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第一話 鬼ごっこ

 街外れの森の中にある廃墟の洋館。  持ち主が次々と不審死を遂げている、とか。  入ったら呪われる、とか。  蝋燭の灯りと人影が見える、とか。  真夜中に悲鳴が聞こえる、とか。  そんな噂のおかげで、季節を問わず心霊スポットとして人気らしい。  確かに街灯もなく真っ暗で雰囲気はあるし、外観は(ツタ)が絡まって、窓ガラスにヒビが入っていたりでなかなかに不気味だ。  不気味だけど、心霊スポットにありがちなスプレーで描かれた落書きやポイ捨てされたゴミは一切ない。 それは…… 「ああ、来たの?」  目ざとく俺を見つけて微笑むこの男が綺麗好きで掃除を欠かさないから。 「……そういう契約だから……」  視線を足元に戻せば、空気が冷えたような気がした。 「契約……そうだね、そういう契約だ」  笑っている、はずなのに氷のような声が俺を包む。  怖い……。  いつも怖いと思うし、もう来たくないって思うのに……。  三メートルは離れていたはずなのに一瞬で距離をつめて俺を抱きしめるこの男。 「紫苑(しおん)、おいで」  耳朶を舐めながら甘く低い声で囁かれれば、俺は途端に男の肩に頬を乗せてしなだれかかってしまう。  そしてこれから自分の身に起こる事を予想して身体を熱くさせてしまう。  嫌なのに。 「中へ行こうか?」  ちゅく、と耳元で響いた水音に、勝手に口から期待を込めた溜め息が零れてしまう。それを唇を噛んで止めてももう遅い。くすりと男が笑う――解ってるんだよ――とでも言うように。 「マオ……」 「……何? 紫苑、言ってごらん」  ほらって囁かれると、口が勝手に動く。 「つ、連れてって……歩けない……」 「それから?」 「……た、食べて……マオが満足するまで食べて」 「ふふっ……いい子」  額に唇を落として、至近距離で俺を見つめる男は寒気がするくらいに美しい。  切れ長の目を縁取る長い睫毛。その中心にある深い緑の瞳。すぅっと通った鼻梁に薄くて冷酷そうな形の良い唇。  男も女も老いも若きも、簡単に虜にしてしまうだろう美貌にすらりとした体躯。  さすが、魔物、だ。 「紫苑? 部屋に着いたよ?」  もう着いたのか……ここはこの洋館の最上階五階の角部屋。マオの寝室。  噂では蝋燭の灯りと人影が見えると言われている幻の部屋。  悲鳴が聞こえると言われている部屋。  だけど本当は悲鳴じゃない……今の俺みたいに、自分でも信じられないくらいの高い声で喘ぎまくってるんだ。 「っあ……ひゃっんっ、あ、あマオ……マオ……そこ、イヤ、だぁ……!」 「本当? じゃあやめよう」 「あ……」  ずるりと体内から引き抜かれた指。喪失感に身体が震えた。  大きく開かされた俺の脚の間でマオが微笑んでいる。俺の口先だけの抵抗も解ってて愉しんでいる、いつものマオ。 「本当は? 教えて? 紫苑」 「……さっさと喰えば良いだろ!?」  俺はエサ。マオの食事。  欲望に塗れた人間の魂や生気が大好物の魔物(マオ)の食事。 「まだ。紫苑は美味しくなってない。さっき言ったじゃない? マオが満足するまで食べてって。今の紫苑じゃ満足なんてできない。ほら、早く美味しくなって?」 「あぁあっ!」  言い終わると同時に再びねじ込まれた指先が的確に俺のナカの欲望のスイッチを押す。  身体がびくりと大きく跳ねて、マオの顔に笑みが浮かんだ。  イきたい。気持ち良い。もっとして欲しい。  霞のかかる頭で必死にマオに乞い願う言葉を探す。その間も身体のナカを攻めるマオの指は止まらない。くちゅぐちゅと響く淫らな水音はマオがいつの間にか使ったローションなのか、俺の半身から溢れた先走りなのかそれとも別の何かなのか俺には解らない。 「あ、マオ、欲しいっイかせてぇ……!」 「あげてるでしょう? ほら」  ほら、と指があの場所を強く押して擦る。そうされると腰がびくんと跳ね上がり、マオの指をぎゅうと締めたのが解った。  頭の中はドロドロで、目の前の快感にだけ縋りつく。 「()れて! マオの……だ、抱いて。奥に……」 「奥に……?」  恥ずかしくて最後の一言を口にできない俺にマオの囁きは都合が良かった。  マオのせいにできる。  マオが言えって言うから、言っただけ。  裸に剥かれた俺は、震える指を必死にマオへと伸ばす。きちんと服を着たままのマオの目がすっと細くなり、口元に嗜虐的な笑みが浮かんでいる。その顔ですら美しいと思う。 「あ、の、マオ……奥に出して……」 「ん。良いね、美味しくなってきた」  くすりと笑うマオは器用に片手で俺を啼かせつつ、服を脱ぐ。  真っ白なマオの肌に触れたくて更に手を伸ばそうとした瞬間、マオの胸に新しい傷を見つけて胸が軋んだ。  爪痕……。  俺の視線に気付いたマオが、ちらっと自分の胸を見て何でもない事のように 「あぁ、一昨日のエサがつけたんだ。まだ治ってなかったのか……」 とさらっと言ってのけた。 「最近の女は爪を銀の粉や金の粉で飾り立ててるだろ? 本当うんざりする。諦めておとなしく喰われてくれれば良いのに」  溜め息混じりの愚痴に、胸の奥が騒つく。  急速に頭の芯が冷えていく。  一昨日のエサ。  俺は今日のエサ。  マオにとってはただの食事。補給。  ……来たくなかった……  自分の気持ちをどんどん自覚してしまうから。  ……怖い……逃げたい……  だってマオは俺じゃなくても良いんだろ? 腹が満たされるなら、肝試しにやって来るヤツでも、こんな雰囲気のある古びた洋館で一発ヤろうってやって来るヤツでも良いんだろ?  男でも女でも、何だって良いんだろ? 「ぅあぁっ!」  不意に身体を割いて挿入(はい)って来たマオの欲望に喘ぎになりきらない声が洩れた。  ぽろぽろと目から零れた涙をマオの舌がぺろっと舐めて、不思議そうに俺を見る。 「……どうしたの? 紫苑。さっきまでは美味しくなってたのに」  美味しくない……と呟いたマオの胸を押し返した。 「……抜けよ」 「紫苑? ココ好きでしょう?」  俺の弱いトコ……マオだけが知ってるソコを突かれて、零れそうな声を噛み殺す。 「い、イヤだ! 抜けよっ抜けってば! 好きじゃない! イヤだっ」  必死で身をよじった。暴れて、脚も使ってマオを押し退けた。  困惑していたマオが首を傾げて 「何? そういうプレイ?」  って言うのを無視して床に散らばった服を掻き集めてドアににじり寄った。 「マズいんだろ? じゃあ、俺じゃなくて良いだろ? 美味いヤツを喰えよ!」  怖い……殺されるかも知れない。  マオが俺に優しくしてたのは俺がエサだから、それを拒絶したら殺されるかも知れない。  でももうそれでも良い気がした。 「もう来ないっ! 契約なんて知るかっ!」  言い捨てて真っ裸で廊下へ飛び出した。  ドアが閉まる寸前、マオの声が聞こえたけど、振り返らずただ階下を目指して階段を駆け降りた。  似たような廊下に似たような階段に、似たようなドアがたくさんあって、古い洋館で俺は完璧に迷ってしまった。  マオの部屋から飛び出して、真っ先に目に付いた階段を駆け降りて、マオが追いかけて来ない事に安堵と虚しさを感じながらとりあえず服を着た。  それから途切れた階段の先を探して長い廊下を歩いて、右に折れて見つけた階段を降りて、また階段の続きがなくて、探して……。  いつもマオが一瞬で運んでくれるから、中がこんなに込み入っているなんて知らなかった。 「くそ、多分今三階……だよな……」  右に折れて、左に折れて……でも階段は二度降りた。だから今三階のはず。  三階のはずなのに、どこにも廊下がない。正確には下へ降りられる階段がない。  どこかのドアの向こうに隠してあるんだろうか?  ……何の為に……? 「お前、どうやってここへ入った?」 「ぅわっ! 痛っ」  背後に立たれた気配すら感じなかった。 いきなり肩を掴まれた時はマオに見つかったんだと思った。髪をむんずと掴まれて、無理矢理体勢を変えられた時に初めてマオじゃない男だと知った。  この屋敷にマオ以外の男がいるなんて知らなかった。 「……へぇ? こりゃあまたずいぶんと……」  間近で俺の顔を覗き込む男がうっそりと笑う。 「美味そうに絶望してんじゃねぇか」  男の濡れた舌に頬をゾロリと舐め上げられて、全身に鳥肌が立った。  ……何の為……  そんなの決まってる。  エサを逃さない為。 「は、離せっ!」  この男はマオとは違う。  雰囲気が、目の色が……上手く言えないけど、全部が。  危険だ。  殺される……と思った瞬間、男の手が髪から離れた。そして男は俺の身体を突き飛ばして……。 「いーち。にーい。さー……どうした? 逃げたいんだろ? 逃げろよ、鬼ごっこだ。百まで数えてやる」  そう言うと笑いながら数をまた数えだした。  俺は全力で走って、廊下の突き当たりを曲がった所にあるドアを開けて、立ちすくんだ。  血……黒ずんだ古い物と、まだ赤い新しい物。床に散らばる引き千切られた元は洋服だったと思われる布切れ。切れたネックレス……。  逃げなきゃ、殺される。  数を数える声は楽しそうで、俺は次々と手当たり次第にドアを開ける。  ドアを向こうに階段がある事を願いながら。 「階段……どこ……階段……」 「ねぇよ、んなモン」  突然の耳元での囁きにおおげさな程ビクついた。  あの男がにやにや笑いながら俺を見ている。 「声が聞こえねぇんじゃつまんないだろ? ほれ、再開だ。よんじゅーはーち、よんじゅーく、ごじゅーう」  再開されたカウントにまた俺は走り出す。  来た道を戻って……戻ってどうする?  本当に階段はないのか? おかしいだろ、そんなの。  どうやって階下に降りるんだ? エレベーター? 俺が知らないだけでエレベーターがあるのかも!  四階まで戻って、ドアを開けていく。血痕も殺戮の痕跡も残されいない、ただの空き部屋があるばかり。  焦っていた。さっき五十だった。そろそろもう百に近いはずだ。  階段の軋む音に、とっさに手近な部屋に身を滑り込ませ、唯一の家具であるソファの陰に身を潜めた。  心臓の音がうるさい。バレたら……バレたら……。 「もう良いかぁい?」  叫び出しそうな口を両手で押さえて、できる限り呼吸を整えた。 「お前、美味そうな匂いがプンプンしてんだよ。隠れてても解るぞ〜」  嘘だ。騙されるな。その証拠にドアの前を素通りしたじゃないか。  もし騙されて少しでも物音を立てていたら危なかった。  大丈夫、バレてない。あとはあいつが廊下を曲がった辺りで外に出て……。 「見ぃつけたぁ〜」  べろりと耳を舐める舌と、顔にかかる息に思わず顔を向けると同時にその場に押し倒された。  一気に血の気が引く。ガタガタと情けなく震える身体を必死に動かして、どうにか拘束から抜けようともがくけど、男の力は強過ぎた。 「た、助けて……」 「はぁ? ここはお化け屋敷、なんだろ? お前もお化けに会いに来たクチだろうが。良かったな? 念願のお化けに会えて」 「違う……俺は違う!」  のしかかる重さもマオとは違う。男は楽しそうに笑って俺も違う、と言った。 「俺もお化けじゃねぇけどな」  ガリッと肩に喰い込む固さと熱さ。後から来る痛み。  俺の絶叫を愉しむように肩から口を離した男はわざとらしく舌舐めずりをして、今度は音を立てて肩から溢れる血を啜ってみせた。

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