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第四十二話 光

 朝食の時間に金柑を持参した飛影(ひかげ)翳狼(かげろう)の首元の飾りを見て素晴らしい! と一声叫んで紫苑(しおん)の膝に飛び乗った。 「見立ては紫苑か?」 「ううん、柚葉(ゆずは)と二人で。お店の人にもいっぱい出してもらったよ」 「編み上げたのは紫苑であろう? 主人(あるじ)は妖力を使うのは得意でもこういう事は苦手だと思うのだ!」  うんうんと勝手に決めて勝手に頷く飛影は再度 「はぁ、なんとも美しい。翳狼にとても似合っておる!」  と小さな頭を左右に小気味良く揺らして喜んでいる。  翳狼の姿を見て 「紐と飾り……翳狼は二つあるのだな」 「翳狼のは紫苑の色まで入っているではないか! 贔屓(ひいき)だ!」  などと言い出すのではないかと思っていた俺の心配は杞憂に終わったようだ。俺の使い魔はそこまで浅はかではなかったという事だ。 「朱殷(しゅあん)のお手伝いはどうなってんの? てか俺も何か手伝った方が良い?」 「それはダメだ。紫苑がいては他の鬼神殿達が仕事にならぬ。皆が紫苑とたーっくさんお喋りしたくてウズウズしておるのだぞ?」 「そうですよ。そうなってしまっては主人殿も眉間に深い皺を刻まれましょう? あんなにたくさんの木材を飛影と運んだのに主人殿のヤキモチで破壊されて運び直しは正直嫌です」 「……だね。やめとく。今日も工事?」 「お前ら本当に好き勝手言うな?」  嫉妬で建物を壊す程俺は狭量ではないはずなのだが、翳狼の言葉にチラリと俺を見た紫苑が微かに頷いていた事が少しばかり引っかかる。  激情に任せて物置と梅の木二本をへし折った朱殷の名が出てこないのがなんだかおもしろくないが、事の経緯を考えると思い出して楽しい出来事ではないので黙っておこう。 「で? 今日も大人数か?」 「恐らく昨日と同じくらいの人数かと。今日は四階を直すのだそうだぞ、主人」 「お茶の準備しないとね〜」  頬杖をついて、なんとものんびりと紫苑は言う。 「お昼ご飯とかどうするんだろ? 一旦鬼国に帰るのかな?」 「多分な。力仕事だし、人の世の食べ物じゃ足りんだろう」 「んー、じゃあせめてお茶菓子くらいはたくさん食べてもらいたいよね? あのさ」  そもそも今回の改装の件は朱殷の発案なのに、紫苑はまるで自分が言い出したかのような対応をする。  仕方がない。  紫苑だからな。 「翳狼もまた手伝いか?」 「そうですね……特に申しつかってはおりませんが、天翔(てんしょう)だけで大丈夫でしょうか?」 「私もいるぞ!」 「じゃあまずは俺と紫苑の買い出しに付き合ってくれ。紫苑が大量の茶菓子を所望だ」 「御意」  紫苑が賑やかな食卓をとても喜ぶので、いつの間にか朝と夕の食事は可能な限り揃うようになった。  飛影は翳狼用に準備したドッグフードをいたく気に入り、翳狼はドッグフードの外箱に描かれたなんとも可愛らしい子犬を見てほんの少しだけ残念そうな表情(カオ)をした。  飛影も翳狼も妖魔。餌となる(あやかし)は俺達の妖力に惹かれて森にわんさか集まっているはずだ。  それでも彼らは食卓を共にしてくれる。  紫苑が笑ってくれるのが嬉しくて仕方がないのだ。 「あ! 飛影また翳狼のご飯横取りしてる!」 「んっぐ……違うのだ。これは翳狼との友情の証なのだぞ? だから私も今朝はいつものお返しにと宝物の金柑を持って来たのだ」 「……翳狼って金柑食べられるっけ?」 「ぬっ? 食べられぬ、のか?」 「食べられぬ事はない。何より飛影の気持ちが嬉しいではありませんか、紫苑様」  いただきますよと尾を振る翳狼はパリポリと小気味良い音を立ててドッグフードを胃に納めていく。  飛影は嬉しそうに紫苑を振り返り、金柑はデザートにするのだと言って、翳狼と交互にドッグフードの皿に顔を突っ込む。 「……デザート? 美味しいのかな?」  指先に挟んで金柑を凝視する紫苑の喉がわずかに上下したので、多分酸っぱ過ぎて喉が痛くなるぞと脅しておいた。 「熟しているから甘いはず……私がカラスだから甘く感じるのだろうか? それともまだ熟しが足らぬか? 紫苑は食べた事はないか? 美味しいのだぞ?」 「ミカンなら食べた事あるけど金柑はないなぁ」 「そうか。夕食後に食べられるようにたくさんいただいて来よう。主人も紫苑も食べられると良いのだが」  楽しみにしてると答えた紫苑の笑顔に安心したのか飛影はクフッと嬉しそうに小さく鳴いて、翳狼用の水入れに顔を突っ込む。そんな飛影を見つめながら紫苑の目が穏やかに細められ、俺の中に想いが伝わってきた。 「っははっ! 飛影よ」 「む? なんであろう? 主人」 「とびきり甘いのを持って帰ってくれよ? 紫苑は金柑に興味津々のようだ。甘いのかな? 美味しいのかな? どうやって食べようかとそればかりだ」 「あとね! 他にも美味しい木の実があれば食べてみたい!」  ぺちんと手を合わせた紫苑を見て、飛影と翳狼が相談を始めた。 「確かキノコが生えていたが、もう過ぎたであろう? 野イチゴも終わったな?」 「うむ。冬だからな。実りはなかなかに少ない……」 「春になれば梅の実や裏山の端の竹林では筍が手に入るが。まだ雪の下どころか土の中で眠っておろうし……私は紫苑様に何を差し上げれば……」 「私は金柑だ。甘くて良いのをたくさん分けてもらうつもりだ」 「飛影は良い。その翼でどんなに高い所にある果物も手に入れる事ができる。だが私はいくら身体が大きくても届かぬのよ」 「翳狼には立派な爪と牙がある! 鼻も私より利くだろう。私のこの嘴では啄木鳥(キツツキ)並にコンコンコンコンがんばってやっと一日で数本の筍を手に入れる事ができるかどうかだ……という事で、だな」 「なるほど。そうしよう、飛影」  しっかりと見つめ合い、片翼と肉球をぴたりとくっつけて大きく頷く。 「……何してんの?」  使い魔が揃っておかしな行動をしているのだ。俺も知りたい。  紫苑の問いかけに翳狼は恥ずかしそうに身動ぎして顔を隠し、飛影は振り返って声を上げた。 「今後森で美味しそうな物を見つけたら、協力して紫苑に届けようと協定を結んだのだ! 翳狼が届かぬならば私が。私の力が足りぬなら翳狼が。森の恵みを紫苑にお届けするぞ! 楽しみに春を待っておれ」  むふふと誇らし気に胸を張る飛影に最早かける言葉はない。こいつはこういう奴だ。 「……翳狼、お前飛影に毒されて少々阿呆(あほう)になったか?」  ゴフッと噎せて辺りにドッグフードをバラバラと撒き散らした翳狼が恨めしそうに振り返る。 「主人殿がお変わりになられたのに使い魔である私に影響がないはずがありますまい?」 「俺のせいか?」  若干刺々しい視線を受けて、思わず問い返すと翳狼は無言で大きく尾を振った。 「当たり前だ。翳狼は私よりも長く主人と時を共にしておるのだ。主人の心の動きにそれはそれは敏感だ」  翳狼の撒き散らしたドッグフードを一粒ずつ啄ばむ飄々とした飛影の声が食卓に響く。 「主人が喜べば私達も嬉しい。紫苑と想い通じて後の主人は本当に幸せそうだ。主人をたくさん笑顔にしてくれる紫苑が望むなら、可能な限り叶えたいと思うのは至極自然な事であろう?」  少々浮かれたのは申し訳ないと頭を下げて床に散らばった最後の一粒をこくんと飲み込み、飛影は再び紫苑の膝に戻った。 「紫苑も私達の主人なのだ。願いを叶えたい」 「うん。ありがと。春が楽しみだな。ほい、金柑」 「私も楽しみだ。今まで何気なく見てきた森を新たな思いで見る事ができる。森の奴らにも協力してもらわねばならんな」 「協力?」 「うむ。独り占めするわけではないが、いつものおやつより多めにいただく事になる。森からの恵みで命を繋いでいる奴らにちゃんと了承を得ねばならんと思うのだ。なぁに、心配するな。森に住む奴らは皆気の良い奴らだ。紫苑の事も知っている」  へ? とマヌケな声を出した紫苑は飛影の小さな頭を人差し指で押さえると少し唇を尖らせた。 「どうせ飛影がある事ない事喋ったんでしょう?」 「んごっ……違う違う! 紫苑がまだ人間(ヒト)であった頃から、毎週通っていただろう? 館に入っても心を失う事なく毎週通って来る紫苑は森の奴らの噂の的だったのだ。だからな、私の主人が懸想しておるのだと……」 「お前そんな事喋ってたのか?」  頭を押さえられてジタジタと足踏みをする飛影は俺の溜め息混じりの呆れ声にビクリと尾を跳ね上げた。 「いや、だから、その、あの子……紫苑は魅入られたのか? じわじわと魂を削られて、いずれ死ぬのか? と問われ、今度の管理者は悪趣味な餌の喰らい方をするのだな、などと勝手を言われてな。私としては主人がそんな事をするはずがないと言いたくてだな……森には妖もおったし、紫苑が来た時に万が一暴れて私や翳狼だけで抑えられぬ時は主人が助けに来るまで紫苑を守って欲しいとお願いしておったのだ……うう、お喋りだったかも知れぬ……申し訳ない……」  だが! と飛影は翼を広げて紫苑の前に左脚を突き出した。 「これをいただいた時、皆もとても喜んでくれた。何度も紫苑を見かけるうち、紫苑から出る気に邪気がない事を感じ取り、いつの間にか皆も紫苑に好感を抱いていた。森の木々もいたずらに手折られる事もないし、あの子は子供の頃に絵を描きに来ていた子だろうと古い木が言い出してな。今では皆が紫苑の味方だ」 「味方……って」 「味方にもなりましょう。紫苑様は森に害を与えた事は一度とてないのですから。花を踏み捨てる事も動物を追い回す事もない。ゴミを撒き散らしもしない。貴方様のおかげで主人殿の株も上がったのですよ?」 「そうなのだ! 主人が結界を張っているおかげでこの森は人間の開発から上手く逃れておるのでな、むやみやたらに木が切り倒される事もない。住む場所を奪われる事を考えたら、まぁ肝試しに阿呆が来るのはご愛嬌だ。皆笑っておる!」 「初耳だな」  いつか来るかも知れない紫苑の為にこの場所を守り続けただけの事だったのだが、そう言われれば確かにこの辺りは人間の手は手付かずだ。 「森の奴らの雑談なのでな、お耳に入れる必要もなかろうと思っておったのだ。もちろん紫苑に対して悪意あるものであったならば私はすぐにでもご報告したぞ」 「曰く付きの物件だしな。何かと都合が良かったんだが、そうか。森に住むもの達も紫苑を守ろうとしてくれていたのか。何か礼が要るか?」  そう聞くと飛影は首を大きく左右に振った。  宙に浮いたままの紫苑の指先に頰を擦り付けて甘えた後、俺を見る目はいつになく真剣だった。 「要らぬぞ、主人。皆、見返りが欲しくて同意した事ではないのだ。きっと主人からそのように思っていただけるだけで満足であろう……いや、既にいただいているではないか。なぁ、翳狼?」 「確かに。主人殿の森で生命が巡っております。今の時代、これだけ恵まれた環境に身を置けるのは僥倖。それ以上を望むものはおりますまいよ」  それが野生に生きるものの誇り。その誇りを穢すなと暗に言われた気がして紫苑を見れば、うーんと目を瞑って低く唸っている。 「……せめて、ありがとうって言うのは? それもダメ?」 「ダメではないが、きっと恐縮してしまうな! 実際何もしておらんのだ! “見ぃてた、だけぇ〜”というやつだ!」  おどける飛影はぺたんとテーブルに尻をつけて座り込み、両脚で金柑を大事そうに掴むと美味い美味いと大騒ぎで食べ始めた。  なかなか器用なヤツだ。 「柚葉、どうしよう?」 「……そうだなぁ……気紛れに果物の種を蒔く……いや、捨てるのは許されるかな? 許されるだろう? 何せ捨てるんだからな」 「あ、ああ! うん! そうだね! 俺、本当に地面に置いただけの種から芽が出るのか、すっごい興味ある!」  ぱぁっと顔を輝かせた紫苑は飛影の金柑から溢れた果汁を指先につけて一舐めし 「っあっまい! 柚葉、金柑って甘くて美味しいよ! 酸っぱくない!」  と嬉しそうに歓声を上げた。  飛影は危機を感じたのか金柑を掴んだままそっと後退り、紫苑から大事なデザートを守ろうとする。 「紫苑? 金柑は夕食後の楽しみに取っておけ。菓子を買いに行くんだろう?」 「ん。そだった! やっぱ和菓子が良いかな?」  金柑の果汁がついた指先を咥えたまま視線を漂わせる紫苑はどことなく楽しそうだ。  紫苑の気を逸らせる事に成功した俺を見る飛影の目に言い尽くせぬ感謝の情が浮かんでいるのに気付いて思わず苦笑する。 「紫苑? 準備しろよ? そろそろ暑苦しいのがわんさかやって来るぞ?」 「解った。翳狼、今日もよろしくね」 「お任せを!」  翳狼の返事に笑顔を返して、慌ただしく着替えに駆け出した紫苑の背中に残された俺達は笑いをこらえられなかった。 「良い事、だな?」  パタパタと遠ざかって行く足音に耳を傾け、皆でニヤけた顔を見合わせる。 「私は良い事だと心から思う。私が見守っていた頃の紫苑はあんなにはしゃぐ姿を見せる子ではなかったのでな。うん。いつもどこか苦しそうで、求められる事に完璧であろうとしておった。不思議なものだが、今の方が余程人間らしいというか、自然な感じがする。紫苑が自由になれたような……それが私は嬉しいのだ」  鬼になってからの方が幸せだと言った言葉に嘘はなかったかと口元が緩む。 「お前達のどちらかが欠けても紫苑の笑顔は消える。その事を忘れてくれるなよ?」  特に飛影。主人の為に死ぬが誉れはもう通じないぞ、と頭を撫でると飛影は俯いて 「もう紫苑にはすっごく怒られたのだ。あんな哀しそうな顔を見るのは嫌だ。懲りた」  と呟いた。  あの男との争いで変わったのは紫苑だけではなかったようだ。 「それに私ももっともっとお二人と一緒に過ごしたいと、そんな欲が出た」 「良い強欲だな」 「カラスなのでな! 当然、私は強欲だ」 「主人殿の準備はよろしいので? 紫苑様が駆け戻る足音が聞こえますが?」 柚葉は!? と勢い良くドアを開けた紫苑の腕には最近愛用している俺のコートが抱えられていた。 「な? バッチリだ」 「全然来ないんだもん。早く行こう? コートだけで平気?」  ぐいぐいとコートを押し付けたり立ち上がらせようと腕を引いたりと紫苑は忙しそうだ。 「安心して行くと良い。私は残って朱殷殿達の到着を待つとしよう」 「ありがと。飛影にもお土産買ってくるね!」 「ならば! マヨネーズのたっぷりかかったタコ焼きが食べたいのだ!」 「りょーかい! 行ってきます!」  いつもの如く片翼で敬礼をしてみせる飛影に笑顔で手を振る紫苑は本当に綺麗な顔で笑う。  引きずられながら俺は頭の中で飛影の言葉を思い出していた。  ――紫苑は自由になれたのだ――  だとしたら俺も得たのだ。 「どしたの?」  小首を傾げる紫苑の頰にキスを一つ。 「行こうか」 「うん」  はにかんで俺を見上げて微笑む紫苑。  唇にはキスしてくれないのかと翳狼の存在を気にしつつも少々不満気な紫苑。  昏く単調だった俺の時間を終わらせてくれた紫苑。  紫苑は俺の 光 だ。

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