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第三十五話 悪魔は愛を乞い願う

※柚葉視点になります  ズタズタになった翼から弾丸のように繰り出される羽根が空中で小さな悪魔へと姿を変える。  背後からちらりと紫苑(しおん)の様子を覗き見れば、ずいぶんと哀しそうな表情(カオ)をしていた。  こんなヤツの為に、紫苑が哀しむ事などこの俺が許さない。 「紫苑は優しいな。相当手加減したようだ。その傷なら戦えるだろう?」 「紫苑は優しい? 紫苑紫苑紫苑! なんで僕じゃないの? 僕じゃダメなの? 力だって引けをとらないのにっ」  まるで子供だ。  地団駄を踏んで悔しがり、なんでなんでと繰り返す様は見ていて痛々しい。 「愛していない。俺は紫苑しか愛せない。それが答えだ」 「……僕の方が貴方と近い闇の中で生きてきた。人間の愚かさも醜悪さも知ってる……僕の方が貴方に相応しいのに……」  どうして? と首を傾げる男の姿に、俺は資料を読み漁った紫苑が聞かせてくれた話を思い出していた。  西洋では一人の神がこの世界を創ったのだという。その神は天地創造を成した後、天使というものを創った、と。そして人間を創った神は天使達に人間を愛するように命じて、神に最も愛でられ神を最も愛した天使の一人が神の怒りに触れて堕天させられた、と。  文化の違いというか宗教観の違いといえばそれまでだが、俺には相思相愛の相手を追放する意味がさっぱり理解できなかったが、そう言うと紫苑は少し考え込んで 「神は全てを平等に愛しているから、天使達にもそれを求めたんだ。自分……神を愛するように人間を愛せって。でも堕天された天使は神だけを特別に愛していたから神の言葉に従えなかった。ってこの資料には書いてある。他のも似たような事が書いてあるから、そのように伝えているんだと思うよ」  と寂しそうに答えてくれた。  その寂しさは親に軽んじられ捨てられた記憶のせいだろう。  消してやる事は簡単にできる。  だが俺はそれをしたくない。 「確かに……俺達とお前は近い闇に生きているのかも知れないが、お前、勘違いするなよ? 俺達とお前は真逆の存在だぞ」 「は? 真逆? 何を言って……同じじゃないか。吐きそうな程長い間身勝手な人間の身勝手な欲望を見せつけられて! 鬼神様だってそんな人間の魂を喰らって生きてきた。違う?」  洒落たハンカチで雑に涙を拭う男の声には苛立ちがあった。俺と自分と何が違うのか純粋に解らないようだった。 「そもそも同列に語るなって話なんだよ。お前、ひょっとして八百万の神々が住まう日本に来れば誰かが神格を与えてくれるとでも思ったか? 文化が浸透したとか言っていたな? 本当にそう思うのか? だとしたらお前は本物の阿呆(あほう)だな」 「どういう意味?」 「ふん、やはり解らんか、阿呆」  クリスマスだのバレンタインだの卵に絵を描いたり……そういったものが本物の意味で根付いたと思うのかと問うと男の瞳が僅かに揺らいだ。 「お前は映画やゲームにも登場するらしいな? 確かにそれだけ聞けばたいそうな人気者だ」 「だから何度も言ってるでしょう? 世界規模だって!」  頭を振って髪を振り乱すと、男の苛立ちは紫苑へと向かった。 「余計な事ばかり吹き込みやがって! 出来損ない!」  翼の羽ばたき一つから繰り出された羽根が小さな悪魔へと姿を変えて紫苑目がけて飛んでいく。 が、悪魔達は紫苑の胸に当たると次々と弾かれ、地面に叩きつけられた。 「ムダな事だ」 「また貴方? ほんっと過保護!」  一気に距離をつめて男の胸ぐらを掴むと、男は遂に憎々し気な目で俺を睨んだ。 「ふん、過保護にもなるだろう? 紫苑が大事だからな」  紫苑の足元に山積みとなった悪魔共は、体当たりも三又の槍での攻撃も全く届かない現実に窮して、自分達を放った男を伺うように次々と振り返った。 「ごめんね?」  胸の前で掌を合わせた紫苑は俺には理解できない謝罪を呟くと、強い妖力を込めた言葉で足元に散らばる悪魔共に離れて! と叫んだ。  その声に悪魔共は高い声を上げて四方八方へと飛んで行った。 「クソッ……」 「お前、本当に気付かないのか? 都合の悪い事には目を背ける主義か? 日本に住む全ての人間が心の底から信じていると思うのか? お前はな、遊ばれているんだよ。ゲームだ映画だ小説だとおもしろおかしく使われているんだよ」 「そんな事ない! 僕を恐れている人間が世界中に……」 「恐れている人間が娯楽に使うか!? お前はな、人間が何かやましい事をする時に免罪符のように名を使われるだけの存在なんだよ! こんな酷い事、人間にはできない。きっとこれは悪魔の仕業だってな!」  男の瞳が光るのと俺の顔面に向かって尖った羽根を飛ばして来るのはほぼ同時だったが、俺の膝蹴りの方が早かった。  男の放った羽根は俺の頬を掠める事もなく飛び、背後の木の幹に突き刺さった。 「バカに、するな……」  しっかりと鳩尾(みぞおち)に入ったダメージのせいで男の声が弱々しく震えた。だが、俺にとってはそんな変化はどうでも良い事だ。  こいつは懲りもせずに俺の目の前で紫苑を傷つけようとしやがった。  それだけで万死に値する。  男の首に手をかけると、再び目に涙を湛えて、どうしてと呟いた。 「ど、して? あのガキは貴方に愛されたの……脆く弱いくせに、人間のくせに、なんであの子は、貴方に愛されて神格まで与えられたの? 僕の方が、人間の汚さ、知ってるのに。人間なんて神の加護がなければ食物連鎖の頂点になんて絶対に立てない非力な存在なのに。傲慢で愚かで、この世の(カビ)みたいな存在なのに……そんな黴が何故神になるの……?」 「紫苑の魂に刻まれた悲哀や寂寥、愛情、喜び……俺に与えてくれる感情の全てが愛おしいし、美しいとさえ思う」 「……大嫌い」  人間なんて大嫌い! と叫んだ男は俺に首を掴まれたまま暴れて、紫苑から伸びた(ツタ)を器用に俺の首に巻き付けた。  ギリッと絞まり、肌を刺す棘の感触。 「柚葉!?」 「大丈夫、紫苑。そのままで」 「そうだよ、くそガキ。動かないで」  ボロボロに傷付き、血を流す翼を広げて俺を包み込んだ男は、俺に首を掴まれたままうっとりと場違いな笑みを浮かべて身体を寄せてきた。 「あの子の弱さを見たら、貴方も目が醒めるかも。僕のカケラに喰われて死んでしまえば良いよ!!」  ざわざわと闇が揺れ、枯れ枝を踏み折る音が近付いてくる。  紫苑の背後に姿を現したソレは見た事もない大きな……。 「トカゲ?」 「違うよ、柚葉。コレは西洋の竜。ドラゴンだよ」  マヌケな俺のセリフに思いの外落ち着いた紫苑が答えて笑う。挿絵にあったでしょ? と言われれば確かに見たような気もする。 「サタンは赤い竜だって書いてる本もあった……あながち嘘じゃなかったんだね。それとも、そう思われてるから?」  頭上で唸り声を上げる赤い竜を無視して、紫苑は男に問いかけた。 「あんたは多分人間の概念を糧にその姿形を保ってる。人間の創り上げた想像そのままの姿で、人間の想像そのままの使い魔を操り――」 「うるっさいな! 本から得た浅い知識で何が解るのさ! やれ! 喰い殺せ!」  ドラゴンと呼ばれたトカゲの化け物が大きな口を開けて、紫苑の首を食い千切ろうとしている。  あの巨大な牙は簡単に紫苑の頭を貫通するだろう。  紫苑の傍へと無意識に動いた身体を男が行かせまいと翼を巻きつけて邪魔をする。  紫苑は影から姿を現した翳狼(かげろう)に向かって緩々と首を振ると翳狼に待機を命じた。 「あははっ! 諦めた!? そうだよ、諦めて! そして鬼神様を僕にちょうだい? 出来損ないのキ・シ・ン様」 「そう、だね……俺はまだ柚葉には及ばない。言いたい事も上手く伝えられないヘタレだけど」  スッと頭上に手を伸ばした紫苑は深呼吸と溜め息の間のような吐息を一つ零した。  森を揺るがすトカゲの化け物の咆哮。  迫り来る牙、動かない紫苑。 「それでも神。妖魔には負けない」  鬼火をまとった数本の荊の蔦が炎を吹こうと大きく開けた口をぶち抜き、残り数本の蔦は先の割れた化け物の舌を絞めあげている。  トカゲの化け物は火も吹けずにその場でたたらを踏み、コウモリのような羽で突風を巻き起こした。 「あの男のカケラだというのなら、ただのカケラに戻って。俺は無益な殺生はしたくない」  その言葉にトカゲの化け物の姿が崩れていった。紫苑の強い想いを込めた言葉が届いたらしい。 「強いだろう? 俺の紫苑は」  ついにやけてしまう。  無益な殺生はしたくないだなんて、なんて紫苑らしい言葉なのだろう。  バラバラと頭から崩れていく大トカゲは一旦地面へ落ちると小さな悪魔へと姿を変えて紫苑を見上げ、何を納得したのか黒い羽根へと戻った。 「そんな……」 「概念か。確かに俺達と似ているな。だが、俺達は違う。俺達は名を呼ばれる事はない。しかし忘れ去られたワケではない。解らないか? お前を産み出した西洋とは違ってな、日本(ココ)に産まれた人間は不思議と幼い頃から八百万の神々を感じているんだ。俺達鬼神は人が道を踏み間違えない為に存在する。お前とは違い畏怖される存在だ。そして俺達は人間に害を成すお前のような妖魔は消さねばならん」 「日本人にだってろくでなしはいるでしょう?」 「いるな。だが俺達はお前と違って人間を率先して堕落させようとは思わない。人間が悪に身を染めても、ただ見届けるだけだ」 「見届けてなんになるの!? バカはバカのままじゃない!」  眉間に皺を寄せて喚く男は舌打ちをすると紫苑の足元に散らばった羽根を睨みつけて役立たずと罵った。 「自分に言っているのか?」 「違う!」 「アレはお前のカケラなんだろう?」 「貴方も僕をバカにするの!? 僕を拒絶するの!? 人間がそんなに大事なの!?」 「そうだな。愚かで愛おしいよ」  短い生を必死で生きるか弱き人間は愛おしい。  首を絞める男の力が緩んだ。  意味が解らないとぼそりと呟いた。 「じゃあ、どうして貴方は……」 「紫苑を特別に想うのかって? 簡単だろうが。お前達の神は博愛を選んだ。俺は選ばなかった。それだけだ。そんなに神格が欲しいか? 自分で望んで唯一愛する者と戦うと決めたんだろう? 神格を得れば少しはまともに相手にしてもらえるとでも思ったのか? 気にかけてもらえるとでも? 愚かだな。気付けよ、俺達にいくら絡んでもお前の望むようにはならないと。理解せぬまま(ほふ)られたいか?」  俺の首を縋るように絞めているのは愚直なまでに一人の愛を求めた男だ。  この哀れな男は消さなければならないが、ただ消し去るのはあまりに簡単で、この男の報われぬ魂を少しでも楽にしてやりたいと思ってしまった……紫苑の優しさが移ったかと俺は自分に少々呆れた。 「(おさ)から離れてっ!」  突然響いたこの声は朱殷か。  俺と男の間に白群(びゃくぐん)が割って入って、俺の首から蔦を丁寧に取り払い、男を一瞥すると無言で肘鉄を食らわせた。 「紫苑! 大丈夫なん? 怪我は?」 「えっ二人ともどうして?」 「私だ。私が呼びに行ったのだ!」  ばさりといつものように紫苑の頭に着地した飛影(ひかげ)は紫苑の美しい角に顔を擦りつけてクルゥと鳴いた。 「森と風がまた教えてくれたのだ。だが私は弱い。それは身に沁みた……だから私にできる事はなんであろうかと考えてな、鬼国に報せに飛んだのだ」 「お疲れ様」 「うむ、主人(あるじ)達の足手まといになどなれぬからな!」  鬼化済みの白群の渾身の肘鉄を顔面に食らった男は鼻を押さえ、地面に片膝をついて忌々しげに飛影を見た。  飛影から白群、朱殷へと視線を移した男は先程のハンカチで鼻を押さえると、スクッと立ち上がり西洋人らしく両手を広げ肩を竦めて参ったなと無理矢理笑ってみせた。 「多勢に無勢過ぎじゃない? まぁ、それだけ僕が強大で恐ろしい――」 「はあ? 何を言いよるん? あんたなんかどうでも良いわ。長、早う殺し。なんぼ諭しても理解せんのじゃろ? 紫苑? 大変じゃったね?」 「ああ、飛影から聞いたぞ? 怪我はないか? すごいな! よくがんばったな!」  朱殷は紫苑に抱きついて無事を喜び、白群はガシガシと頭が揺れる程紫苑を撫でている。飛影は白群の手に場所を奪われて紫苑の肩にちょこんと乗って、足元を守る翳狼の背に移ろうかと迷っているようだった。  紫苑は困ったような照れたような表情(カオ)をして、何度も大丈夫と答えている。  いつもの光景に思わず笑った俺に男は一言 「ズルいよ」  と呟いた。 「あの子ばっかり愛されてズルい」  その今にも泣き出しそうな細い声に反応したのは朱殷だった。 「あんたも充分じゃろ? 勝手にズカズカ乗り込んで来て、引っ掻き回して何がしたいんか思うたら、私ら利用して惚れた相手の気が引きたいとか、ただの阿呆じゃ。唯一絶対神かなんか知らんけどな、唯一絶対なんじゃったら、あんた、他の国の神から神格もろうて嬉しいんか? 虚しないんか? 誇りはないんか? 偉そうに異国神なんて名乗っといて、この恥知らず!」  朱殷の勢いに圧された男はヒュッと喉を鳴らして、視線を地面へと落とした。  微かに上下する肩が意外と細い事に今更気付いた。 「……何が悪いの?」  ぽつりと落ちた男の声は朱殷の怒気に掻き消されてしまいそうな程弱々しかった。 「愛して欲しいって願う事はそんなに罪なの? なんで紫苑は愛されるの? 僕だってずっと独りで……知ってるよ、人間の欲で創り上げられてる今の僕はあの人とずっと殺し合わなきゃいけないって。でもそう仕向けてるのは勝手な物語を作って押し付ける人間じゃないか……なんで人間だったくせに紫苑はみんなに愛されるの? 日本だから? ズルいよ……」  固く握りしめた拳が震え、地面にぽたりと落ちた涙はやはり血の涙だった。  男は涙を拭いもせず、口の端を持ち上げると、殺しなよと笑った。 「ほら、殺せば良いよ。でも僕は必ず蘇るからね……人間が僕の存在を望む限り、何度だって蘇るよ」 「……何度でも殺してやるさ。だが」  できれば二度とお前に会いたくないと言うと、男はふふっと笑って僕も、と答えた。 「愛してもらえないもん。ムカつくだけだし」 「最期に一つだけ。紫苑はどんな理不尽な事をされても、他人を責めた事はなかった。誰かのせいにして逃げた事はなかったぞ」 「ふふっ最期の最期まで惚気を聞かせるの? うんざりしちゃう。あーあ、愛されたかっただけなのになぁ」  ぐちっとぬめった音がすると同時に辺りに血の匂いが濃くなる。一瞬後には俺が自ら握り潰す男の心臓がトクトクと脈打つのを掌に感じた。 「さよなら、鬼神様」 「ああ」  次に蘇る時は違う生き方を、と喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。  この男には違う生き方は用意されてはいない。彼の言う通り、人間に創り上げられた偶像として与えられた役割の中、叶わぬ想いに身を焦がし続けるのだろう。  また孤独に震え、血の涙を流すのだろうか……?  例えそうだとしても、俺にはこの男を救う術はない。できるのは一気に心臓を引き抜いて、ほんの僅かな時間でも無の時間を与えてやる事だけだ。  横たわった男の胸に広がる穴からはだくだくと暗い血が溢れ地面に吸われていく。  最初に翼が塵芥のように消えた。黒い点がふわりふわりと宙を舞い、次に足先が、指先が。 「な、に……してん、の……?」  咳き込む度に血を吐き、苦しそうに顔を歪めた男は、更に苦し気に顔を顰めた。  消えていく男を抱きしめる紫苑の背中が震えていた。 「独りはヤダよね」 「さんざん意地悪したのになぁ……マゾなの? 偽善者なの?」 「……かも」 「……羨ましかったんだぁ……げほっ」  男は満更でもなさそうな表情をして、紫苑の腕の中で笑ってみせた。  その笑顔は今までに見せてきた笑顔の中で一番飾り気のない綺麗な笑みだった。  ごめんね、と男の唇が声を伴わず動くのと全てが塵となって宙を舞うのはほぼ同時で、紫苑は空になった腕に向かって何度も良いよと頷いていた。  チラホラと雪が降り始めた空を見上げ、(うずくま)ったままの紫苑の肩にそっと腕を回した。 「独りは寂しいよ」  そう呟いた紫苑を胸に抱き、地面に染み込んだ男の血の跡を眺めた。  ……どうか哀れな悪魔に憐れみを……

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