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第三十七話 欲しかったもの

 最後の記憶は深緑の潤んだ瞳。  あやすように背中を撫でられていつの間にか眠ってしまった俺は今日も柚葉(ゆずは)の腕の中で目を覚ます。  喘がされ過ぎた喉は一刻も早く水分を欲しがっていて、俺はそうっと柚葉の腕から抜け出そうとして、掴まった。 「……しお、ん。どうした?」  寝惚け声の柚葉に喉が渇いた事を伝えると、目は閉じたまま唇からふっと微かな笑みが零れて 「行っておいで」  と手から力が抜けた。  どこにも行くな、この世が滅ぶぞと最悪を予想した寝惚けた柚葉はもういない。  俺はそれがとても嬉しかった。 「朝ご飯はどうし、よ……あぁ、どうしよ……」  朝ご飯の心配から一転。俺の目は掛け布団から投げ出されたさっきまで俺の手首を掴んでいた柚葉の肩から二の腕にかけて刻まれた引っ掻き傷に釘付けだ。  深呼吸してそっと布団をめくって覗き込むと背中に何本もの爪痕を発見……俺のせいだ。 血は出ていないけど、ミミズ腫れしていて痛々しい。 「……ごめんね」  やっと鬼化(きか)できるようになった俺は前後不覚に陥ると爪が伸びたままになってしまうらしい。  ごめんねと肩から腕に伸びた長い傷に唇を寄せてちろっと舐めた。  妖力でつけた首の跡はすぐに消えたけど、爪でつけてしまった物理的な傷もすぐに治るんだろうか?  早く治りますように。  柚葉が起きたらちゃんと謝ろうと思いつつ、再び寝息を立て始めた柚葉を起こさないようにベッドから降りた……はずだった。 「へぶっ!」 「し、紫苑!?」  べちゃっとマヌケな音を立て顔面から床に落ちた俺と、その音に一気に覚醒して、真ん丸な目で俺を覗き込む柚葉。 「ど、どうした? 布団が足に引っかかったか?」 「あ、あの、そうじゃなくて……その」  差し伸べられた柚葉の手を俺は取る事ができなかった。  床にへたり込んだまま柚葉を見上げる俺の顔はさぞかし情けない顔をしているんだろう。 「こ、腰が立たない……っ」 「はあ!? すまん! 俺のせいだ!」  風のような早さでベッドへと連れ戻された俺は俯せに寝かされ腰を摩られていた。 「少しは楽にしてやれると思うんだが」  なんとも申し訳なさそうに呟く柚葉の掌は大きく、ぽわっと身体の芯から温まる。 「柚葉、あの、嬉しいんだけど……」 「嫌か? 迷惑か? いや、それとも怒っているのか? すまん、嬉しくて抑えが効かなくて……」  しどろもどろの柚葉が可愛くて、ついクスッと笑ってしまった俺の顔を間近で覗き込んだ柚葉は、ああ、と溜め息を一つ零した。 「待ってて。すぐ水を持って来る」 「ありがと」  下だけ部屋着を身に着けて部屋を出て行く柚葉の背中の惨状を目の当たりにして、俺は枕に顔を埋めた。  確かに昨日は、優希の事やあの男の事やずっと悩んでいた鬼化の諸々の問題が解決して、柚葉ともたくさん言葉と想いを交換する事ができて……正直浮かれた。  手伝ってもらわずに柚葉をイかせられたのも俺の浮かれ具合に拍車をかけた。  ぐずぐずに溶けた身体はどこまでも深く柚葉を欲しがったし、柚葉がナカに注ぐ度に終わるのがイヤでもっともっととねだった自分の姿が脳内に浮かび上がると……第三者の斜め四十五度上空から見る自分の姿……腰が立たないなんて初めてだけど、昨夜の己を思い出せばそれも納得できる程のあまりの淫蕩さに俺は更に枕に顔を埋めた。 「紫苑? う、呻く程痛いのか?」 「ゔぅ? ううん、大丈夫」 「飲み物を持って来た。ちょっと待って、身体の向きを変えよう」  時間をかけてまずは仰向けに。それから柚葉の手を借りて、ベッドヘッドにもたれかかって手渡された冷たい水を一気に飲み干した。 「もう少し飲む?」 「飲みたい」  大きめのグラスを受け取って喉を鳴らして水を飲む俺の髪を撫でていた柚葉は 「無理させてごめん」  と今にも泣き出しそうな程眉を下げて唇を噛み締めている。  そんな顔して欲しくないな……。 「……俺は、嬉しいよ?」  今まで。人間だった頃も含めて、こんな体験がなかったって事は、それだけ柚葉が自分を抑えて俺を抱いていたという事で。無意識かも知れないけど、抑えさせていたのは俺が色んな意味で弱くて脆かったからだと思うと、柚葉に申し訳ない気持ちになる。 「やっとちゃんと向き合えて、ちゃんと抱き合えた気がする。だから嬉しい」 「……し、紫苑。あ、朝飯にしよう!」  耳まで赤くなった柚葉はスクッと立ち上がると振り返りもせずに出て行ってしまった。 「うわ、すごい!」  動けない俺の前に柚葉が結界を応用して作り出した大きなテーブルが据えられ、その上に炊きたてご飯にお味噌汁。出し巻き卵、焼き鮭、海苔の佃煮に香の物が次々と並べられていく。  旅館の朝ご飯みたいだねと柚葉に言えば、途端にオロオロして 「お粥か雑炊の方が良かったかな? すぐに作り直して来よう。鮭も解して来よう……梅干し、梅干し」 「ぐはっ!」  俺は病人じゃないのにお粥だなんて大げさ過ぎるその様子がたまらなくおかしいけど、笑うと腰に響いて悶絶してしまう。 「ちょ、柚葉、待った」  せっかくきちんと並べられたご飯と焼き鮭の皿を持ってキッチンへ戻ろうとする柚葉にそっと(ツタ)を絡めた。意識したワケじゃないけど棘は出ていなかった。 「落ち着いて! 俺は腰痛いだけで病人じゃないの! 早く一緒にご飯食べようよ!」 「……解った……から、この蔦を解いてくれ」  蔦から自由になった柚葉が箸は持てるの? と聞いてきて俺はまた布団の上で腰を押さえて悶絶した。 「わ、笑わせないで! 響くから! 痛っ」 「大丈夫か? 食べさせてやろうか?」 「いだっ! だから大丈夫! いただきます」  美味しい朝ご飯も腰痛のせいというかおかげというか、ゆっくりと時間をかけて楽しむ事ができた。  少し遠い皿に腰を庇いながら手を伸ばすとすぐに柚葉が気付いて、最初は手前の皿と入れ替えてくれたけど、後半は柚葉の箸で摘まれた物を口元に持って来られるようになった。  いわゆる、あーん、だ。  非常に恥ずかしいが、二人きり。柚葉の目が殊更優しいのを理由に素直に口を開けて食べさせてもらった。 「食休みをしたら腰の痛みを和らげよう」 「できるの!?」 「前に言ったろ? 生命のあるものならどうにかできるって。でも、あれだ。回復しても、今日は紫苑は動いちゃダメだからな? 用があったら俺に言え」  甘やかしたいんだよ、と呟いて味噌汁のお椀を傾ける柚葉は俺の手が止まっている事に目敏く気付くと、すぐにお椀を置いて何が食べたい? と聞いてくる。 「卵焼き!」 「了解。はい……」 「……おいひーね」  みたらし団子を口に入れてもらったガキんちょの俺もこんな風に嬉しかったんだろうか。  なんとなく、ガキんちょの俺から柚葉を取り返したような気がして気分が良い。 「次はね、鮭食べたい」 「はい。ちゃんと汁物も」 「解ってる。し、さすがに自分で飲む」  甘ったるい俺達の朝食をベランダから飛影(ひかげ)が冷ややかな眼差しで見ているのに気付いて、入りたいの? と声をかけると 「むー、外は寒いが、中は中でアッチッチのようだ。これは悩むな!」  といつもの調子でからかってくる。柚葉は目を細めて飛影を見て窓の結界を解くと、入れと飛影を呼んだ。 「昨日はよく朱殷(しゅあん)に報せてくれた。マヨネーズをやろう」 「ほ、本当に!? 主人(あるじ)、私は先日鍋の時にも特別にマヨネーズを出していただいたのに、本当に!?」 「要らんなら良い。食事が終わるまでそこで待て」  あっさりと飛影から視線を外した柚葉の左肩に慌てて降り立つと、小さな頭を柚葉にぶつけ始めた。 「要る! 要るのだ! いただきたい!」  コツッコツッと飛影の頭突きを受ける柚葉は相変わらず機嫌が良くて、翳狼(かげろう)にも褒美が要るな、と呟いた。 「翳狼!」 「……あれ?」  いつもなら呼ばれればすぐに銀色の美しい毛並みを煌めかせて現れる翳狼が来ない。  柚葉は解ってるんだぞというような表情でもう一度翳狼を呼んだ。 「翳狼、遠慮するな。早く出て来い!」 「……全く主人殿ときたら。私がせっかく気を遣っておりましたのに」  ぎしりとベッドが軋んで、俺の影から這い出した翳狼が申し訳なさそうに耳を倒して俺を見た。 「まさか……ずっと……俺の影の中で……」 「はい。主人殿からは紫苑様から離れて良いとの許可はいただいておりませんでしたので……」  という事は、だ。  翳狼は昨日の俺の痴態を知っているという事で……。  恥ずかしさに一気に赤面した俺の頬を慰めるように大きな舌でぺろりと舐め上げた翳狼は柚葉に向かって呆れたような声を出した。 「主人殿! あんなに激しくされては紫苑様の腰が抜けるのも当然! いくら可愛く求められて浮かれたとしても少しは手加減なされよ! 貴方が我を忘れてどうするのですか、毎夜紫苑様に無理をさせるおつもりか!」 「お、おぅ、すまん……」  俺の肩口から顔を覗かせた翳狼の剣幕に押し負けた柚葉が思わずといった感じで謝って、それを聞いていた飛影はばさばさと翼を広げた。 「なぬ!? 紫苑、腰が抜けたのか! だから寝所で! ふむふむ、なるほどなるほど!」 「さっ! 紫苑様、私を背もたれになさいませ」 「ぅ、わあああああああああっいだぁっ!」  それはそれは愉しそうな飛影の声にマジメな翳狼の心遣い。  あまりのいたたまれなさに頭を抱えた途端、腰がビキッと引きつり筋肉が骨から剥がれたような激痛に見舞われた。  だが、そんな事にはかまっていられない。 「むっ? 紫苑……何故、鬼化したの、だ?」 「お前がからかうからだ! バカ者! 紫苑? 落ち着け、な? 腰に響くぞ?」 「知ってた、の……? 翳狼がいる事、知ってたの?」 「いや、すまん……浮かれ過ぎて正直頭になかった」  本当だ、ワザとじゃない、事故だ! と必死の柚葉は正面から俺と翳狼に睨まれて、左側からは 「腰が抜ける程抱き潰すとは主人もなかなかにがんばったのだな! うんうん、早く紫苑の腰を治してやると良い! なぁに、朱殷殿に密告はせぬ。そこは安心して私を信頼して欲しいのだ!」  と口早に飛影にまくし立てられて、ついにがっくりと項垂れた。 「……悪かったと思ってる」  でも……と続いた柚葉の言葉は俺が引き継いだ。 「すごく、本当に大切な日で。翳狼には申し訳ないけど、お、俺も嬉しかった……そりゃ毎回腰が抜けるのは勘弁だけど……その辺は、柚葉もちゃんと考えてくれると思うから、あの、これ以上、からかわないで……欲しい」  しどろもどろの俺に飛影はクカァ! と一声高く鳴いて柚葉の肩からベッドの足元へとふわりと降りた。 「主人二人が仲睦まじいというのは、私にとっても嬉しい事なのでな、ついつい」 「飛影に悪気はないのですよ? 私もお二人が心から笑い合っておられるお姿を拝見するのは嬉しいのです……が、飛影は多少からかいが過ぎましたね」  翳狼のお説教に何度も頷き、飛影はそろそろと近付いてくるとひょこっと頭を下げた。 「紫苑、本当にすまなかった。だから怒りを鎮めて鬼化を解いて欲しいのだ」 「……本当に朱殷に言わない?」 「うむ。紫苑が主人に意地悪をされて泣かされたワケではないのだから言わぬ……つもりだ」 「あん?」 「言わぬ!」  ピクリと片眉を上げて掌を飛影に向けると、蔦が飛んでくると慌てたのか即答だった。  しゃんっと首を伸ばし、片翼で敬礼をする飛影は愛嬌たっぷりでつい吹き出してしまった。 「約束だよ、飛影。翳狼も。ナイショね?」  鬼化を解いて手を下ろし、ビキビキと痛む腰を摩るとホッとしたのか飛影も敬礼を解いた。 「しかし、その、何故そこまで二人して浮かれたのだ? あの男を倒したから……にしては喜び過ぎだと思うのだ。あっ! いや、ムリに聞き出したいワケではないのだ!」  あわあわと二歩程下がった飛影は俺と柚葉を見て首を竦めた。 「マヨネーズをたーっぷりつけたハムを食べるのと、その窓から投げ出されるのと、どっちが良い?」  悪い表情で笑う柚葉は人差し指をくるくる回しながら窓を指す。 「そんなの! ハムに決まっている! 主人、本当にマヨネーズたーっぷりなのだな?」 「本当だ。翳狼には……確か牛肉があったか……それで良いか?」  牛肉と聞いて翳狼の尻尾がふぁさりと動く。それでも躊躇いがちにこっそりと 「私、賄賂なくても喋りませんよ?」  と不安そうな声で俺に耳打ちして鼻を鳴らした。  その姿からは主人に信頼されていないのだろうかという不安とお喋りな飛影と一緒にされたくないという不満が痛い程伝わってきて、笑いをこらえながら翳狼にもたれかかった。 「賄賂じゃなくて昨日はありがとうのお肉だよ、翳狼」 「昨日も私は何もしておりませんが」  翳狼は本当にマジメだ。生真面目だ。 「そんな事ないよ? あの大きなトカゲみたいな竜が現れた時、翳狼は俺を命に代えても守るって言ってくれた。嬉しかったよ?」  そんな嬉しい申し出を断ったのは俺だ。あの男の目の前で俺の力を見せる必要があると勝手に判断して、せっかくの翳狼の気持ちを無碍にしてしまった。  でも、命に代えても……はやっぱりイヤだな。  柚葉がいて、飛影がいて翳狼がいるのが俺の当たり前だし、みんなが俺を守りたいと言ってくれるように、俺もできる限りの力でみんなを守りたい。 「だからね、翳狼にもたくさん食べて欲しい」 「紫苑様はお優しい」 「ううん、あの時翳狼がすぐ側にいてくれたから、俺全然怖くなかったし! だからお腹いっぱい食べてね?」 「はいっ!」  不安も不満も消えた翳狼の弾んだ返事が嬉しくて、翳狼自慢のふかふかの毛に埋もれて柚葉を見る。相変わらず飛影に頭突きをされて、生卵も欲しいとねだられている真っ最中だ。 「飛影! 太るよ? 飛べなくなるよ?」 「むっ……それは……」 「朱殷の良いオモチャになるな?」 「それは……生卵は我慢する! だからマヨネーズたっぷりのハムを!!」  半ば悲鳴のような飛影の嘆願をうるさいと一喝した柚葉は両耳に指を入れて顔を顰める。  にぎやかな朝がたまらなく嬉しい。 「柚葉、飛影と翳狼に早くご飯をあげて! それで俺の腰を治して!」 「任せろ」  目が合う。  それだけで解る……伝わってくる想いがある。 「柚葉、俺もだよ!」 「うん、解ってる」  二人の間に漂う柔らかな空気に、翼を広げた飛影がウキウキと柚葉に頭突きを繰り返し翳狼の尾が揺れる。  飛影を肩に乗せたままキッチンへ向かう柚葉を見送る俺は新しく二人で交わした誓いを思い出した。  ……この世が果てるまで誰にも隣は譲らない……  ……この世が果てるその日には二人で煙のように混ざり合って消えよう…… 「紫苑様?」 「ん? なぁに?」 「お幸せですか?」  答えは解っていますけど、と言う翳狼の背に顔を埋めて鼻をすする。 「とっても! 柚葉がいて翳狼がいて飛影がいて……朱殷や白群(びゃくぐん)達もいる。こんな一気に家族や大切な人が増えるなんてさ、かなり贅沢だよね」  キッチンから二人の言い合う声が微かに聞こえる。  飛影がカロリーハーフのマヨネーズじゃ嫌だと悲嘆にくれた声で騒いでいる。  なんて穏やかで、どれ程欲しかった朝だろう。 「そんなに文句があるなら紫苑に言え! お前の健康を気遣ってコレを選んだのは紫苑だ!」 「そんなっ! コレは紫苑の優しさだったのだな!?」 「飛影〜? イヤなら食べなくて良いよ〜?」  へらりと笑って手を振れば、まん丸な目に涙を浮かべた飛影がイヤイヤと頭を振る。 「ハムにはマヨネーズだと相場が決まっておろう!?」  ギャアギャアと大騒ぎの飛影をまじまじと見つめた翳狼がこっそりと俺に耳打ちをする。 「これが紫苑様の……?」 「そうだよ。幸せ」  ふふっと笑う俺に柚葉も笑顔をくれる。  俺を抱き包むように柚葉の気が揺れた。  解ってる……。  俺達はもう二人で一つだ。

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