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第六十九話 困惑の時間
※紫苑視点になります
陽は当たり前に傾いていった。
満開の桜の木の下で、ぽよぽよと弾んでは遊んでいた子供達の魂が明確な意志を持って柚葉 の前へと集まった。柚葉は目の前で動きを止めた柔らかな球体を穏やかな目で見つめていた。
「行くか?」
ーーうん。神様、ありがと。助けてくれてありがとーー
ーーお兄ちゃんも、狼さんも鳥さん達もーー
ーー穣安 様、怖い夢を見ないように見守っていてねーー
こんな時、なんて言って良いか解らなかった。
迷って迷って口からようやく出た言葉は、おやすみという、ありふれた、たったの一言。
そんな情けない俺に子供達は明るく、それでいて穏やかにぽわぽわと別れの言葉を告げてくれた。
あれからもうすぐ一ヶ月が経つ。
今日は天狗の穣安さんと桜の下で眠る子供達の様子を知らせに黒緋 黒緋さんが一人で来ている。穣安さんは子供達と共に桜の下で時を過ごしているという。
そう伝える黒緋さんの顔色は悪く、引き攣っているように見えた。
「長 長……」
「まぁ、待て。朱殷 達が来るまでは。沙汰を伝えるのは頭領と副統領の意見が揃ってと決まっているのでな。まぁ、お前は初めての事だから気が急くのは解るが」
「申し訳ございません」
あの日、天照から連絡がここへ来た事はやはり責任問題となるそうだ。
どのような責任を取らせるのかは、頭領と副頭領の意見が一致して初めて下される……というのも、鬼国の掟だと教えられた。
俺の意見はこの一ヶ月の間に、柚葉と朱殷、そして白群 にも伝えてあったので、あとは朱殷達が来るのを待ち、最後の話し合いに畏れ多い気がするけれども参加させてもらうつもりだ。
「お待たせしてしまい申し訳ございません」
ノックの後に入って来た朱殷はいつもの洋服ではなく、あの漆黒の美しい着物を纏っていた。朱殷に続いて入って来た白群も同じ着物姿だったので、いよいよ始まるのだとこくりと生唾を飲んでしまった。
「長、お召し替えはせんのん?」
「ああ、あちらでなら着替えるが、ただの形式だからな。守らなくては鬼国が崩壊するなら着替えるが……お前達には手間をかけさせたな」
「んー、お着物も好きじゃし、辰臣 と揃い紋を着れるのも嬉しいから大丈夫……さて、黒緋。お久しゅう」
長い髪を器用に結い上げ、派手ではないながらも品の良い簪 で留めた朱殷に声をかけられた黒緋さんは見事な座礼をし、絞り出すような声で返答した。
「黒緋は煩わしい話をさっさと済ませてしまいたいようでな。二人とも座ってくれ」
「ん。お茶は後じゃな! さて黒緋。まずは私から一言。長の元に依頼が来るまでになった事態、今までの黒緋を知っているからこそ誠に遺憾、驚愕じゃ」
「申し開きようもございません」
「……お前は長きに亘り高野を守り続けてくれたな。天照からの報せが来た時は俺も紫苑 も腹を括ったものだ、その意味は解るな?」
柚葉の言葉に黒緋は床に額が当たるのではないかと心配になるくらいに頷く。
天照からの勅命ーー神殺しの任。それを背負わせる事は、己の力量不足の証であり、他の神々へ頭領の手が穢れた事を知らしめる愚行だという事だった。
しかし、今回は……。
「では、次は俺からだな。此度は俺達がつくまでよく持ち堪えてくれた。ご苦労であった」
「……はい」
「正式な沙汰は紫苑も含めて夕餉 の後に伝えるとする」
「はい?」
「なん? 夜まで待てん? 胃がキリキリする? そんならサクッと違うトコ赴任する?」
「へ?」
黒緋さんの反応にきょとんとした朱殷の軽い言葉が被さる。
続けて柚葉が口を開いた。
「朱殷、お前も待てんのか? 他の赴任地となると……さて、何処が手薄か、俺達はまた悩まねばならんぞ」
「あ! それは嫌なん!」
「み、皆様! 私は皆様の期待を裏切り、天照様に依頼をさせてしまう失態を犯しました。この場で両角をへし折られても文句を言える立場ではない事も承知しております!」
「ああ、天照からも謝罪が来たぞ。いや、あれ、謝罪か? すまぬ、常闇ぃ! 山で何やら大騒ぎと妹が半ベソで連絡してきたから、常闇に頼むのが早かろうと思って、焦ってしもうたぁ! お騒がせしてすまぬぅ! ってな」
「うん、天照様、すっごく焦ってらして。山神の姫様はあの子達の事を知っていたから一刻も早く収めて欲しかっただけみたいでしたよ?」
ぽかんと口を開けた黒緋さんが顔を上げて俺達を見回した。
「長、もうええじゃろ? 黒緋、もちろんあるな? 出してん?」
朱殷が俺達に視線を投げ、黒緋さんに手を伸ばし、何やら催促しているようだ。
「え、と……伝令いただいた物は全て持って参りました……が……?」
「ありがと! さ! お夕飯の準備前にお着替えしてこよー。長、お部屋を貸して欲しいん」
「ああ、好きな部屋を使え。楽な格好で酒でも飲むか」
「むふ! 私達の出番なのだ!」
「いや、あの、沙汰……懲罰……」
困惑している黒緋さんを無視して、俺達が座っていたソファの後ろからぴょこぴょこと顔を出した飛影 が大きく胸を張る。ぐぐぅっと伸びた翳狼 は俺と柚葉の間に座り、準備万端です、と尾を振る。
「縹 殿を呼んで来ねばならぬのだ! お任せあれ! 黒緋殿、まぁ、戻るまで色々とがんばってほしいのだ!」
意味深な飛影の言葉に黒緋さんはもう何を考えていいのか解らないといった表情 をしていた。
「黒緋さん、とりあえずソファに座ってくださいよ」
「伴侶様、それはさすがに……」
「構わんが、気後れするなら、まあせめて足くらい崩して楽にしておけ、俺が疲れる」
ソファに座ったまま伸びをして、そのままの姿勢から鬼道を開いた柚葉は、お茶をお願いしていいかな? と俺に耳打ちしてくる。
さすがに部下の前でそんな事はさせられないので、俺は頷いて掌に鬼火を灯す。
飛影と翳狼は楽し気に鬼道へと消えた。
無言でお茶を淹れていると、なんとも言い難い雰囲気に包まれた部屋で黒緋さんが大きな身体をどんどん縮ませている。
柚葉は気にも止めず、いつもと変らず穏やかな気を放っていた。その証拠に綾風 が心地良さそうに撫でられていた。
再びドアがノックされ、動きやすい洋服に着替えた朱殷と白群が入ってきて、定位置となったソファに腰をおろした。
「あ、私もお茶々、いただきたいん!」
「はいはーい、どれにする? そうだ、美肌効果があるらしハーブティーなんてどう?」
「しおーん! 是非もなしなん!」
目を輝かせる朱殷に微笑みかけて、俺はその場で鬼火を使ってまた湯を沸かし始める。白群にはダージリンかアールグレイがいいだろうか。そう思い、声をかけようと目をやると白群は黒緋さんに話しかけていた。
「縹が来たら、お前、ゆっくりはしていられないからな」
「は、はい?」
「ん。そじゃな。黒緋の沙汰が変わるかもしれんしな……なぁ? 長?」
「そうだなぁ。紫苑次第だからなぁ。今夜の黒緋の取捨選択、そして働き次第だろうなぁ……」
「え? 俺? どゆこと!?」
訳がわからず、動揺で鬼火が揺れる。どういう事? と聞いても、三人は微笑み各々がカップに口をつけて答えは返ってこなかった。ただ柚葉からは、どこかワクワクしたような気が流れてきたので、何かしら企んでいるのは解った。
これ以上しつこく説明を求めても、絶対に教えてもらえない事も理解できた。
こんな時はみんなの雰囲気に流されておくのが一番答えに辿り着くのが早い、という事は既に身に沁みているーー深呼吸を一つ。心を落ち着けて、再びお茶を沸かす事に専念、だ。縹の分も足りるように、と多めの湯を沸かす。
「おや、本当に黒緋殿がおられるな。これはこれは……ふふ、長、紫苑。お邪魔いたしますぞ」
「はなちゃん! 今夜もよろしくなん! あ、紫苑がお茶淹れてくれとるん。飲んで、ちょっとゆっくりしてから黒緋連行して?」
「連行!?」
穏やかではない言葉に、俺と黒緋さんは同時に声を上げて顔を見合わせる。
「まぁた鬼姫はそうやって驚かすのぅ」
楽しそうに笑う縹にティーカップを手渡す。すぅっと立ち昇る湯気を吸い込むと、フッと口の端が上がったので合格点なのだな、と安心して俺も笑った。
「連行……縹殿……げ、下剋上? いや、縹殿は本来我が身より上位のはず……え? えっ?」
ぶつぶつと床を見つめながら呟く黒緋さんの目は困惑の色を濃くしている。
「ぷっ、儂 は麹と酒の味以外は興味ないのだがなぁ」
「ですよね!?」
食いつくような黒緋さんの反応で、やはり縹の強さは本当なのだと解り、何故か俺が得意な気持ちになってしまった。
「紫苑、ここ」
来い、と柚葉が指差す場所は膝の上……絢風が首を傾げると、ぽつり、可愛い嫉妬の気が溢れております、と柚葉を見上げた。
それを見た朱殷は手を叩いていつものように
「出た! 鬼もドン引く独占欲! あ、黒緋、これいつもの事なん……うふふ」
楽しそうに柚葉の膝に抱えられた俺を眺めて笑う。
黒緋さんは自分が知っている昔の柚葉との違いがすごいのか、いつ始まるか解らない連行で何をされるのか解らないからか、言葉も出ないようだった。
俺? 俺はもちろん……嬉しいけれども降ろしてほしいよ! 嬉しいけれども!
「あの、紫苑様? 鬼国の皆様からたくさんの野菜をいただきましたよ! 今夜も楽しみですね!」
既にいつもの光景になっている翳狼が嬉しそうに尾を振る。
「わ、次に鬼国に行く時にはお礼持って行かなきゃだね! 良い? 柚葉?」
「んー、何か名目を考えなくてはな」
「そうじゃな、頭領から何かをもらうなんて、理由が要るじゃろな」
「そりゃそうだろ。長にホイホイ菓子をねだったり、飯作らせるのは朱殷くらいだろうよ」
白群が朱殷に向けた言葉に黒緋さんは小さく、え、と声を洩らして目を剥いた。
「ま、今日台所に立つのは長じゃなくてお前だけどな! 黒緋!」
「えぇ!?」
今日ここに来てからの黒緋さんは驚きが止まらないようだ。
連行の意味が解った俺は物騒な事には絶対にならないな、とほっと一息ついて、カップを傾ける。
黒緋さんは叱責されて降格か妖魔堕ちして鬼国帰りを命じられると思っていたみたいで、俺も俺で連行の結果で処分が確定すると知ってからソワソワが止まらないでいる。
俺も、俺次第、の意味が解らなくて密かにドキドキしたままだ。俺の一言で何が起きるのか? きっと悪い事は起きないと思うけど……そう信じたいだけかもしれないし。
難しい表情 をしているのは二人だけ。
他のみんなはいつも通りの和やかなティータイムを楽しんでいる。
……俺次第って、どういう意味だろう?
うむむ、と唸っていると音もなくテーブルにカップを置いた縹が黒緋さんを促しいていた。
朱殷を筆頭に部屋を出て行く黒緋さんの背中だけが緊張で硬 っているのがやたらと印象に残った。そんな彼を、俺は柚葉の膝の上から見送るしかできなかったのだけれど、そっと髪を梳いてくれる柚葉からは、大丈夫だよ、と安心させる気が流れ込んでくる。
柚葉がそう思うなら、俺は信じて待つだけだ。
しばらく何やらガヤガヤとしていたキッチンから仄かに優しい香りが漂ってきて、思わず柚葉を振り返る。柚葉はいつもの優しい声音で
「どうやら鍋らしいぞ? 楽しみだな? 酒はもちろん熱燗で……いや、最初は冷酒も良いな? 紫苑にはまた新作の果実酒だか、花酒だかがあるらしいから味見を頼むな」
なんて笑っている。
つい、生唾を飲み込み、腹の虫がぐう、と鳴った俺は自分の食い意地に呆れながらも夕食が楽しみで仕方ない。
「黒緋さんも、一緒に食べるんだよね?」
「そうなるな」
大好きな鍋を一緒に囲める人がまた一人増えた事も俺の楽しみを倍増させた。
「紫苑?」
「あ、解っちゃった? 楽しい、を共有できる人が増えるって、なんか嬉しくってさ。俺、友達も少なかったし、あの家じゃ友達呼んで鍋パーティーなんて絶対無理だったしさ……」
数少ない友達を招く事も、招かれる事にも良い顔はされなかったから、俺は……立場の問題があったとしても、嬉しさが勝ってしまう。
「……やっぱ、良くない?」
恐々と聞く俺といつもの柚葉。
「紫苑がそんなに楽しみに思うなら、良い事なんだろうと思うよ?」
違いもわかっているみたいだしね、と付け加えた柚葉はそっと俺の首筋に顔を埋めた。肌が吸われる感覚がする。
恐らくこれは、牽制。
そんな必要なんてないのにね。でも逆の立場だったら、俺もやっちゃうかもしれないな、なんて柚葉を笑えない独占欲と所有の証を求める自分に気付く。
「我慢だかんね!」
淫靡な香りを纏った柚葉の気配に慌てて目の前の黒髪に額を埋めた。
「……かなり良い音がしたけど、大丈夫? 紫苑?」
「へへっ、ちょっと痛いかも」
視線を合わせて笑い合う。
キッチンの方もなんだか大騒ぎで楽しそうだ。
きっと今夜も良い夜になるに違いない、よね?
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