つけ出したんだ。頼むから僕の気持ちを受け入れてくれ」
「でも私に関わったのがばれたら、きっとまたあなたが傷つけられるわ。私にはそれが耐えられないの。だからあなたの元を離れたのよ? それなのに、そんな事をしたらまた同じ繰り返しになるわ。……いいの、生活は私が働いて何とかなるから。もしも私を本当に思ってくれるのなら、あの子を援助してやって。あの子が将来立派に独り立ち出来るまで助けてあげて欲しいの。でも、あなたの存在を表だってあの子には知られたくない。それに、もしもあの人に気付かれて……あの子の邪魔をするような真似をされたら……私は、今度こそ許せないから」
マミィの訴えるような悲しげな声が、部屋に響いていた。
雨の音……
その音と重なるように、聞き覚えのない男性の声が話を続ける。
「……分かった。きみの言う通りにしよう。あの子は任せてくれ。それから、きみ自身も僕の力が必要になったら、いつでも必ず連絡をするように。それくらいは僕だって秘密裡に動けるからね。忘れては駄目だよ」
とても優しい声だった。まるで囁くようなその甘い声は、どこか懐かしく感じる。僕には話している内容はよく理解出来なかったけれど、彼の言葉の中に出てくる”あの子”が自分を指しているのは何故か分かった。
僕は、そっとドアの隙間から部屋の中を覗く。いけない事をしているとは分かっていた。マミィからいつも、大人の話を盗み聞きするような真似はしてはいけない、と厳しく言われていた。大人には大人の話があるのだから、子供が首を突っ込んではいけない、と。
だけど、僕は我慢出来なかった。
いつもなら、マミィの言いつけを守って諦めていただろう。だけど、この時ばかりは諦めきれなかった。どうしても見ておかないと後悔するような気がしていた。
扉の隙間からそっと覗くと、美しい金髪を無造作に束ね、疲れた顔をしているマミィが立っているのが見える。僕の大好きな蒼い綺麗な瞳が、涙で潤んでいるように見えるのは気のせいなのかな。一体、誰が僕の大事なマミィを泣かせているんだろう? 怒りと戸惑いの感情を抱きながら視線を少し動かすと、すらりと背が高くて痩せている男の人が目に入った。明るい茶色の髪を綺麗に撫で付けて、焦げ茶色のツイードのスーツを着ている。その表情はとても柔らかくて、優しそうな眼差しが印象的な人だった。
ふと何かに気付いたかのように、彼がこちらをゆっくりと振り返る。僕は急いで扉の陰に身を隠した。そして足音を忍ばせて、階段を上るとベッドルームへ戻る。
――あの人は誰?
僕はベッドルームに入りドアをそっと閉めると、どきどきする胸をそっと押さえてしゃがみ込んだ。
優しそうな男の人だった。もしも僕にダディがいたとしたら、あんな人なんじゃないかな、と想像してみた。本当にそうだったらいいのに。
――ダディ……
心の中でそう呟くと、僕は目を閉じた。
まだ雨音は止まない。優しい眼差しと柔らかな表情、そして落ち着いた囁くような声。あの人の思い出はいつも雨音と共にある。
僕はあの日から雨の日にはいつも、雨音の向こう側に彼の声が聞こえないか、そっと耳をすませてみる。
いつかあの人に、もう一度会える日が来る事を願いながら。
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