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第2話

 ある英国人スパイの告白・1  1944年、第二次世界大戦末期。フランス、パリ近郊。  夜陰に紛れるようにして、町外れの農地までようやく出ると、私はほっと一息ついた。斜めがけにしたキャンバス地のバッグの存在を確認するように、上からそっと手で包み込む。人肌の温かさを感じたせいかバッグの中から、クルックーと小さく鳴き声がした。  広々とした農地の真ん中辺りまで来ると、周囲を用心深く見渡す。農地は今や荒れ果てて何も作物は育っていない。きっとこの農場の主も戦地に徴兵されて、誰も面倒を見る人間がいないのだろう。かつて畑だった名残が感じられるのは、でこぼこに耕された地面だけだ。  今夜は月明かりがほとんどなかった。空には薄雲が広がり、やせ細った月が雲の向こう側に時折顔を出す。こんな夜はまさに絶好の機会だ。  私はバッグの蓋を開け、慎重に中から大事な相棒を取り出す。  手に柔らかな羽の感触が伝わってくる。脚には小さな筒が括り付けられていた。この筒の中には、これからの戦局の命運を決めるであろう大事なメッセージが入れられている。 ――無事にドーバー海峡を渡ってくれ。  私は祈りを込めてグレーのその小さな頭を人差し指でそっと一撫ですると、思い切り空に向かって放した。 ――God save the King!(国王に神のご加護を!)  小さなその姿は羽ばたくとあっという間に上空高く舞い上がり、闇の中に消えて見えなくなった。  私は肩の荷が下りてホッとした。  その瞬間だった。 「そこにいるのは誰だ!」  叫ぶような鋭い言葉と共に、まともに顔をサーチライトで照らされる。私はあまりの眩しさに目がくらんで立ちすくんだ。  ドイツ兵だった。  私は両手を頭の上で組むと、ゆっくりと両膝を地面についた。 ――まだ終わった訳じゃない。私は運がいい人間なんだ。これまでの事を思い出せ、私は二度死の間際まで行って生還したじゃないか。お前は運が良い、と周囲からは常に言われていた。今までも、そしてきっとこれからも。  円いヘルメットを被った軍服の集団が、機関銃を手に近づいてくる。  私はそっと目を瞑って、最愛の我が祖国での父との最後の会話を思い出していた。 「どうしても、行かなくてはならないのか?」 「勿論です。父上はノブレス・オブリージュ(貴族の義務)について軽くお考えでは?」 「……そうではない。ただ、お前が行かなくてはならない理由が分からないだけだ」 「私のような人間を、祖国は必要としているのです。今この命を投げ出さずに、一体いつそうすべきだと?」 「この議論には、もうすでに結論がついているのだろう? これ以上何を話しても無駄だ、と。この老いた父を置いて、お前は行くと言うのだろう?」 「屋敷には、まだ使用人達もおります。いくらドイツ軍が本土を空襲しているとはいえ、こんな田舎までは来ますまい。父上は安心して、ここで私が戻るのお待ち下されば良いのです」 「……必ず生きて戻れ」  皺が目立つ痩せた父の姿が瞼の裏に浮かぶ。父は「お前は死の淵から二度生還した人間だからな。本当に運が良い。今度もきっとそうだろう。神のご加護を」と言って、弱々しく私の手を握った。  あれは私がまだ2歳になるかならないか、という頃だった。当然の事ながら、その当時のはっきりとした記憶は私には無い。父の話によれば、私は麻疹に罹り1週間高熱にうなされたそうだ。医者は匙を投げて「助からないでしょう」と言い、両親を嘆かせた。だが1週間後、私は何事もなかったかのように快復したのだ。信心深い母は神のお陰だ、と喜んだ。それが一度目。  そして二度目は、私が8歳の時だ。私は乗馬中にバランスを崩して落馬した。2日間目が覚めなかったそうだ。目が覚めなかった間、両親は今度こそ駄目だろうと半分諦めていたらしい。だが、またもや私は無事に生還したのだ。私はいつもの朝と同じように目覚めると、側にいたばあやに「お腹がすいた」と言ったそうだ。その時のばあやの様子はよく覚えている。まるで目の前に、神が啓示の為に降り立ったかのような驚喜ぶりだった。この逸話は、彼女が亡くなるまでずっと繰り返し語られてきたから、私はもうすっかり覚えてしまい、今ではそらで語って聞かせられる。  とにかく、私はもう駄目だ、と周りが諦めた状況から、無事に二度帰還した。  ならば三度目がないとはどうして言える? 今度もまた神のご加護があるかもしれないではないか。私は選ばれた人間なのだ。高貴な家の尊い血を受け継ぎ、祖国を守る為にこの命を楯にした。神がそんな私を見捨てる訳がない。それならばこの状況においてさえ、私は希望を持って良いのではないのか?  私は瞼を開いた。  目の前にドイツ兵が立っていた。 「薄汚いナチス野郎」  私はそう言って唾を吐きかける。彼は何も言わずに機関銃を振り上げると、無表情のまま台尻でいきなり私を殴りつけた。  がつっ、という重い衝撃が頭に走り、全てが無になった。

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