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第4話
The Diary of Lord Wimborne/ウィンボーン卿の日記・1
僕が彼女に初めて出会ったのは、ギルドホール音楽学院の卒業コンサートだった。その1年前に父が亡くなり、長男だった僕は家督を継いでいた。父は様々なチャリティに関わっており、またあちらこちらの学校や団体のパトロンにもなっていた。ギルドホールのパトロンもその一つで、僕が家督を継いだ後、自分には向いていなさそうなチャリティやパトロン関係は整理させて貰ったのだけれど、ここだけは曾祖父の代からの繋がりだったので切るに切られず、僕が引き続きパトロンとして務めることになった。
パトロンと言っても、大した仕事をする訳ではない。毎年一定額の寄付をして、卒業コンサートなどのイベントに顔を出すぐらいだ。だが、これが一つだけならともかく、幾つも掛け持ちともなると、自分の本業のスケジュール管理以上に大変になってくる。父のように定職を持たず、ただチャリティとパトロン業にだけ従事していられればいいが、昨今爵位を持っているからと言って、それだけでは食べていけない。のうのうと自分の屋敷で何もせずに生きていける時代は、とうの昔に過ぎ去ったのだ。
今では自分たちが生きていくためには、一般の人々と変わらないくらい、いやそれ以上に働かなければならない。何故なら、広大な屋敷や土地を管理するには、多額の費用が必要だからだ。屋敷や庭は常に手を入れなければ、すぐに荒れる。一度荒れ果ててしまったら、元に戻すだけでも莫大な手間と時間と金がかかるのだ。そのために常に気を配り、金を費やして、美しい屋敷と庭を保たなくてはならない。それはある種の自己満足でしかない、というのはよく分かっている。だが代々何百年もの年月をかけて、先祖から受け継がれてきた財産を、みすみす自分の代で失う訳にもまたいかないのだ。
僕は大学では経営学を学び、卒業後は自分で会社を興した。
自分の屋敷の領地で代々牧畜を営んでいる家族を雇い、オーガニックの乳製品を販売する会社を設立したのだ。丁度、世の中がオーガニックブームだったのもあり、僕の会社の製品は大人気となった。貴族が経営している会社、というのもいい宣伝になった。少しずつ会社の規模を拡大して、現在では乳製品だけでなく、ビスケットなどの菓子も作っている。お陰で屋敷や庭に掛かる維持費も存分に賄えるようになり、父の代の頃のように屋敷の雨漏りの修理費の捻出に、頭を悩ませる必要はなくなった。
それなのに母は、高貴な家の人間が会社経営なんてはしたないと罵り、僕の仕事の成功を受け入れるのを拒否する。なんて旧弊で横柄な人間なんだろう。貴族というのは、何もしなくても周りが進んで傅き食べ物を口に運んでくれる、貴族というだけで霞を食って生きていける、そんな存在だとでも思っているのだろうか。あまりにもばかばかしくて、開いた口がふさがらない。だが母の育ちを考えれば、そんな意見もまた仕方がないのかもしれなかった。あの人は、僕とはどこか根本的に違うのだ。生まれた時代が違うというだけではない、きっと人間としてのあり方が違っているのだろう。
そして僕は6月のある日、ギルドホール音楽学院のホールの来賓席に座っていた。手元にあるプログラムの表紙には『歌劇カルメン』の文字。この日は、声楽科の卒業コンサートだった。
――L'amour est un oiseau rebelle, Que nue ne peut apprivoiser, Et c'est bien vain qu'on l'apelle, S'il lui convient de refuser.
――恋は扱いづらい鳥、誰も手なづけられない、だから呼んだところで大いに無駄なことよ、もしそれが拒むにふさわしいなら
カルメンの情熱的な歌が会場に響き渡る。
――恋……ねえ。
ぼんやりとステージを見ながら、一人物思いにふける。僕はこの年齢になるまで、恋というものを知らずに生きてきた。そんなものにうつつを抜かすぐらいなら、勉学に励め、貴族としての誇りを学べ、と口うるさく母に言われてきたからだ。そのうち母に言われるまでもなく、恋なんて自分は無縁なのだとすら思うようになった。そう思うことで、無意識のうちに自衛していたのかもしれない。
母は、僕が彼女の意思に反すると、すぐに罰と証して手ひどく杖で打ち付けた。それは小さな子供にとっては、恐ろしいほどの痛みを体中に感じて、耐えがたい恐怖心を植え付けるのに充分な経験だった。そして大人になった今では、それほど恐怖を感じなくなったものの、体が受ける痛みは子供の頃とは何も変わらない。
あの人にとって、僕はいつまでも5歳の子供のままなのだ。杖で打ち付ければ、自分の言いつけを守ると信じている。僕は、内心反吐が出るくらい母のそんな仕打ちを嫌っていたが、また一方で彼女が自分の母親であるという事実を受け入れなければならなかった。大人になれば、もっと上手く付き合える。そう思って、この年まで生きてきた。だがそんなものはただの幻想に過ぎなかったのだ、と最近ようやく遅ればせながら気が付いた。
いつも不自由な左足を引き摺るように歩き、杖をつく母の姿が脳裏に浮かぶ。その姿を思い浮かべただけで、全身に嫌悪感が襲ってくる。
僕は、頭を振ってその姿を追いやった。何て不愉快なものを思いだしてしまったんだろう。今は舞台に集中にしなくては。
――Je dis que rien ne que m'epouvante, Je dis helas que je responds de moi, Mais j'ai beau faine la vaillante, Au fond du coeur, je meur d'effroi!
――私は何も恐れはしないと言ったけれど、私はああ自分のことに責任を持つと言ったけれど、でも勇敢に立ち向かおうとしても、心の底は恐怖で死にそうなのよ!
気付くと、いつの間にかすでに3幕になっていた。
ステージ上に若いソプラノ歌手が立ち、ミカエラのアリアを歌っている。
僕は、その彼女を見て息を呑んだ。
――なんて、美しい人なんだ。
ライトを浴びてステージの中央で切なく、時には激しくアリアを歌う彼女は、きらきらと眩しく輝く金髪を長く伸ばし、整った知性的な顔立ちと、そして美しい蒼い瞳が印象的だった。歌の巧さもさることながら、僕は彼女の美しさに一目見て夢中になってしまった。彼女はその瞳と同じブルーのドレスを纏い、観客たちの注目を一身に集めていた。
――Lady in Blue……蒼き淑女。
彼女は出番が終わると、颯爽と舞台袖に消えていく。僕は彼女を目で追った。そして今更気付いたかのように、手に持っていたプログラムを開き、ミカエラ役が誰なのかを確認した。
――エレノア・クリフォード……
僕の胸は、今だ経験したことがないぐらい激しく動悸を打っていた。
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