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第1話

その日、退勤処理が出来たのは8時前だった。柴田の日常からすれば大分早い。それでなくても忙しかったが、副所長という肩書がついたおかげで、本来真中のやっていた事務処理みたいな仕事を回されて、自分のしなければならない仕事に手が付けられないこともある。柴田の苦手な冬が終わり、季節は春めいてきた4月、大した異動もなく、事務所の中は年度末の忙しさを潜り抜けた穏やかなムードが漂っていたが、柴田だけは忙しさの先が見えなくて少し息が苦しかった。仕事が忙しくてしんどいなんてことを、今まで思ったことがなかったのは、今まで自分が管理職ではなかったせいなのか、余計な責任は肩に重い。そう考えるとやはり真中の背中は遠く、近づいた分、また遠さを自覚したみたいな気がした。地下の駐車場に止めた白のフーガに乗り込んで、柴田はふうと息を吐いた。そんなに根を詰めてやらなくていいと言われたけれど、真面目な性格上、程度が分からなくて結局こんな風に息が詰まっている。目を閉じたらそのまま眠ってしまいそうだった。 (・・・あ、電話) ふと昼間逢坂から電話がかかって来ていたことを思い出して、柴田は鞄の中から携帯電話を取り出した。折り返しをしようと思いながら、結局終わるまでそんなことをしている時間はなかった。そうは言っても、逢坂は割と何でもない時でも電話をかけてくるので、何となくいつも後回しにしてしまっている。悪いとは思っているのだが。考えながら柴田は携帯電話を操作して、耳に当てた。発信音が緩々と聞こえる。ややあってぶつっとそれが途切れて、数秒の沈黙があった。 『もしもし、侑史くん?』 「・・・おー」 相変わらず逢坂の声は明るい。それを聞きながら、柴田は少しだけほっとしたような気持がした。逢坂相手にそんな気持ちになるなんて不思議だった。 「悪い、今、仕事終わった」 『お疲れ、俺、これからバイト行ってくるよ』 「あ、バーの?」 『うん、そー』 以前旅行に行った時に、割が良いからと友達の紹介で、バーでバイトをするようになった逢坂だったが、お金の問題に頭を悩まされなくなった今でも、時々出向いているらしい。久しぶりに仕事が早く終わったから、逢坂の顔をみたいと思ったけれど、深夜のバイトは終わるのがほとんど早朝だ。バーに飲みに行ってもいいのだが、そうすると車を運転して帰れないし、と考えて、今日は大人しくひとりで帰ることにした。柴田はそうやって色んなことを現実的に考えている自分のことを、見つけるたびに時々嫌気が差す。バーのバイトに行くようになって、逢坂はコンビニのバイトは辞めてしまった。それを聞いた時は、柴田はそんなに深く考えなかったが、逢坂とはじめて会ったその場所に、逢坂がいない現実を知るたびに、少しだけ胸が痛んだ。 『何か食べて、ゆっくり寝てね。侑史くん最近、仕事忙しいんでしょ』 「・・・あー・・・うん、お前も」 ぼんやり逢坂の声を聞きながら、柴田は曖昧に答えた。今日会えるかもしれないなんて考えて、浮かれていたのに、逢坂にまるでそんな気がないみたいで急に恥ずかしくなって、取り繕うために声が不機嫌になる。逢坂はこの春に4年生になり、就職活動もはじまったらしいし、卒論も書かなければならないと言っていた。柴田の知っている逢坂は平日の昼間は毎日大学にいたのだが、最近はそうでもないらしいし、週末になって必ず柴田の家に来ていたのも、ぽつぽつと別の予定が入るようになっていた。柴田の方も副所長として仕事量が増えた分、平日に片付かなかった仕事を休日出勤して片していることや真中との会議なんかが入ることがあり、去年よりは格段に忙しくなっていた。そういえば最近いつ逢坂と会っただろう、先週末だろうか、それともその前か。柴田は何も聞こえない携帯電話を耳に当てたまま、ふっと目を閉じた。 『侑史くん?何か怒ってる?』 「・・・え?」 逢坂の声でふっと我に返る。 『ごめんね、電話、変な時間だった?』 「・・・いや、別に・・・」 慌てて不機嫌そうな声をおさめて、柴田はそう言った。そんなことを簡単に声色から読み取るくらい、逢坂は普通にする。考えながら、本当は思ったことを単純に言葉にすればいいのだと分かっているのだけれど、自分の方が年上だし、格好もつけたいし、余裕があるフリだってしたい。そんなことが何にもならないことは分かっているつもりだったけれど。 『侑史くんの声聞けて嬉しかったよ。じゃあもう切るね、ほんと何か食べてね』 「・・・うん」 逢坂はそうやって、何でも言葉にすることを恐れない。若さゆえなのかなと他の何かのせいにしたい柴田は、聞きながら考えた。耳元で通話が切れる。切れた後の音を柴田は暫く聞いていた。今年一年はこんな感じで過ぎていくのだろうかと考えながら、柴田はゆっくり携帯電話を耳から離して鞄に向かって投げた。セフレからはじまった関係も、なんだかんだともうそろそろ一年が経とうとしている。驚くくらい色んなことが逢坂との間にはあったけれど、ここ暫くは会えない時間も増えたせいか、程よく落ち着いていて、それに何だかなぁと思いながら、そのままにしている。このくらいの距離感が丁度良かったのかもしれないなんて言ったら、逢坂はどんな顔をしてどんなことを言うのだろう。聞いてみたい気もする。 (声が聞けてうれしい、か。俺もそれくらいの事、言えたらいいのになぁ・・・) だって嬉しかったのだ、確かに。仕事が好きで仕事しかやって来なかった柴田は、今まで仕事がきついとかしんどいとか全く思わなかったけれど、それは自分だけのことを考えれば良かったからだ。ここで責任という名前のものを背負わされて、真中の代わりに指揮を取らなければならなくなって、それで多分自分が考えていたよりずっとここ最近は疲弊している。その疲弊した体に逢坂の声はまるで隙間やひび割れを知っているみたいに、じわっと沁み込んで嬉しくなるし切なくなる。 (・・・今週末、来るか聞いときゃよかったな・・・でもそれじゃ来て欲しいみたいだ) (いやまぁ・・・来てほしいんだけど) 考えながら柴田は首を振った。簡単なことが簡単ではなくて、単純なことが単純でなくて、それで取り繕っているのが自分に一体何をもたらしてくれるのか分からない大人の体裁であって、逢坂の気持ちではなくて、分かっているのだけれど今一歩踏み出せないのは、柴田の中の何が邪魔しているのだろう。フーガのエンジンをかけて、柴田は漸く地下駐車場から脱出した。夜の街に車を走らせながら考えていた。離れているとそれが現実的なことなのか、それとも自分の単純な不安が幻覚を見せているのか分からなくなる。取り繕って笑った後、この距離感がベストだなんて笑える、柴田は考えながら赤信号でブレーキをゆっくり踏んだ。 (会いたいなんて馬鹿みたい?) (あぁ、でも、もし明日も電話かかって来たら) (その時はそう言ってみようかな) 目の前がぼんやり霞みがかる。眠いのだと知っている。赤かったライトがぱっと緑色になって、柴田はブレーキからアクセルに踏み変えた。今日は疲れているからこんな弱気な思考になるのだろうと考えて、早く家に帰って眠ろうと思った。逢坂が言った通り、何か食べて、といっても冷蔵庫にはきっと何も入っていないからコンビニにでも寄って、逢坂はそこにいないけれど。

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