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第3話
1.
ここ数日のロンドンは天気が悪く、どんよりとした曇り空が続いている。英国南西部では大雨で川が氾濫して、近隣の町や村では被害が出ているとニュースで報道されている。ロンドンはそれほどでもないが、それでも時折突然ひどく雨が降って、街行く人々を困らせていた。
――天気、悪いな……
もう4月だというのに、春の気配を感じると言うよりも、まだ冬の名残のような気候だ。すでに先週末には、サマータイムが始まっている。気象学上ではすでに季節は春の筈なのに、この天気の悪さは一体どうしたことなのか?
MET(ロンドン警視庁)AACU(Art&Antiques Crime Unit)所属の警部補、リチャード・ジョーンズは溜息をついて窓の外を眺める。MET庁舎の前には、道を挟んでテムズ川が流れている。薄暗い空と灰色に濁った川の水面が、余計に気持ちを暗鬱にさせる。
キーボードを操作する手を休めて、窓の外を見ていると、ぽつぽつと雨が降ってきた。テムズ川沿いの遊歩道を歩いている観光客たちが、慌てて傘を開いている様子が見える。色とりどりのカラフルな傘の花が開いて、モノクロームの風景に色を添えた。
ぼんやりと傘の群れを見ていたら、デスクの端に置いてあった携帯電話が振動した。
リチャードは電話を手に取ると、画面を見て顔を蹙める。
画面に記された名前は『マルコム・ベイカー』。滅多に掛かってくる電話の相手ではない。一体何の用事だろう、と訝しみながら電話に出る。
「ジョーンズです」
「ああ、ジョーンズくんか! 良かった、出てくれて。きみに折り入って相談したいことがあるんだが、構わないだろうか?」
電話の相手、マルコム・ベイカーはヘンドン(MET警察学校)の元教官で、現在はロンドン市内でアンティーク商を営む男性だった。リチャードが在学中に世話になった一人だったが、5年前父親が亡くなり、経営していたアンティーク店を引き継ぐために退官した。リチャードがヘンドン卒業後はまったく接点がなかったが、昨年AACUに異動した後、たまたまある事件で再会し、その際に電話番号を交換していたのだった。リチャードは、そのうちAACUの仕事上で役に立つかもしれない、という漠然とした気持ちで番号を渡しただけであったが、それ以降、互いに何の連絡をするでもなく1年が過ぎていた。それだけに、リチャードは一体そんな相手から何の用事で電話が? と訝しんだのだ。
ベイカーは少し慌てた口調で、リチャードの返事を待たずに話を続ける。
「実は、先日とある人からアンティークの文机を買い取ったんだが、代金を支払った後にいちゃもんをつけられてね。あれは本物のチッペンデールだから、本来であればもっと値が付く筈なので追加で代金を払え、と脅されているんだよ。私も素人ではないから本物か模造品かの区別はつくし、自分の査定価格の見立ては正しいと信じているので、それに見合っただけの代金は正当に支払ったつもりなんだ。だから私には恥じるところはどこにもないと、そう相手にも伝えたのだが……」
ベイカーは興奮気味にここまで一気に喋ったと思うと、突然言葉を途切れさせる。リチャードは、途中で彼が話した専門用語が理解出来なかったが、黙って相手が話を続けるのを根気よく待つ。こういう場合は下手な相槌を打つよりも、相手に喋らせた方が話が早い。分からない専門用語は、後で調べてみればいいだけのことだ。
「……相手がロシアンマフィアの影をちらつかせ始めてね……ちょっと面倒な話になりそうなので、きみの力を借りたいと思って」
ベイカーは心に溜めていた澱を吐き出すように、最後の一言を口にする。
――そういう事か。
リチャードは、ベイカーの言葉に眉を顰めた。
通常、店と客との代金の支払いについてのいざこざに、警察の介入はまずあり得ない。ベイカーは素人ではなく、プロのディーラーだ。支払いに関しての揉め事の扱いには慣れている筈。ましてや、彼は元警察官である。こういった場合、他のディーラーよりも上手く話を纏められるであろうと容易に想像出来るのに、リチャードに助けを求めてきたのは相手が一筋縄ではいかないからだ。
「無理であれば構わないんだが、とある人物が実際にロシアンマフィアと関わりがあるのかどうか、調べて貰えないだろうか?」
「……こちらのデータベースにアクセスして調べて欲しい、ということですか?」
リチャードは窓側に体を向け、会話の声を低める。
いくら元警察官からの頼みであっても、彼は現在では一般市民だ。そんな一般市民からの依頼を、現職の警察官であるリチャードが簡単に受け入れる訳にはいかない。
「……無理なら構わないんだが」
構わない、と言いつつベイカーは明らかに良い返事を期待している。
リチャードは、厄介な事になったと思った。
相手が元警察官なだけに、こちらの内部事情にも通じている。いくらでも探せば抜け道があると、先からお見通しだった。つまりリチャードの断りの言い訳は通用しないのだ。
「……すぐに返事は無理です。詳細を聞いてから判断させて下さい。そちらに伺って話を聞かせて頂いてもいいですか?」
リチャードは、毅然とした態度でそう答えた。
いくら相手が自分の警察学校時代の教官であったとしても、今や自分は警部補という地位にあり、相手は一般の民間人に過ぎない。簡単に相手の言い分を聞く必要はないのだ。
リチャードの反応に一瞬相手は怯んだようだった。満更知らない仲ではなし、簡単に引き受けてくれるであろう、という慢心があったのかもしれない。しばらくの沈黙の後「では店まで来て貰えるかな?」と少し丁寧な口調で尋ねてきた。
「分かりました。4時にシフトが終わりますので、その時間以降に店に伺います。バークレーストリートでしたよね?」
「ああ、バークレースクエアの向かいだ。店は5時閉店だから、それまでなら開いている。もしそれ以降になるようだったら、連絡をくれないか?」
ベイカーは通話を切った。
リチャードは、すぐに携帯に登録してある番号を押す。数コールで相手が出た。
「リチャードどうしたの? こんな時間に電話掛けてくるなんて珍しいね、何か事件?」
電話の相手はレイだった。
レイ……レイモンド・ハーグリーブスはAACUの専属コンサルタントで、ロンドン市内の一等地に自分のギャラリーを構えるやり手のアートディーラーであり、警視総監ロバート・ハーグリーブスの甥である。そしてリチャードの恋人でもあった。
「いや、そうじゃないんだ。ちょっと聞きたいことがあって。今日の夜、行っても構わない?」
リチャードはレイに、ベイカーの業界内での評判を聞こうと思っていた。いくら自分の元教官であっても、あれからもう6年も経っているのだ。1年前にある事件を通して思いがけなく再会した時は、あの頃のままだと懐かしさが先に立ったが、だからと言って相手を100%信用するのは危険だ。人間なんて、ほんの少しの切っ掛けでどんな風にでも簡単に変わってしまうのを、リチャードは今まで嫌というほど目の前で見てきた。
ただし、レイはアートディ-ラーであってアンティークディーラーではない。彼が何も知らない方に賭けても良かったが、レイの幅広い人脈を伝っていけば、誰かしら知っている人間に当たるかも知れないという希望も持っていた。とにかく何も材料がない状態なので、ほんの少しの情報でもいいから欲しかったのだ。
「構わないよ。リチャードってば、そんなことわざわざ聞くために電話してきたの? 僕の家の鍵持ってるんだから、いつ来てもいいのに」
「うん……そうだね」
リチャードは窓の外の暗い空を眺めながら、電話の向こう側の恋人の姿を思い浮かべる。
――ただ、きみの声が聞きたかったから、って言ったら何て答えるんだろう?
「ディナーは僕が用意しておくから、何も持って来なくていいよ」
「分かった。それじゃ後で」
「……待ってるね」
少しはにかむようにレイは言うと、電話を切った。
付き合って1年が過ぎた。初めて会ったあの頃から、彼は全く変わらない。時には小悪魔で時には天使のように、そしていつでもリチャードだけに、真っ直ぐな好意を向けてくる。
リチャードにとって、今やレイは自分にとって欠かせない人物となっていた。
レイに出会う以前の自分が、どんな風に毎日を過ごしていたのかを思い出そうとしても、もう遙か彼方の過去となってしまい、容易には思い出せなかった。
――雨……止まないな。
窓に雨粒が当たっては、弾け飛んでいる。かなりの本降りになっていた。
――行くまでに小止みになるといいんだが。
リチャードはパソコンの画面に向き直ると、報告書の続きを書き始めた。
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