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第七十話 沙汰通達
そろりそろりと大きな土鍋を摺り足で運ぶ黒緋 さんを他所に、白群 と縹 はテキパキと肉や野菜を溢れんばかりに盛られた大皿を運んでいる。驚く事に朱殷 でさえ取り皿や箸などを真面目な表情 をして運んでいた。
「あ、俺も手伝う!」
「滅相もございません! 伴侶様は準備が整うまで、今暫く! 今暫くお待ちいただきたく存じます!」
真顔の黒緋さんに制されて、俺はどうしたものかと柚葉 を見上げた。
「頷いておけば良いよ……黒緋からしたら、紫苑 を動かすなんて切腹モノだ」
「大袈裟すぎるよぉ」
「ま、今夜で今後の接し方を見極めても良いかもな」
ぽん、と頭に置かれた掌の温かさに、何を見極めるの? と疑問が増える。
「ん? 本性見極めるには食事時が一番だろう? 酒も入るしな」
確かにそうなのかもしれない。酔った時の言葉が本音だって聞いた事はあるし……。
しかし俺は十七でここへ来たし、柚葉達はみんな酒豪で乱れたところなんて見た事もない。せいぜいテレビかネット動画で見た事があるくらいだ。
……テレビ番組の酔っ払いさんは、すんごい暴れてたなぁ……
もし……もし、黒緋さんがさっき言った言葉と真反対の事を言い出したらどうしようかと不安になる。
どうかそんな事にはなりませんように、と願うしかなかった。
「ふふ、安心しろ。黒緋が大虎になる事はないよ。あいつも酒強いからね。ただ気の抜けた席で見せる本当の顔っていうのは気になるな」
俺の前では誰もが顔を作るからな、と呟いた柚葉はどこか楽しそうで、どこか寂しそうだった。
鬼神の頂点に立つは冷酷無慈悲、鉄面皮の頭領、とは朱殷談。
俺が知っているのは礼儀正しいけれど、お酒が入ると楽し気にどんちゃん騒ぎをする鬼神達 だけれども……過去の柚葉の事を思えば、彼の前でこの前のようなどんちゃん騒ぎができていたかは疑問だし、それに今回は黒緋さんは上位のメンツに囲まれての酒宴。緊張はすごいのだろうな、と指示を出されて素直に従っている黒緋さんの気持ちが少し解るような気がした。
俺も初めて鬼国入りした時は内臓が口から出そうなくらい緊張したし。
「俺ってまだ怖いのかなぁ?」
「今回は特別でしょ……だってみんな宴会で楽しそうだったし、柚葉を怖がっている気配はなかったよ?」
うーん、と唸っている柚葉は俺の髪をクシャリと掴むように乱暴に撫でると、小さく笑った。
「紫苑効果、抜群、だな」
「俺なのー? 俺はみんなに助けられてばっかりなのに?」
「んー。そゆとこ、かなぁ」
どういうとこ? って聞きたかったんだけれど、そのタイミングでにっこにの顔をした朱殷が部屋に入ってきた。
「準備できたん! 長 、紫苑。早よ、食べよ?」
「解った、ゆっくりさせてもらったしな。ありがたくいただくとしよう。行こう、紫苑」
「良い匂い! めっちゃ楽しみ!」
宴会場から漂ってくる鍋の匂いにお酒の匂い。腹の虫が騒ぎ始めるのが解った。
「天翔 達も集まってーん!」
口に両手を添えて大きな声を出す朱殷はハイテンションで、今夜の食事が相当美味しくできたんだろうな、と予想がついた。
「うふふ、寄せ鍋にしゃぶしゃぶにお刺身に唐揚げもあるん!」
「マジ!? めっちゃ楽しみ!」
「あ、ハンバーグもあるん!」
「なぁ、その組み合わせはアリなのか?」
「美味しかったら正義なん!」
「美味しい物はなんでもみんなで食べたら、もっと美味しいよね!」
朱殷と俺の勢いに押されたのか、柚葉は苦笑いを溢す。
「それにな、長。この食事で黒緋の沙汰が確定するやろ?」
「ああ、そうだったな。上手く事は運んだか?」
「んふふ。その答えがとぉっても楽しみなん!」
はしゃぐ朱殷の肩をポンと叩いた柚葉は、その行動だけで、ちゃんと解っている、と伝えているようだった。
「長だって、絶対、ぜぇーったい箸が止まらんくなるん! はなちゃんのお酒もたーっくさんあるしな! 楽しみ!」
「黒緋、潰すなよ?」
「ありゃ……んでも、黒緋はなかなかに強いから、潰れんと思うん」
軽い足取りの朱殷に続いていつもの宴会場に行くと、もういつでも始められる様に整えられていた。
定位置で寛いでいる飛影(ひかげ)達。
何故か、部屋の隅で正座の黒緋さん。
……なんだろう? シュ、シュール、だ……
入ってきた俺達に気付いた黒緋さんは再び座礼で迎えてくれた。
頭領に対して、は解るんだけど……なんだか嫌だなって思ってしまう。この感情はきっと人間の頃の名残で、でも多分いつまでも俺の中に残ってしまうモノ。
「……紫苑、それで良い。そんな紫苑が愛おしい」
「ちょ! 恥ずかしいってば! 解って言ってるでしょ? 意地悪!」
「嘘はなし、嘘は通じず、なんだから仕方ないだろう? おい、黒緋。お前も席に着け。食いっぱぐれるなよ」
柚葉の音頭で始まった食事会。
当然いつものように俺と朱殷の争奪戦もあり、その間に俺の分のお刺身を確保してくれる柚葉を見て、黒緋さんは驚きすぎて箸を落としてしまったみたい。縹から新しい箸を渡されて、頭を下げている姿が見えたけれど、気にしたら負けって言葉もしっかり聞こえたからね! あとで縹に特別美味しい花酒をブレンドで作ってもらわなきゃ!
食事も終盤、鍋の底が見えた頃ーー朱殷がすっと立ち上がったかと思えば、静かに俺の前に座った。
目はとても真剣で、冗談を言いに来たわけでもなければ揶揄いに来たわけでもなさそうだ。ついでに鍋の〆はうどんか雑炊かを聞きに来たわけでもなさそう。そんな改まった様子に思わず箸を止め、見つめ返した。
「美味しかった?」
「へ?」
用意された物は今はもう俺の腹の中。途中で追加注文までしてしまったのだから、何を言い出すのかと思い、再び朱殷を見る。
「あんな? お鍋のツクネさん、どうじゃった? あとハンバーグ」
「美味しかった! おかわりしちゃった! え? なんでそんな事聞くの?」
「実はな……私は今日、紫苑を欺いたんじゃ……お鍋にもハンバーグにも、紫苑が嫌いじゃって言うとった高野豆腐が使われとるん。あ、茶碗蒸しにも」
目の前の、空になった器を見る。
ハンバーグ、美味しかったなぁ……。銀杏は絢風 にあげちゃったけど、茶碗蒸しも美味しかったなぁ……。
「いやいやいや、嘘でしょ! 絶対ウソ!」
「嘘ならもっとどでかい嘘をついて二人の腰を抜かしてみせるん! いや、そうじゃのうてな? ワケがあるん」
言いにくそうに言葉を濁した朱殷に代わって、白群が至って簡潔に答えをくれた。
「黒緋から話を聞いた時に思ったんだ。紫苑が人間だった頃を考えても、きちんと手間暇かけて調理された高野豆腐を食った事がねぇんじゃねぇかなってな」
「きちんと……手間暇……」
あの頃は父親はいつも遅くて、いつもビニールのかかった、いつ買ったのかも怪しい冷えたお惣菜が並んでいたはず。
「あ、ああ……そ、かも……?」
「違うん! 紫苑を泣かせとうてこんな事したんじゃないん。あんな? 黒緋が言うたん。やはり匂いや食感が口に合わないと言われれば仕方なし。しかし、本当の味をもし知らぬのであれば……って」
「想いのこもった料理は違ったか? 紫苑?」
そう聞いてくる柚葉は子供の頃の俺を知っている。当然、ダイニングテーブルにポンと置かれた冷えた白米と、温めて食べなさいというメモの事も知っている。
「……うん。違った」
涙が出そうになるのを必死で堪えた。
また一つ、過去の傷が覆われてゆく。
「ちゃーんと下拵えしたら、紫苑の敵の高野豆腐は味方になったろ? いやー、めっちゃ刻んだわ、黒緋が」
「え?」
「あ、あの大きな肉団子の餡掛けに混ぜる時に、少しでも口触りが良い方が、と思いまして……差し出がましい事をいたしま」
「黒緋さん、ありがとうございます! 俺が食べた事があったのは……」
「あれ、腐る寸前で半生芯あり、だったからな!」
「んええええええええ!」
さらっと落とした柚葉の爆弾発言に、誰よりも大きく、なんなら悲鳴に近い声を上げたのは、端っこで小さくなっていた黒緋さんだった。
「長、それを伴侶様に……?」
「いや、さすがに食わせられんのんでな。差し替えた、が遅かった」
「美味しくない、嫌いって刷り込まれちゃったみたい?」
申し訳なくて疑問形になってしまう俺を、目に涙を溜めて黒緋さんが見る。
いやぁ、そんなこともあったなぁ、ってとみんなに言う俺を朱殷が抱きしめて、柚葉と頭上でいつもの言い合いをし始めた。
「そのお話を伺って、この黒緋、朱殷様の命令の意味を痛感いたしましてございます!」
「うんうん」
「食後の甘味は、高野自慢の和菓子でございますぞ、伴侶様!」
「やった! お茶々淹れよ」
「伴侶様は、無骨で物知らずな我々に新しい光景を見せてくださった! そんな伴侶様が……この世にはたくさんの旨き物がございます。その様な理由でお口にできぬのは勿体なさすぎて……いけません! いけません!」
「美味しいんは正義なん」
朱殷の合いの手に気付いていないのか、あえての勇気ある無視かは判断がつかないくらいに黒緋さんは吠えていた。
ぽかんとする俺の手を優しく突いた絢風がそっと耳打ちしてきた。
ーー幼児の紫苑様を想って、止まらぬ悔しさの気が溢れておりますーー
もう収まるまで放置ですね、と言う絢風に飛影の影響が見えた気がした。
興奮冷めやらぬ黒緋さんを無視して、朱殷がみんなにお茶を配る。
朱殷は黒緋さんの前にお茶を置く時、軽くゲンコツを落としていたけれど、見るからに優しいゲンコツだった。そのゲンコツと目の前に置かれた良い香りの煙が立ち上る湯呑みを見て、黒緋さんは前のめりだった姿勢を正して、俺達を見た。
「あの、さ、沙汰は? いかなる沙汰が下っても、我が身の不始末。なんの文句もございません」
食後のお茶に手をつける事なく、どこか覚悟を決めたような黒緋さんの声が届く。
柚葉は口の端を微かに上げると、無言で視線を俺に移した。
「黒緋さん、高野はもう嫌ですか?」
俺の問いに、大きく首を横に振って
「とんでもございません! 穣安 殿とも仲が深まり、今では良き飲み仲間となっております……私は、高野を離れたくありません! しかし!」
膝の上で拳を握る黒緋さんが言葉を続ける。
「長と伴侶様や、飛影殿達にまでご迷惑をおかけしたのも事実。今回の事にて申し開きはございません。全て我が身の力不足、不甲斐なさが招いた事と存じます」
そして頭を下げた。
そのまま首を刎ねられても構わない、という気概を感じた。
管理者である事の責任からなのか、鬼神の矜持か俺には解らない。解らないけれど……。
ことん、と静かに湯呑みを置いた柚葉が息を吸う音が聞こえた。その音に合わせて、黒緋さんの指先が畳に食い込んだ。
「此度、神殺しは成らず、山は守られ、子供達は再び長き眠りについた。それにお前も一緒に遊んでくれたしな。これは紫苑の意見でもあるが、この一ヶ月四人で話し合った結果だ。お前を処罰する必要も降格して鬼国戻しにする必要もない。必要があるとすれば、高野をよく知るお前が引き続き守護してくれるのが良かろうと答えが纏まっていた。再び高野を守れ。これが沙汰だ。文句は言わさん。以上」
「は? え?」
「高野を守れ! 以上!」
「は! この生命に代えましてもや必ず!」
柚葉の頭領としての言霊に黒緋さんは畳にのめり込みそうになりながら、部屋中に響く大声で返事をした。
「慣れん手付きで一生懸命にお豆腐刻んでくれたんは黒緋じゃし。そう簡単に死なれたら困るん。それに、まだあるん」
「ああ、茶請けにちょうど良いし、今配ろうか。黒緋厳選、高野の栗きんとん」
「なんと! 私の大好物なのだ! 早くいただきたいのだ! 白群殿、早く早くぅ!」
一気に賑やかさを増した中、黒緋さんは姿勢を崩さない。
「黒緋さん、まだ数回しか会っていない俺の……昔話にあんなに怒ってくれてありがとうございました。嬉しかったです」
こんな時だ。本音を言っても構わないだろうと勝手に判断して話しかけると、柚葉の腕が伸びてきてガッチリと肩を抱かれた。
「頭を上げよ。お前一人だけ辛気臭い! 茶は楽しむものだろうが!」
「はいぃ!」
柚葉の勢いに釣られて頭を上げた黒緋さんの目にはうっすらと涙が浮かんでいるような?
「皆様方の寛容なお心に感謝し、今後はご期待を裏切らぬよう……」
「黒緋、お茶々飲も! 栗きんとん、楽しみなん。あ、また高野豆腐買うて来てくれる?」
「もちろん! 穣安殿にも色々と食べ方を聞いてみましょう!」
栗きんとんに大騒ぎの飛影達の声を聞きながら、黒緋さんは目を輝かせた。
一気に和やかになった部屋で、柚葉に抱き寄せられたままなのをいい事にそっと耳打ちしてみる。
「ねぇ? 俺次第ってどういう意味だったの? 俺、ずっと降格も左遷も反対って言ってただけだよね?」
いたずらっ子の表情 をした柚葉と至近距離で目が合う。
「んー。俺達もそのつもりだったんだけどね。せっかくだから黒緋の選び抜いた高野豆腐を使った料理で、紫苑が美味いって言ったら確定ってことにしただけだよ」
ふふ、と笑う柚葉の顔はやっぱりいたずらっ子のままだった。
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