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第5話
2.
時計の針が4時を回った。勤務時間を終えたリチャードは、パソコンの電源を落とすと椅子の背にかけたジャケットを手に取り、帰り支度を始める。
「リチャード、今日はもう終わり? 私5時上がりなんだけど、久しぶりに一緒にパブに行かない?」
後ろの席のセーラが、声をかけてくる。
「ごめん。今日はちょっと用事があって……」
「もしかして、レイくんとデート?」
セーラがからかってやろうか、と少し思案する顔になる。
「違うんだ。……セーラ、ヘンドンの時のベイカー教官覚えてる?」
「覚えてるわよ。あの人教官だけど気さくだったから、生徒の間では人気あったわよね。確か一度、クラスの皆で飲みに行かなかったっけ?」
「そんなことあった?」
「リチャード行かなかったのかな? 私は記憶にあるんだけど……」
「いや、俺は覚えがないな……」
「あの人全然警察官らしくなかったから、私達が卒業後、退官してお父さんのアンティーク店を継いだって聞いても、全然不思議じゃなかったわね。彼がどうかした?」
「俺に相談があるって、電話が掛かってきたんだ。トラブルを起こした客が、ロシアンマフィアに関わってるかもしれないって」
今までにこやかな表情だったセーラが、一瞬で真顔になる。
「……それはちょっとまずいわね。何か困った展開になりそうだったら、すぐに私にも伝えてよ?」
「分かってる。もしかしたらセーラにも手伝って貰うかもしれないから、その時はよろしく」
「了解。ああ、それで今からベイカー教官のところへ?」
「うん。仕事終わったら行くって言ってあるんだ」
「そっか。じゃパブはまた今度ね。お疲れ」
セーラに見送られて、リチャードはオフィスを出た。
セーラはあんな風に言っていたけれど……とリチャードはヘンドン時代を思い出そうとする。
確かにベイカーは警察官というよりは、アンティーク店の店主の方がしっくりくるような人物だった。彼のどこかのんびりとした風貌と柔和な笑顔が、ぼんやりと記憶に残っている。だがリチャードはそれ以上、はっきりとした彼の人となりが思い出せなかった。
だからこそ、余計に不安になるのかもしれない。レイの知り合いに誰か彼の評判を知る人がいればいいが、とリチャードは思いつつMET庁舎を出る。
空はどんよりと曇っていたが、幸いにも雨は止んでいた。
あまり降っているようならキャブを使おうか、と考えていたので、無駄金を使わずに済んだと、リチャードは少しほっとする。
MET庁舎から、バークレーストリートまでは徒歩で20分ほどの距離だ。ベイカーは5時閉店と言っていたので、充分に間に合う。
雨が上がった後の湿気を含むひんやりとした空気の中を、リチャードは歩いて行く。
見慣れた街も、晴天時と雨の日では見え方がまったく違う。
リチャードは、雨の日が嫌いではなかった。
記憶のどこかに残っている優しい雨音。思い出すと懐かしい幼少時代が蘇ってくるような気すらする。リチャードは、自分をセンチメンタリストだとは思っていなかったが、そんな考えを抱くぐらいだから、本当はそうなのかもしれない。
――レイなら何て言うだろう?
明るいふわりと緩くカールした栗色の髪の毛と、愛らしい顔立ちの持ち主を思い浮かべて、リチャードはふと微笑みたくなった。
――早く用事を済ませて、彼の家に行こう。
リチャードは足の運びが心なしか、軽くなった気がした。
ピカデリー大通りから北上して、ボンドストリート方面へ向かった途中に、バークレーストリートがある。通りが突き当たったところには、バークレースクエアと呼ばれる公園があり、その左側に続くバークレーストリートの真ん中、スクエアの丁度向かい側に、洒落たワインレッドのファサードが印象的な、ベイカーアンティーク店があった。
一見して金がかかっていると分かるモダンな外装で、さすが一等地に店を構えるだけのことはあるな、とリチャードは思った。
彼はスクエアの中を横切って通り抜けると、バークレーストリートを渡り、ベイカーアンティーク店の店先に立つ。ドアベルがないところを見ると、鍵は掛かっておらず、客が勝手に開けて店に入っていいらしい。
「こんにちは」
リチャードは声を掛けながらドアを開けて、中に一歩入る。店の中は落ち着いたマグノリアカラーで統一されており、高級アンティーク家具や彫刻、陶芸品などが所狭しと並んでいた。
レイが経営しているアートギャラリーとは、また違った趣の店だ。
「ベイカーさん……?」
リチャードは訝しむ。声を掛けても返事がない。仕事終わりに自分が店を訪問すると伝えてあり、ベイカーも待っていると言っていたのに、店内に彼の気配がないのは変ではないか?
リチャードは何かがおかしい、と身構えて店内をゆっくりと見回す。
店の中には大小様々なアンティーク家具が置かれていて、見通しが利かない。リチャードは、目の前にある背の高いオリエント風デザインの箪笥の裏側を覗き込む。その箪笥の後ろは少し広い空間があり、リビングルームを再現したような様子になっていた。客の中には、いちいち一つずつ家具を揃えるのが面倒なので、このようにコンセプトを示しておけば、まとめて全部買う人もいるのだろう。中央には、元の木材の形を生かした大きなローテーブルが置かれ、大小様々な木製の猿の置物が上に載せられている。その隣には東南アジアでよく使われているような、籐を編んで作られた長椅子が置かれていた。更にその奥には、オリエンタルデザインの衝立があった。桜のような花の絵が描かれた木製の衝立で、いい具合に色が褪せて落ち着いた印象を与える。アンティークには詳しくないリチャードでも趣味の良い商品だな、という感想を持つ。その時、衝立が置かれている床に自然に目が行った。どこか違和感を覚える光景が、そこにはあった。何がおかしく感じるのだろう? とリチャードは一瞬混乱する。そのままじっと見つめる。その間はたかだか、数秒でしかなかっただろう。だが、リチャードにはずいぶん長い時間が経っていたように感じていた。視線の先にある衝立、その脇から、棒のような物がにょっきりと出ていた。棒のようなものは、まるでよく出来た人形の足のようにも見えた。
「ベイカーさん!」
棒のように見えたのは、本物の人間の足だった。
リチャードは駆け寄ると、衝立を急いで動かす。
衝立の裏側は、まだ店頭には出さないストックが置かれているスペースのようだった。ベイカーは、オリエント風デザインの文机の上に覆い被さるように体を投げ出して、ぐったりとしている。
――心臓発作か脳卒中でも起こしたんだろうか?
「ベイカーさん! しっかりして下さい、聞こえますか?」
リチャードは、ベイカーの口元に手を当てる。手の平に微かに風を感じた。
――良かった、まだ息がある。
その時、リチャードはベイカーの後頭部にべったりと血がついているのに気付いた。
――頭を殴られたのか!?
リチャードはすぐにジャケットのポケットから携帯電話を取り出すと、999コールする。
「こちらは緊急要請番号です。必要なのは救急ですか? それとも警察ですか?」
リチャードが番号を押すと、すぐにオペレーターが応答する。
「私はMETのジョーンズ警部補です。男性が殴打され、意識不明の状態でいるのを発見しました。すぐに救急車を寄越して下さい。場所はバークレーストリートのベイカーアンティーク店です。警察は私から連絡します」
「了解しました。すぐに救急車を手配します。患者の様子は?」
「意識はありませんが、呼吸はあります。後頭部を殴打されて出血がひどいので、発見した状態で体勢は維持しています。こちらは救急車が到着するまで、呼びかけを続けるようにしますので急いで下さい」
「分かりました。そのままの状態で患者への呼びかけを続けて下さい。お願いします」
オペレーターが通信を終了するのと同時に、リチャードは携帯の登録番号を押す。
「よう、どうした? お前から電話してくるなんて珍しいじゃないか? 飲みの誘いか?」
数コールで出た電話の相手は、暢気な様子だ。リチャードは、焦る気持ちを抑えながら、要領よく現状を説明する。
「違う。ハワード、今から黙って俺の言うことを聞いてくれ。バークレーストリートのベイカーアンティーク店にいるんだが、店主のマルコム・ベイカー氏が何者かに殴打されて意識不明の状態だ。俺がたった今発見した。救急には連絡済みでもうすぐ到着する。傷害事件だから、お前のところの担当だろう? チーフのクロスビー警部にお前から話をつけて、担当官としてこっちに来て欲しいんだ。何とかならないか?」
「何だお前、自分が事件の第一発見者になっちまったのかよ? 変な冗談じゃないだろうな?」
「冗談じゃないんだ。真面目に聞いてくれ」
電話の相手は、リチャードの特捜時代の同僚、ハワード・フォークナー巡査部長だった。
「聞いてるよ。俺は今自分で手がけてる事件は何もないから、どっちにしても俺の担当になるだろうな。警部に話してみるよ……で、どこだっけ?」
「ハワード! ふざけないでくれよ。バークレーストリートにあるベイカーアンティーク店だ。バークレースクエアの真ん前にある、ワインレッドのファサードの店だからすぐに分かる」
「了解、出来るだけ早く行く……あ! チーフちょっと話が!」
通話中のハワードの目の前を、クロスビー警部が横切ったらしく、会話の断片が電話越しに聞こえてくる。
ものの数分で話がついたらしく、すぐにハワードが電話口に戻った。
「リチャード、今から車飛ばして10分以内にそっちに行くから」
「頼む」
リチャードは電話を切ると「ベイカーさん、意識をしっかり持って下さい」と話かける。するとぴくり、とベイカーの体が動いた。
「ベイカーさん! 聞こえますか? ジョーンズです」
「グ、グラン……」
「グラン? 何です? 何のことですか?」
ベイカーは一言だけ譫言のようにそう言うと、また気を失ってしまった。
リチャードはたった今聞いた『グラン』という一言を脳裏に刻み込んだ。もしかすると犯人の名前かもしれない、と思ったからだ。
それにしても一体誰が……? と考えてから、ベイカーが昼間リチャードに電話を掛けてきた件を思い出した。
――まさか、ロシアンマフィアが……?
店の外に微かに響いていた救急車のけたたましいサイレンの音が、徐々に近づいてくるのが今やリチャードの耳にもはっきりと聞こえていた。
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