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第六十八話 花の下に眠る

 小川……とは呼べない川に梯子状の結界を掛けて、ぴょぴょっと進むには困難な武者返しのような赤土と岩の混じった崖をよじ登り、泥まみれになった紫苑(しおん)はそれでも楽しそうにへらりと笑った。  上気した頰を軽く拳を握った手でグッと擦ると、袖口についていたのか紫苑の頰を一筋の泥が汚した。それを指摘しても、紫苑は気にする様子もなく、今度は両手の掌を空へと向け、大きく伸びをした。 「ふぁー! 空気が美味しい!」 「確かにな。清涼だ」 「空もなんだか近い気がするし、川の水は美味しそう! 穣安(じょうあん)さん、飲んでも良いですか?」 「どうぞどうぞ! この川はそこかしこから水が湧いているのですよ」  水底の小石や泳ぐ魚まではっきりと見える程の透明度の高さは湧き水ゆえか。紫苑はそうっと川岸に近付くと両手を差し込んだ。 「美味しい! みんなも飲もうよ!」 「ついでに顔も洗ったらどうだ? 泥まみれだぞ?」 「え? あ、ホントだ。 気を付けて登ったのになぁ」  掌に掬った水を鏡代わりに、紫苑は自分の現状を理解したようだ。  気を付けて登ったって? 屋敷の五階まで跳躍する力がありながら、それを使わずに結界で編んだ紐と己の腕力、脚力で赤土の壁をよじ登ったのに? 「楽しかったか?」 「んぇ? うん!」  幼い笑顔だった。  穣安の腕の中にいる子供達と大差ない程に無邪気で満足そうな表情(カオ)だ。  クレヨンの汚れが袖についていただけで怒られていた紫苑が砂場や雨上がりの運動場で遊ぶはずもなく、水溜りで飛び跳ねるわけもなく……抑圧されてできなかったそれらを今取り戻しているのだとしたら? 俺はそれをこの上なく嬉しい事だと思う。    自然の香りを、大地の感触を、水の冷たさを存分に楽しめば良い。楽しむだけ楽しんで、満たされるまで繰り返しても、誰ももうお前を(とが)めはしないのだ。  どれだけ泥に塗れようと、その姿を見て金切り声をあげる者はいない。ただ微笑ましく思う者達がお前を取り囲んでいるのだから。   「……拭くもの、ない」 「ほら、こっち向いて」  首元を温めていたマフラーで紫苑の頰を流れる水滴をゴシゴシと拭ってやると、何故だか悲壮な声が聞こえた。 「それ……それ、お高いやつ!」 「ん? そうか? で?」  紫苑が濡れたままの方が大問題だ。春とはいえまだまだ底冷えのする山奥、崖登りと川の冷水で鼻の頭と頰を赤くした可愛らしい紫苑をいつまでも穣安と黒緋(くろあけ)に見せてやるのはおもしろくない。 「紫苑様ったら、ほっぺた膨らませても私には解ります。幸気の色が、もう嬉しくってたまらないって教えてくれてます」 「絢風(あやかぜ)!」 「ふふっ、怒られました!」 「主人(あるじ)達のせいでこの辺りに新たな温泉でも湧いてしまうやも知れぬな。私の願いが叶ってしまう! 天狗殿、黒緋殿、温泉が湧いた際にはぜひとも御一報を。私はずぅっと温泉に入りたいと嘆願し続けておるのだ」 「秘湯中の秘湯となりますな! 湯が湧くのは楽しみですが、そうなると人がここまでやって来ましょうな……」 「温泉なぞ湧くか、阿呆(あほう)」 「あ! お子達、魚の群れが泳いでおりますよ! あれは何の魚でしょうね?」  ――鮎じゃない?――  ――岩魚かも――  ――メダカ、いた?――  好き勝手に騒ぐ連中の輪に上手く組み込まれている事を翳狼(かげろう)達の声で知る。自分に対する呆れが、乾いた笑いとなって口から零れた。 「長?」 「柚葉(ゆずは)も飲む? 美味しいよ?」 「俺は桜の下で飲む」  その言葉にハッとしたように目を見開き、ずるい! とはどういう事だ。紫苑も桜を見ながらまた水を飲めば良いのに。こういうところがおかしくて愛しくて仕方がない。   「ははっ、飲みたいと思った時の水が一番に決まってるじゃないか! あははっ! 紫苑、口がへの字だぞ?」 「だって! お花見しながら飲む方が美味しそうなんだもん!」 「……長があんなに声を出して笑っておられる……! いや、新年にも確かに笑っておられたが、いやはや、なんと言うか……」  うにうにとよく伸びる紫苑の頰で遊んでいると、何やら感心したように呟く黒緋に、飛影(ひかげ)が空の上から、いつもはもっとすごいのだとかなんとか返して、くるりくるりと円を描く。 「飛影、桜はまだ遠い?」 「すぐそこなのだ!」 「うっわ、信じられないくらい軽い答え!」  飛影を見上げる紫苑はケラケラと笑いながら、俺の手を引き歩き始めた。  飛影とふざけ合いながら、山道を進む紫苑の表情は明るく、穣安の腕の中の子供達とも打ち解けたのか言葉を交わしている。ポワポワと内側から様々に色を変える魂は、人間が足を踏み入れた事のない見知った山の気配に安堵し、落ち着いて景色と同時に皆との会話を楽しんでいるようだった。   「ね、ね? ツツジって甘いの?」 「蜜か? 屋敷の裏山に咲くはずだ。咲いたら試してみよう……実は俺も知らないんだ」  ――ツツジは甘いけど、お腹が痛くなるのもあるの――  ――お兄ちゃん、気を付けて―― 「ならば! 森の蜜蜂さんにレンゲツツジ以外の無毒のツツジから作った蜂蜜を分けてもらえるように私が交渉するのだ!」  ――それが良いよ――  ――神様なのにお腹痛くなるの?――  ――神様なのに知らない事もあるのね―― 「そうなんだよ。他は何を知っていたら良いと思う?」  ――お兄ちゃんは何を知りたいの?――  ――穣安様はとても物知りだよ――  ――カマキリの卵が高いトコにあるとすごく雪が降るんだよ―― 「カマキリ!? そうなんだ。知らなかった! カマキリの卵なんて見た事ないよ。柚葉は?」 「俺は多分あるよ。白っぽい泡のような……」  「いいなぁ! 見たい!」  こうやって些細な事でも紫苑の欲が増えていくのが嬉しかった。俺が叶えてやれるものもあれば、俺も一緒に初めてを分かち合えるものもある。  知らない事がある事が、こんなにも楽しいと思えるとは、なんとも不思議な感覚だった。 「見せてやる……秋の終わり頃だな」 「ん。楽しみにしとく……けど、今は桜だね」  ――ひらり。ひらり。  風に乗って、薄紅の花弁(はなびら)がこちらへおいでと道を示す。 「うわぁ! 満開!」 「うん、見事だな」  おそらくは子供達の為に山神自らが力を添えて咲かせたであろう一本だけが肌寒い川辺で花をつけ、ただ静かにそこにいた。 「酒が飲みたくなりますな! っと、いえ、あの……桜が見事で……つい」 「黒緋さんはお酒に強いんですね?」 「(はなだ)の酒、美味いだろう? おかげと言うか、せいでと言うか、七対三の割りで鬼神は大酒呑みだ」 「俺も強くなるかな?」  「鬼国へお戻りの際には盛大な宴が催されましょうから、強くなるのは必然かと」  ――飲みすぎたらいけないのよ――  ――おさけってなぁに?――  ――じいちゃんとお父が飲んでたやつだ。楽しくなるお水―― 「楽しくなって、俺は寝ちゃう!」  ――楽しいのは嬉しいね――  ――穣安様、お兄ちゃん、神様、ありがと――  ――あのね……――  陽が傾くまで遊んだら、この桜の下で眠りたいのだと子供達が言う。  生きている人間の邪魔はしたくないし、その逆もまた然り。  もう眠りを妨げられた挙句に怒られたくはないし、怖いものに絡まれるのも嫌なのだと、邪気なく伝える球は相変わらずの暖色だ。 「そっか……うん、ここなら穣安さんもいるし、山神様の桜の下だもんね」 「これ程適した場所もなかろう」  また来る、と言いたかったのに言葉を飲み込んだ紫苑は一瞬俯いて、すぐに顔を上げた。 「さ。何して遊ぶ?」  

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