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第六十六話 募る願い 託された想い

 結界の中の黒い塊は相変わらず独楽(コマ)のように渦巻いて、あちらこちらへぶつかって派手な音を立てている。巻き上げられた砂利が薄い煙幕を張る。  柚葉(ゆずは)黒緋(くろあけ)の張った結界をくぐると、独楽の動きが一瞬止まった。  鬼化はしていないから、外見だけで怖がらせたりはしないはずだ。 「遊ぼう!」  一歩足を踏み出すと黒い(もや)が蚊柱のようにぶわりとこちらへ向かってきた。柚葉が俺の名を呼ぶ声が聞こえた。  雑魔はパチパチと誘蛾灯に触れた羽虫のような乾いた音を立てて、俺の身体に触れる事すら叶わず次々と消えさり、目の前にはボウリングの球くらいの乳白色の塊がゆらゆらと揺れていた。 「遊ぼう?」  ――だぁれ? だぁれ?――  ――(マゲ)を結ってないよ――  ――着物じゃない。変なの――  甲高い声が幾つも重なって結界内に響く。同時に頭の中に小さな男の子や女の子の映像がざあっと流れた。  満足に食事も薬も与えられず痩せ衰えた骨と皮だけの子供の瞳に映り込んだ空は青く、紋白蝶が視界を横切る。触れてみたくて伸ばそうとした手は思いの外重く、持ち上げる事はできなかった。  大好きな父親の温かくて大きな背中に負われての初めての遠出は、寒さよりも楽しみが勝った。どこへ行くの? と声をかけると、無口な父親はズッと鼻を啜り、良い所だとだけ答えた。  女か、と残念そうな声が聞こえた。買い手がつくまで育てる余裕はねぇぞ、と誰かが言った。お山に行くしかないねぇ、と感情の読めない声が聞こえた。 「ねぇ! これ知ってる?」  哀しい記憶を頭の中から追いやって、飛影に頼んだ石三つをポンポンと投げては受けるを繰り返した。  ジャグリングといえる程の華麗さはないけれど、やって見せるたびに小さな優希がきゃふきゃふと笑ってくれていた程度には上手いはずだ。  ――わぁ! お手玉!――  ――おてだまってなぁに?――  ――あのお兄ちゃんすごい!――   「御神木の言う通り、本当に悪意はないみたいですね」 「あ、あぁ、そのようです。それのよく臥せっている横で見せてやったものです。松ぼっくりで作った人形やけん玉も……」  ――あ! 穣安(じょうあん)様だ! 穣安様、お歌を歌って?―― 「……お小夜か?」  ――穣安様、さっきの黒くて怖いのはなぁに? みんなで一生懸命走って逃げたの……走れて良かった――  ――怖かったけど、走れるって楽しいね! 風が気持ち良かったの―― 「弥彦に小梅……?」  ――穣安様、どうしたの? なんで泣いてるの? あの黒いのが悪いの?――  ――他の子もいるよ! お名前、忘れたって。でも穣安様の事は覚えてるって――  ――怖いのはどこへ行ったの? もういない?―― 「大丈夫だよ……あの黒いのは、このお兄ちゃんが一つ残らずやっつけてくれた。さあ、久しぶりに遊ぼうじゃないか」  わぁ! と子供達の魂から湧き上がる歓声と正反対の恐れの感情。 「どうしたの? 遊ぶのは嫌?」  ざわざわと子供達が相談しているのが伝わってくる。怒られるかもしれないとビクつきながらも、素直に伝えようとしてくれている言葉を急かしてはいけない気がして、石のお手玉は一旦中止だ。  ――あのね、一生懸命、怖いものから逃げたの――  ――びっくりして、走ったんだ――  ――そしたら、いっぱい木を倒しちゃったの。穣安様の大切なお山を壊しちゃったの――  ――穣安様、ごめんなさい。お山の神様もごめんなさい―― 「良いんだ。良いんだよ。木はまた芽吹く。お前達が無事で、本当に良かった。お山は怒っていない。もちろん私も、だ」 「山神様も喜んでるよ。走りたかったんでしょう? 駆けっこしようか? 何がしたい?」  ――お花が見たい――  ――お山を歩いてみたい――  ――駆けっこもしたい――  乳白色の球は時に淡く色を変え、形を変え、可能であればやりたかった事を教えてくれた。  綺麗なものを見て、自分が息を引き取った場所を歩いて、子供らしく遊びたいと言う。    叶えてあげたい願いばかりだった。 「飛影(ひかげ)! 早咲きの桜はまだかな? なければ梅でも桃でも、とにかく花が咲いていれば良いんだけど……」 「ひとっ飛び探してくるのだ! 待っておれ、紫苑(しおん)」  ――穣安様、あの人達は怖い人?―― 「あの人達は、神様だよ。このお兄ちゃんも神様でな、お前達をあの悪い塊から助けに来てくれたんだ」  ――穣安様よりも偉い人?――  ――神様に会えるなんてすごいや!――  ――お山の神様なの?――  鬼だ、と答えるのはやめた。怖がらせたいんじゃない。突然起こされ、暴言を浴びたのに人を恨まないこの子達に、笑って欲しい。 「さぁ、まだまだ時間はあるよ。たくさん遊ぼう。お花は今探しているから待ってね」 「紫苑様! 私、飛んでもいいですか?」  柚葉に抱きかかえられた絢風(あやかぜ)がめいっぱいに首を伸ばして俺を呼ぶ。絢風の奥に見える柚葉は微笑みながら小さく頷いて、絢風をそっと地面に降ろした。 「みんな、見て! すっごいんだよ」  ――うわぁ……大きいなぁ……なんだ、あれ―― 「孔雀っていうんだよ。見てて」  木がなぎ倒されてできた空間をくるりくるりと絢風が舞う。  深い森の中、そこだけに降り注ぐ太陽の光を浴びて、地上に虹が降り注ぐ。    ――綺麗だぁ……こんな綺麗な鳥、見た事も聞いた事もないや――  ――お天道様からお星様が降ってるみたい―― 「これは、美しい。こんなに美しいものはどんな神通力をもってしても見せてはやれなかった」 「あの子は精霊なんです。きっと子供達を喜ばせてくれるし癒してくれます」  ぽわんぽわんと楽し気に上下する子供達の魂は絢風から注ぐ光を受けて色味をほんのりと変えた。薄く淡くさしたオレンジ色はこの子達のワクワクとした感情そのものの色なのかもしれない。 「絢風、光の方へゆーっくり大きく回ってー!」 「はいっ」    絢風から目が離せない様子のこの子達にはもう結界は必要ないだろうと柚葉を見ると、組んでいた腕を解き、一瞬で結界を消してくれた。  ――わあ! お山が広がったよ!―― 「ほら、あっちの神様達とも一緒に遊ぼう?」  指を指し示せば、きょとんとする黒緋と翳狼(かげろう)を呼ぶ柚葉の上を流れるように絢風が飛ぶ。子供達は絢風の落とす光の粒を追って、よほど楽しいのか、ぽよよんと地を跳ね進む。 「伴侶様? 遊ぶって? 私も?」 「もちろん。紫苑の言う事を聞けと言ったろうが。知っているか? 遊ぶのはな、大人数が良いんだ。だるまさんがころんだ、とかな」 「へ?」  黒緋のマヌケな声に、柚葉の肩と翳狼の尾が小刻みに揺れる。 「こうなるなら朱殷(しゅあん)も呼べば良かったな」 「大騒ぎになっちゃうから、子供達がびっくりしちゃうかもよ?」 「この人数でもあの子達の願いは叶えてあげられるでしょう。飛影が戻れば、花を見に参りましょう。その道すがら、あの子達が喜ぶものを見せてあげたいものですね、主人(あるじ)」  子供達の目には翳狼はどう映っているのだろうかと振り返ると、穣安の背後に隠れるようにちんまりと浮いている。穣安なら守ってくれると心から信頼しているようで、育て弔ったと言っていた穣安の情の深さと子供達の彼への信頼が垣間見えた気がした。 「大丈夫。狼だけど怖くないよ。すごく優しいんだ」 「背に乗せてあげたいくらいです」 「おい天狗、お前、その子達を抱いて翳狼に乗れ」  それは名案! と翳狼が顔を上げると、ふふん、と満足そうに笑う柚葉がいて、振り向けば目を見開いた天狗の穣安がいて、俺はそれだけで笑ってしまった。 「さ、穣安さん、乗って乗って!」 「いや、しかし、神の御使いになんともったいない事かと」 「翳狼、飛影の匂いは追える?」  くふん、と甘えて鳴く翳狼の目は当然だと言っている。 「じゃ、飛影を迎えに行きつつ、山歩きにしよう!」  春の陽射しが心地良くて、浮いた気分で絢風を肩に乗せて歩き出すと背後でまだ言い合っている声がする。  柚葉を歩かせるなんてと遠慮する穣安に、早く乗れと急かす柚葉に、オロオロしている黒緋に伏せで待つ翳狼。    「はーやーく! 飛影が戻って来ちゃうよ」 「俺は紫苑の言うことを聞け、と言ったよなぁ?」  子供達の手前、一応は笑みを保ってはいるけれど柚葉の威圧はなかなかのもので、穣安は何度も頭を下げながらやっと翳狼に跨った。 「頑固で困る」  あっという間に隣に並んだ柚葉は深い溜め息と同時に俺の手を掴む。 「さて、翳狼。俺達はお前について行こう。案内を頼むぞ」 「お任せを。こちらから飛影の匂いが漂います。参りましょう。穣安殿、お子達の言葉があればお教えください」   歩き出した翳狼はたまに道端に咲く花の前で足を止め、蕾の膨らんだ木蓮の前で足を止め、陽の光をたっぷりと浴びながら殊更ゆっくりと歩を進めた。黒緋は律儀に三歩下がってついて来る。並んでくれてもかまわないのに、とは思うけれどきっと彼からしたらとんでもない事なのだろうから黙っておく。  少しずつ、仲良くなれれば良いよね? 「今度は仕事じゃなくここへ来よう。その時に黒緋には色々と案内してもらおうじゃないか」 「あ、それ良い!」  旅の名目でなら、きっともっと砕けて、仲良くなれる気がする。 「この辺りの名物や美味いものを調べておくように言っておくよ」  高野豆腐が真っ先に頭に浮かんだ俺を察した柚葉が声を殺して笑う。 「笑わないでよ。苦手なんだから」 「知ってる。しかもものすごく残念そうな思いが流れてきたから、なんだかおかしくて」 「食べられないわけじゃないもん」 「ほーぅ?」  なんだか近々夕食の食卓に上りそうな気配に慌てて柚葉を見上げる。ニヤリと笑うその顔はやはり何か企んでいそうで、どうしたらその企みを阻止できるのかを考え始めた時、頭上をさぁっと影が走った。  バサバサと馴染みの羽音が徐々に近付いてきて、嘴に立派な花をつけた桜の枝をひと枝咥えて足元に舞い降りた。    屈んで飛影から桜の枝を受け取ると、柚葉と桜の見事さに見惚れた。そして気付く――。 「まさか、折っちゃったの!?」 「なんと! 私がそのような事をするはずがないのだ! その桜はこの山の神……大変美しい女神様からいただいたのだ。我が子達を救う道を選んでくれてありがたい、とのお言葉。お伝えしたぞ、主人」 「そっか。ありがと、飛影。翳狼、待って! 穣安さん、これ、山神様からいただきました!」  高野の山神様からの贈り物は、満開の大山桜。  はしゃぐ子供達の想いに、絢風がぽそりと呟く。 「紫苑様。想いが満ちてゆきます……美しい色をまとって変わってゆきます。どうか……」  そう、だね。  美しく、優しい想いを胸にまた深い眠りにつける事を心から願うよ。  

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