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第十三話 心寄り添う

 ちゅ、と柚葉(ゆずは)の唇が俺の目尻から涙を吸い出す。 「少しは、不安は消えたか?」  柚葉の方が不安そうな顔付きで、俺の髪を撫でたり頬を撫でたり、涙を吸ったり額にキスしたりで何かと忙しそうだ。 「白群(びゃくぐん)から聞くまでは何人でも同族にできるって思ってたけど……でももう平気!」  へらへらと笑ってしまうのは仕方がないと思う。  だって柚葉は俺のモノなんだ。  ちゃんと聞いたよ、ちゃんと聞けた。あとで白群に報告した方が良いのかな? 「俺、ちゃんと鬼化(きか)できるようにがんばるから……もうちょっと待ってね」  そう言うと柚葉は穏やかな顔で笑って 「十年……いやもっと長い時間を待ったんだ。しかもこれからはずっと傍にいられる。焦る必要はないよ」  と俺の頭を抱えて、角の生える部分を親指で愛し気になぞった。  それでも、と思わずにはいられない。  早く自分の意志で鬼化して柚葉を安心させたいし、我慢させたくない。 「俺も……聞きたい事があるんだが……良いか?」 「うん?」 「その、俺も朱殷(しゅあん)に言われてな。ちゃんと聞けって。その時に言われたんだ、ヘタレって」  苦々しく笑う柚葉は言いにくそうに言葉を選んでいるようだった。  もし俺達が朱殷と白群なら、お互い言いたい事を言い合えたと思う。いや、言葉にする前に解ってしまうのかも知れない。  でもそれは連れ合い歴二百年のなせる技だと思う事にした。  俺達は俺達のスピードで。  ヘタレ同士だからすごく遠回りしたり、時間がかかったりするだろうけど、二人でならきっと大丈夫。 「何?」 「うん……あの、な? あの、俺に抱かれてる時……俺が愛してるって言うと……いつまで? って言うのは何故だ? 言ってるってのは覚えているか?」 「あ、えーと、だって、鬼化も満足にできないんだよ? いつ愛想尽かされるんだろって……他の人のトコに行っちゃうんじゃないかって……取られちゃうって……」  怖くて、と呟いた俺を抱く腕に力を込めた柚葉が深い溜め息をついた。 「ホントに俺はダメだな。なんにも伝えていなかった」 「だから柚葉がずっとだって言ってくれると嬉しくて、安心して……あとはワケが解んなくなっちゃう」  俺の涙で濡れた柚葉のシャツに頬を寄せて、あの時を思い出して赤面する。  柚葉が俺のナカに挿入(はい)ってる間だけは確実に柚葉は俺だけを求めて俺だけを見てくれる。  白群から聞くまでは、俺にとってはその瞬間だけが柚葉を完璧に独り占めできる時間だったって事で。 「色々とおかしな事になったが……やり直したい。本当は紫苑がちゃんと高校を卒業するまで待つつもりだったんだ。ここに来た以上手放すつもりはなかったから、それまでにがんばって口説き落とそう、と。が、まぁ、あの下級妖魔のせいで色々と手順が狂ったが……これからは俺と生きてくれ。朱殷と辰臣(シンシン)のように、連れ合いとして。だから不安な事は聞いて欲しい……俺も言うから。愛してるんだ、失いたくない。承知してくれ」  こくっと鳴った柚葉の喉。  俺からの返事を待っている。  俺の返事なんて決まってるから、その前に一応言っておいてあげないと。 「あのね、柚葉……白群の事なんだけど」 「んん?」 「シンシンって朱殷だけが呼ぶ人間だった頃の名前をもじった渾名なんだって。でもパンダみたいで恥ずかしいって言ってたよ? 柚葉は(おさ)だから言いにくいのかも……」 「うん、で? 紫苑? そんな事より、返事は?」  そんな事って言っちゃう柚葉の目は真剣そのもので、ドキドキする。  百年先も二百年先もこの綺麗な鬼神は俺をこんな熱い目で見てくれるんだろうか? だとしたら……そう思うと身体が熱くなってきてしまう。  鬼の性だな、きっと。 「ずっと柚葉と一緒が良い」  俺の頭より十センチは上にある柚葉の唇に目標を定めて、ちょいっと背伸びをする。軽い音を立てて、触れるだけで離れた唇を、思わずといった感じで柚葉の指が押さえたのがやけに可愛く見えた。 「あいつら、昼飯は抜きだ」 「えっ! それはヤバいと思うぅ……」  抵抗らしい抵抗もせず、あっさりと柚葉の舌の浸入を許した俺も腕を伸ばして柚葉の首に絡めてすがった。  子供の頃から厄介者扱いで、こんなに惜し気もなく愛情を向けられた事のない俺には柚葉のくれる真っ直ぐな言葉や行動は、今まで知りもしなかった最高級のご馳走のようで簡単には拒めない。 「っん、ぁ、ゅ……」 「ん? ここじゃ寒いか?」  寒いか? と聞いておきながら、もう俺のシャツのボタンはほとんど外されて、ゆっくりと煽るように柚葉の指がむき出しの胸を這う。  ジリジリと焼けるような、快感を期待する焦燥感に理性が切れそう……。 「あ、待って……二人とも、ご飯待ってる」  なけなしの理性を総動員して胸を弄る柚葉の手首を掴むと、欲情に目を光らせた柚葉が不服そうに溜め息をついた。  緩く芯を持った胸から指が離れ、パパッとシャツの前を合わせられると、自分で拒んだくせにどうしようもなく寂しくなった。  まさか今更止めないでとも言えず、連れ帰ってもらう為に再び柚葉の首に腕を絡めた。 「愛してる、紫苑」 「っふぁ……んっ」  耳朶甘噛みしながら色気たっぷりの声で囁くなんて反則だろう……ぞくりと全身に走った微弱電流に吐息が洩れて、慌てて唇を噛む。  俺も柚葉も“おあずけ”の覚悟を決めたばかりなのに、快楽と愛情に弱い俺のせいで振り出しに戻ったら意味がない。 「可愛い、な……紫苑」 「いや、そんな事ない」 「もう耐えなくて良い。何も我慢もしなくて良いんだよ?」 「ってそんな事言って、今は我慢しなきゃだろ!」  照れと甘い誘惑にホイホイ乗ってしまいそうな自分をごまかす為に柚葉の腕の中でジタバタ暴れれば、楽しそうな柚葉の声がまた耳元で聞こえる。 「我慢……したぞ? かなり。でも、まぁシンシ、白群はともかく朱殷はうるさそうだな?」  くつくつと笑う柚葉は俺の頭を抱え込んで顎を乗せてグリグリして俺で遊んでいる。 「怒ると怖いんでしょ? 柚葉の次に強い人なんでしょ? 白群一人で止められるかな……? ちょ、柚葉、顎……頭痛いよ?」 「すまん。つい可愛くて。しかし今は何時だろう?」 「んー多分十二時は過ぎてるよね……けっこう話し込んじゃったし……あ! 作るのメンドイとか思ってる!?」 「ご名答!」  あはは、と笑った柚葉に抱えられて五階に戻ると、派手な音を立ててドアが開いた。 「長! ちゃんと言うた!? 紫苑? 大丈夫?」  駆け寄って来た朱殷はじぃっと俺の目を覗き込み 「長、言葉足らずじゃなかった? ちゃんと納得できたん?」  と心から心配してくれている。  俺は朱殷に頭を下げて、まだ鬼化はできないけれど大丈夫だと伝えた。  俺達は俺達のスピードで、ちゃんと向かい合う。  それを聞いた朱殷はにっこりと笑って 「そんなすぐ鬼化できんでも良いやん。大丈夫やって! そのうちできるて! なぁ辰臣?」  パッと白群を振り返った朱殷の肩を抱きながら、白群は眉根を寄せた。 「そんな簡単に言ってやるな。紫苑はそれで真剣に悩んでいて俺達は呼ばれたんだぞ?」 「じゃって! なんの為に長がおるん? この人ヘタレやけど、それでも長よ? 紫苑に下剋上しかけようとする阿呆(あほう)なぞ、一瞬で消すわ!」  下剋上と聞いて思わず唾を飲み込む。  俺は弱い。  俺を殺しかけたレベルの妖魔にはまだ対抗できても、鬼化できないから腕力でも妖力でも鬼神並みの力を持った(あやかし)や俺を快く思っていない同族には確実に負けてしまうだろう。  それじゃダメなんだ。  柚葉に心配をかけてしまう。  黙り込んだ俺を抱く柚葉は、子供をあやすように俺の頭を撫でると 「確かに心配は要らん。要らんが余計な不安を与えるな!」  と朱殷を軽く睨む。 「ホントの事じゃろ? 辰臣から聞いたんよ? 紫苑は結界が得意て。ベランダの窓の結界張ったんは紫苑じゃろ? あんな綺麗で緻密なん、辰臣はよう作れんよ? 紫苑、すごいなぁ!」 「……俺は実戦主義なの!」 「長の力と紫苑の結界。充分じゃん。あ、でも心配なら紫苑が鬼化できるようになるまで館全体まるっとドームみたいに結界でガッチガチに覆っとたら良いわ」 (うえ)から入って来た経験を踏まえての朱殷の提案に素直に頷いた柚葉だったが、思い出したようにそれはできない、と言った。 「飛影……あいつは空から来るからな……でも、うん、そうだな。紫苑の安全を考えてちょっと色々試してみよう」 「んでな? 紫苑?」  ちょいちょい、と俺を手招く朱殷はおかきでも入っていそうなアルミ缶を背後から取り出して、開けて? と言ってきた。 「なっ! お前、やめろバカ!」  途端に慌て出した柚葉に朱殷は臆する事なくシレッと言葉を返す。 「バカはないんじゃないん? お茶だけで摘む物もないし、ご飯もまだじゃし。こんだけ結界でガードしとるっちゅう事は長のお気に入りじゃろ?」 「違う! 菓子じゃない! 腹が減ったならもうこの際食いに出よう! な? ちょっと遠くまで出れば紫苑を知る人間もおらんだろう? そうしよう! な!? 奢るから! ステーキか? 中華か? 中華はなかなか自分で作るのは難しいからな! エビチリとかな、そうだ朱殷、美肌の為にフカヒレも食え! な!?」  怪しい……こんなに慌てふためくなんて……。  じとーっと柚葉を見上げると、そこには鬼神の長の威厳なんてどこにもなく、ただ顔を赤くして慌てる柚葉がいるだけ。 「じゃ、柚葉、何が入ってるの?」 「いや、それは」 「あ。解った! えっちいヤツじゃ! そじゃろ? 紫苑をその手に抱けぬ間……うんうん、隠すのも捨てれんのも男の性じゃ」  大納得! って感じで頷く朱殷に対して白群は憐れむような目で柚葉を見ている……という事はビンゴなのか?  まあ、いくら鬼神と言っても俺とスる事はシてるワケで……欲望に忠実なんだから、そりゃ……責められないな、とは思う。  となると、中が気になるのは仕方のない事だと思う。こんな結界で封をしているくらいなんだから、余程のお気に入り……か? 「違う! 紫苑違うから! 朱殷が言うようなモノではない!」  しどろもどろで目元も耳も首も真っ赤。そして必死な柚葉の姿に、俺はふぅっと息を吐いた。 「朱殷、それ柚葉のだから返してあげて?」 「気にならんの? 中。もし辰臣が私に内緒でえっちいの持っとったら、私やったら許せん。独り占めはないわぁ! 一緒に見て一緒に楽しみたいやん?」  はあぁ、と俺と白群の溜め息が重なった。  色々ツッコミたいけれど、今はあたおた真っ最中の柚葉が最優先だ。 「こんだけ必死なんだから、朱殷の期待してるえっちいヤツじゃないと思う。でも柚葉の大切な物だろうからさ。返して?」  差し出されたアルミ缶を朱殷から取り上げて柚葉に渡した。 「はい。大事なんでしょ? 簡単に見つかっちゃダメじゃん」 「し、おん……?」  中身? そりゃ気にならないと言えば嘘になる。  でも柚葉の大切な物なら、ここで封印を解いて開けてしまうのは本意じゃない。  いつか封印を解いて見せてくれる日が来れば良いなとは思うけど。  大事そうにアルミ缶を抱える柚葉を見たら、そんな事も言えなくて、俺は柚葉を見上げてただ微笑んだ。 「ね? どこまで出かけるの? 相当遠くまで行かないと、俺、今失踪人だよ? 捜索願とか……」  対外的には“理想の家庭”で、ご近所さんからの印象もすこぶる良い。 そんな“理想の家庭”の長男が行方不明になったんだから、形だけでも警察に捜索願出したり、ビラを配ったりはしているだろう。 「じゃったら、どうしよう? 隣の隣の隣の県辺りまで行けば大丈夫じゃろか?」 「まぁ最悪バレたら妖力で記憶を改竄すれば良い」 「さっすが辰臣! あったまいー!」  フッカヒレ! と騒ぐ朱殷は 「フカヒレじゃろ? エビチリじゃろ? 燕の巣のスープ……はええわ。んーと中華風ステーキに小籠包……もういっそ本場に行く? この間雑誌で見たん。台湾スイーツが熱い! て。マンゴーのヤツ、食べてみたい。紫苑は? 台湾行った事ある?」 「ないけど」 「じゃったら行こ! 辰臣、天翔(てんしょう)呼んで? 良いやろ、長?」  テレビでセレブな方々が 「やっぱり本場のお味は違いますから〜」  なんて言っていたのを思い出す。  金持ちってすげぇなって思ってたけど、鬼神もすげぇな。  行くんだ、台湾……。  マンゴーって秋の終わりにあるっけ? あれ? そういうのはちゃんと確保してあるのかな?  うーむと悩む俺のマンゴー問題を朱殷はあっさりと吹き飛ばす。 「紫苑? 行きたない? 新婚旅行じゃよ?」 「しっんこんりょこおぉ?」 「そ、そ。新婚旅行、ハネムーン! 二人ともお互い納得で連れ合いになったんじゃろ? お邪魔はせんよ? ちゃんと三歩離れて歩くし!」  ただお財布は長やよ? と可愛らしく無邪気に微笑む朱殷はやっぱりお人形さんのように見えた。

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